第4話 覚醒


 深海だ。

 無重力とも思えるその空間では、息をすることも動くこともままならない。深い誰も入ることのできないその場所で、僕は一人で腰かけていた。

 いや腰かけているのは僕ではない。僕はそれを見つめている。

 あれは兄だ。僕が作り出した幻想。僕が僕であるために生み出した妄想の産物。それが僕を支配していた。

 僕の全ての感情が彼から——兄の幻影から——生まれ出たものなのかもしれない。カレンを愛したこと。母を憎んだこと。錦に友情を感じたこと。全ての心的態度。それらすべてが、僕の選択ではなく、彼の選択だったのではないのか。嘘から出た真。偽りの記憶で彩られた兄に憧れ、ひたむきにそれを真似た。しかしそれは真実の俺じゃない。本質はどこへ行った。俺の本質は——

 いや、もう既に分かっている。兄を見つめる俺自身がそれなのだ。俺はあれを客観視している。眼差している俺が俺だ。やつを眼差している俺を俺は認識している。つまり——

 われ思う故にわれあり、だ。

 やっと自分の感覚を取り戻した。ずっと何かに身を任せていたのだ。自分ではない誰か。それも誰でもない自らが生み出した幻影に——


〇 〇 〇


 気が付くと、目の前で村田が何か意味のわからないことを喚きたてていた。「死ぬのか、死なないのかはっきりするんだ! お前はどうなるんだ!」

 なるほど、と俺は思った。

 さっきまでのことは一つの短いコマーシャルだったのだ。こういう死に方もあるよ、という丁寧な通信販売員が教えてくれた一つの選択。俺の運命の中にあった、死の未来(ヴィジョン)。だが、どんな強烈なコマーシャルだって、それが売れなければ意味はない。俺はその選択肢を棄てた。

 こめかみに当てていた銃をゆっくりと、村田の方へ向けた。村田は目を見開き、歓喜の声をあげた。「そうなんだな! お前も到達したのだ! 死の先の境地! 完全なる死の克服——」

 俺は村田の額を目掛けて、引き金を引いた。

 村田から出た赤い体液を浴びながら、俺は自分のなすべきことを考えていた。

 復讐か? いや誰に復讐しようというのか。カレンは誰かに殺されたのではない。彼女は自分で死の選択をした。メメントモリによって、示された死の運命を受け入れた。

 それならば、全てはこの病魔が原因なのだ。この病魔を根絶やしにするほかない。

 まずはあいつだ。兄を騙った教祖。いや、既に兄ではなくなった何か。何故なら俺の中の兄は死んだのだ。メメントモリによって。

 静寂が訪れた。村田もカレンも——僕だった——俺もみんな死んで、この空間には二つの肉の塊と俺だけが残った。他者が奏でる不協和音は消え去って、唯一人、俺の内から鳴り響く脈拍だけがテンポよく俺の生命の証明をしていた。

 静寂を遮るように玄関から物音が聞こえた。人間の気配を感じ取り振り返ると、そこには一人の男が立っていた。しかもそれは俺が一度見かけた人物。あの淀んだ空気漂う馬鹿げた集会に参加していた、しがないサラリーマン風の中年だった。

 中年の男は動揺した様子で声を発した。「お前が殺したのか。村田誠二を」

 中年の手元には拳銃が握られていた。「俺は桑原五郎。特殊警察隊諜報部の捜査員だ。お前は今ここで二人の人間の命を奪った。それで間違いないか」

「村田は俺が殺した。だがカレンは——妻は自分で命を絶ったんだ。それも全て俺のせいだがな」全ては俺のせいなのだ。その償いはしなければならない。教祖の死をもって。

「なんでもいいさ。村田誠二、我々がマークしていた【死の天使集会】の重要人物。あいつがいつどんなことをするのか追っていたが、まさか奴が殺された殺人現場に出くわすとは思いもよらなかったよ。お前も今日の集会に参加していたな。しかも教祖の間まで案内されている。今すぐ連行して、洗いざらい吐いてもらうぞ」桑原は俺が持つ拳銃を鋭い眼で見つめていて、顔には緊張の色が見えた。

「悪いが俺はいかなきゃならない場所があるんだ。お前に付き合っている暇はない」

 俺は彼が遮っている玄関口の方へと歩みだした。

「動くな!」桑原が射撃体勢に入った。訓練された素早く無駄のない動きでその銃口を俺に向けた。だがその手元は揺れていた。動揺と緊迫感が彼の肉体をコントロールしている操縦桿を乱雑に振り回している。そんなことで俺を殺すことができるのか?

 いや奴は、俺を殺そうとは思っていないように思う。俺の動きを封じたいだけなのだ。だが、その命を奪う不条理を具現化したような物質はその目的に反して余りにも強大すぎた。打ちどころによっては速やかに対象をこの世から抹殺してしまう殺人兵器。それは、彼の意志とは無関係に俺の命を刈り取る。彼は俺を殺すこと、殺さぬこと、この単純な二択すら自分では決められないのだ。自らの意志決定が現実に反映される際に、それが思い描いたものにならないという不安に襲われている。

 俺は桑原に構わず歩き出した。奴が発砲して俺が死んだのなら、もうそれはそれまでだ。それに対する恐怖など、今や有りはしない。

 桑原が震える指先で引き金を引いた。

 桑原の拳銃の中で装填された薬莢が凄まじい音と共に爆発し、弾頭が俺の胸部目掛けて銃口から打ち出されたその刹那を、俺は見た。

 見えている、その瞬間が。

 打ち出された鉛玉がまるでスローモーションのようにゆっくりとこちらに近づいてきた。スローモーションよりももっとゆっくり、まるで時が止まったかのような感覚の中で、数々のヴィジョンが同時多発的に俺の脳裏を通り過ぎていく。まるで全く同じ内容の映画フィルムが目の前に散らばっているような情景。しかしよくよく眺めてみると、それは少しずつ違った未来を映し出していた。そして見つけた。唯一の、一枚だけ違うシーン。そのヴィジョンの中には未来があった。死を覆す未来。錦もカレンも選び取ることのできなかった「生」の未来が確かにそこにあった。今やすべては選択可能であるということを俺は知った。死ぬことも生きることも、全ては俺の手中に収まった。

 俺は選び取った。生きた未来。鉛玉が俺の真横を通り過ぎていく未来を。そしてそれは現実に、現在になった。

 俺は桑原に近づき、銃把で奴の眉間を勢いよく殴りつけた。

 勢いよく倒れた桑原には、もう意識はなかった。

 今一度舞い降りた静寂。その中で俺は確信した。奴を殺せる。今や全存在の「生」と「死」は俺の思うがままだ。


〇 〇 〇


 雨がしとしとと降り注ぐ暗がりