温泉への山道

新巻へもん

煩悩で登れ

「それじゃあ。しゅっぱーつ」

 今日もミキは元気がいい。お天気はあいにくの曇り空だが、ミキの周囲だけは晴れ間がこぼれているかのよう。ちょっと眩しい。まあ、それは俺の疚しさも含まれてはいるのだと思う。おかずにしたことは本人には絶対知られてはならない。


 今日はミキと二人で箱根に来ていた。温泉街の建物の屋根を見ながら旧街道を登っていく。年末年始の駅伝のコースになっている国道1号線ほど通行量はないけれど、時々自動車が追い越していった。梅雨の合間の空気は湿度が高くて、少々肌寒い。それでも登り坂を進むうちに体が熱くなってきた。


 途中からアスファルト舗装の道からそれて木々の生い茂る歩道に分け入っていく。勾配がきつくなり、呼吸が荒くなった。ジョギングをしていて良かったと思う。そうでなければミキについていくのはちょっと厳しかったかもしれない。さすがに汗はかいているものの、ミキは涼しい顔で急な階段をとっとと登っていく。


 平坦になっているところで小休止した。俺は水を取り出して飲む。ちょっと暑くなったのか、ミキはパーカーのファスナーを引き下げる。中は胸ぐりの深いTシャツで、なかなかに大胆な姿だった。ミキは手でパタパタと風を送っている。不意に俺の方を向くとニッと笑った。


「すけべ」

「仕方ないだろ」

「否定はしないんだ」

「もろバレしてんのに嘘ついてもな」


「開き直った。昔はごまかしたのにねえ」

「つーか。他の人の前ではそんな格好するなよ」

「どうしてよ? ふーん。ヤキモチか」

「そうだ。悪いか」


 ニヤニヤ笑っていたが、向こうから降りてくる人影が見えるとファスナーを引き上げる。小首をかしげて、これでいいんでしょ? というように俺を見た。俺は黙ってペットボトルを差し出す。顎をあげてコクンと飲み下す喉のラインが汗に光っていてなまめかしい。


 動かないでいると体が冷えてくる。再び急坂をえっちらおっちらと登り始めた。濃い緑の中を進むのは気持ちいいが、新緑のむせ返るような匂いは嫌でもアレの匂いを連想させる。意識しすぎなのかもしれないが、今夜はミキと温泉泊の予定になっていた。宿では部屋に専用の露天風呂もついている。


 視界が開けると、茅葺屋根の立派な建物が目に入った。お茶屋さんだ。入って甘酒を頼む。甘すぎないさらりとした味と暖かさで元気が出る。地図を確認するともう三分の二の行程は消化しているはずだ。最後の登りもなかなかに辛かったが、この後のことを考えて頑張った。


 木々の間から芦ノ湖が見える。水面を帆船を模した派手な色の遊覧船が走っていた。あいにくと富士山は見えなかったが、ようやくたどり着いたという安堵の思いで伸びをする。

「はあ。やっと着いた」


 ミキが振り返る。

「まだだよ。ここから湖畔までの下りもあるし。下りの方が膝にくるからね」

「これぐらいの距離ならなんとかなるよ」

「ちなみに、今日のお宿までは湖畔を……そうだねえ、2キロぐらいは歩くよ」


 途端に足が重くなる。俺は重大な勘違いをしていた。宿の温泉施設にばかり気を取られて、正確な位置を把握していなかったのだ。漠然と湖畔だろうと考えていたのが甘かった。ミキは跳ねるような足取りで引き返してくる。

「さあ。頑張れ。あと少しじゃんか」


 まだゴールは遠いと知って疲れがどっと出た俺を憐れむ視線を向けてくる。ミキは俺の耳元に口を寄せる。

「早く宿につけば、それだけ一杯ゆっくりできるんだけどねえ」

 俺の考えなど全てお見通しだった。そうだ。あと2キロちょっとなどものの数ではない。いざ行かん露天風呂へ。

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