最終話 永劫回帰
エピローグ
一人の少年がある男を見つめていた。その男は仰向けに倒れており、胸には深紅の小さな空洞が出来ていた。
少年は男の顔を見て疑問を抱いた。何故この男はこんなに晴れやかな顔をして死んでいるのかと。
男の表情は希望に満ち溢れていて、何か大きな目標を達成させたかのように、すっきりとしていた。
そして次に少年の心に芽生えたのはその男に対する既視感だった。頭に何本かの白髪を交えた、おそらく三十代後半くらいの男であろうその死体を少年はまじまじと見つめた。
ふと周りを見渡すと、辺りは白い靄が掛かっていた。自分の居場所すら分からず、困惑の中で少年は一つのある確信を持った。
この男は僕だ。
いや——私だ。
その少年は、自分の頭の中にどっと何かが入り込んでいく感覚を覚えた。
何故私の目の前に私がいる。
私は先刻まで弟と対峙していたはずだ。そして勝った、圧倒的な勝利だったはずだ。イツキが膝をついた姿を確かに見た。なのに何故、私の死体がここに転がっている!
少年は自分の体の至る所を確認した。若々しい肌、まだ成長しきっていない四肢。これはどうなっている? 私の身に一体何が起こった?
そうか、これは夢か。
少年がその感情を確信した途端、彼は自分の体が上方へと浮上し、天空から何者かに引っ張られているような感覚に陥った。しかし、彼の体は浮遊しておらず、彼の意識だけが体から抜け出ていた。彼は幼い自分の体を俯瞰で見つめながら、その薄れゆく意識のまどろみに身を委ねた。
「おーい兄ちゃん、母さんが荷物持ってほしいってさ」
少年は、活気のある無邪気な声によって目を覚ました。彼はソファーに寝転がっており、自分が今までうたた寝をしていたことを実感した。
彼は眠い目をこすりながら、部屋中を見渡し、昨日も一昨日も見ていたであろうその目に映る部屋中の風景を懐かしげな表情で観察した。
「あれ、なんか夢を見ていた気がするけど、思い出せないな」彼はそう呟き立ち上がると、眉間をつまみながら先ほどの声の主がいる玄関先へと向かっていった。
玄関に着くと、そこにはパンパンの袋を両手に持ちながら、笑いあっている少年の母と弟がいた。母親は少年古田イオリに気が付くと屈託の無い笑みを彼に向けた。
「半額セールだったから買いすぎちゃったわ」
少年は母親の手元にある買い物袋を持ちながら彼女を気遣った。「重たそうだね。持つよ」
「ありがとう」そういうと母親はまた玄関から外へと出ていった。まだまだ荷物はあるらしい。
少年とその弟は荷物を持ちながらリビングへと向かった。八畳ほどのリビングには大きなダイニングテーブルとその横にソファーが備え付けてあり、天井のオレンジランプが部屋全体を暖かな光で包んでいた。
「お前の荷物重そうだな。そっちも持とうか」
「大丈夫! これくらいへっちゃら!」少年の弟である古田イツキは元気いっぱいの表情でそう返した。
二人はテーブルに荷物を下ろした。そしてイオリはその商品を丁寧に並べ、それをいつもそれがあるような所定の位置に置いていった。パンはキッチンに、調味料は棚に、ベーコンと卵は冷蔵庫の中にといった具合に。
荷物を片付けると、イオリは玄関先に向かったイツキを優しい表情で見送った。
「重い荷物持てて偉いねぇ」玄関にいる母親がイツキの頭を撫でた。イツキは「兄ちゃんが持っていたやつよりも重かったよ!」と自信満々の可愛らしい幼子特有の笑顔で母親に向かって言った。イオリはその光景をリビングから眺めていた。
彼の心の中でほんの少しの——とても些細で幼い——嫉妬心が芽生えた。
僕が小さかった頃もああやって褒めてもらっていただろうか。
物心ついた時から僕はもう「兄」でイツキは「弟」だった。僕は弟の世話もできるし、家のこともちゃんとできる。でも、それは母さんにとっては当たり前で、特別なことではないんだと思う。弟はやんちゃで泣き虫で、いつも母さんがそれを宥める。いつもそうだ。僕のことをちゃんと見てくれない。イツキのことばかり注目していて、僕にはまるでそういった視線を送ってくれない。
兄としての責任と母親への承認欲求、二つが交じり合った歪な感情の波が絶え間なく彼の心を揺らしていた。
次の瞬間、彼の頭の中に多大な記憶情報がなだれ込んできた。
彼の少年時代、青年時代、そして大人になってからの記憶。まだ彼が体験していないはずの記憶は彼の意識を子供から大人へと変貌させた。
彼は走り出して洗面所へと向かった。彼が鏡で自分を見つめると、そこには少年の姿はなく、骸骨があった。彼がそれを見つめたその刹那には、その骸骨は幻のように消えていき、消えた後には少年の姿が映し出された。
とても長い、遠い先のヴィジョンを見ていたようだな。彼は心の中でそう呟き、にやりと笑った。余りにも長いそのヴィジョンをのぞき込んでいたら、意識が飲み込まれてしまったようだ。だが、まさか自分が弟と殺し合いをするようになるとは思いもよらなかった。イツキが私にとっての最大の障害になりうるとは——
今のうちにイツキを殺しておくか、と彼は思いついた。例えば、二人で川に遊びに行くのだ。それも深い川だ。私が面倒を見るからと言えば両親も承諾してくれるだろう。そこで私はイツキに挑発をして水泳対決を申し込むのだ。あいつはすぐにそれを受けるだろう。だがあいつの体はまだ幼い。きっと途中で体力を使い果たす。あいつは俺に助けを求めるが俺はもういないのだ。いないふり、もしくは助け声が聞こえないふりをする。それであいつは死ぬ。両親には咎められるだろうが、それでも構わない。俺の生きた未来はそれで確定するのだ。
何故、未来の私はイツキに拳銃を渡したのだろうか、確実に勝利できたはずなのに。正々堂々の勝負を望んでいたのか、それとも勝利を確信して油断したのか。理由はわからないが、未来を知った私はあのような愚かな行為はしない。確実な未来、確実な勝利を手に入れるのだ。
思考の最中、彼の脳裏にある疑問がよぎった。
私はいつメメントモリを手に入れた? いつ誰からこの叡智を授かった。ヴィジョンの中では確か、大学時代に村田教授からその力を分け与えられたということになっていた。しかし、今の私はまだ村田教授に出会っていない。「今」の私は誰からこの力を授かった?
彼は何度も過去の記憶を辿った。彼の記憶。ヴィジョンから見たものではなく、「今」の記憶を何度も頭の中で再生させても、メメントモリを手に入れた痕跡は見つからなかった。
おかしい。矛盾しているぞ。この世界と、この私は矛盾している。私は何故ここにいる。ここはどこだ!
彼はもう一度鏡を見つめた。そこには骸骨ではなく、成長し、多少の老いを纏った古田イオリが映っていた。その瞳には輝くはなく、胸には血の弾痕があった。
彼にヴィジョンが降り注いだ。まただ。私がイツキと共に横たわっている。どの選択肢も同じ。全ての選択肢が同じ未来を物語っている。そして私が見ているのは——見ていたのは——ヴィジョンじゃない! 現実なのだ! あれが現実で今は現実じゃない。どこかに閉じ込められてしまった。逃れようのない、死の時間軸に囚われてしまったのだ!
少年の心に虚無が訪れた。少年は全てが無価値であることを悟った。全ての感情も、行いも、時間も、全ては確定した未来において無に還る。しかも、それは逃れることのできない未来。死の確定した絶望の未来であることを少年は知った。
少年の異変に気付いた母親が、彼に近づいて言った。「あらイオリ、ここで何をしているの?」
少年は消えいくような意識の中で呟いた。
メメントモリ(死を思い出せ)。
〇 〇 〇
花咲き乱れる春の季節、大学二年生の古田イツキは、大学図書館の一角で読書に耽っていた。
彼の手元にある本の表紙には、『ツァラトゥストラ』という題名が、モノクロの作者の顔写真と共に添えられてあった。彼は思った。まさに、この本に書かれていることが、俺の身に起こっているのだと。
その本の中には、『永劫回帰』という概念が、ある一人の聖者によって語られていた。
その概念は、とても簡単に表現できるものではないが、つまるところ、人は何度だって同じ「生」を繰り返す、というものだった。天国や地獄、輪廻転生といったものはなく、人は死んでも、何処か違うところにいくのではなく、また戻ってくるのだ。自分が生きた人生に。
寛いだ姿勢でページを捲っている彼のもとに、うら若き乙女が颯爽とその姿を現した。
「また本読んでる。真面目ねぇ」
白いノースリーブと薄ピンクのロングスカートで可憐に彩られた藍澤カレンが彼に向かって言った。それは本音であると同時に賞賛でもあった。彼女は、それほど本に対する情熱や興味というものを持ち合わせてはいなかった。
「意外に面白いんだよ。ちょっと小難しいけどね」
彼は爽やかな顔で返答した。そして彼女の顔を見やって、その姿を、その眼に焼き付けていた。
図書館内に、鐘の音のような、厳かチャイムの音が鳴り響いた。彼はその音を聴いて思った。そういえば、結婚式は挙げていなかったなと。
彼は未来(ヴィジョン)を手繰った。意識内に現れたスクリーンには、数えきれないほどの未来の時間が描かれており、その中で彼は見つけた。自分と藍澤カレンが式を挙げている未来を。
そして、彼はその先の未来までをも観た。やはりそこには、自分と兄の死体が映し出されていた。数多ある未来の選択肢の全ては、その宿命へと帰結している。彼らの運命は、あの時の戦いによって既に確定しており、それは逃れることのできないものになっていた。
だが、彼は絶望してはいなかった。
何故なら、彼の死に際の願いが、今まさに現実のものになっているからだ。
「もうすぐ授業ね。一緒に行きましょ」
彼女にそう言われたイツキは、立ち上がって、『ツァラトゥストラ』を所定の位置へと戻した。
この本と同じように、俺の人生も元あった場所へと戻ってきたのだ。あるべきものが、あるべき場所へと戻っていくのと同じように。そう彼は心の中で呟いた。
彼らは図書館を出て、講義が行われる棟へと繋がる、木々がアーチ状に植えられた並木道を歩いた。隣り合わせに歩いている彼らのその手は、繋がれてはいなかった。だが、イツキは知っていた。それがこれからの未来において、繋がれるものになるということを。まだ彼女はそのことを知らないが、俺にはそれがそうなっていたという記憶がある、と。
空風(からかぜ)が吹いて、彼女の髪を靡かせた。天上で沈黙していた緑葉は揺れだして、その隙間から溢れた木漏れ日が、彼女の表情を色鮮やかに映し出していた。
その姿を見て、彼は思った。
たとえ、死の運命が確定していようとも、俺はそれを受け入れよう。何度だってこの「生」を授かろう。そして何度でも、カレンと出会うのだ。そしてこれからの「生」は、自分自身で生きていくのだ。兄の幻影を取り去って、自らの人生を歩んでいく。
彼は前を向いて、そこにある道を、そして、運命によって定められた自らの人生を、歩み始めた。
memento mori 街田侑 @gentleyuki
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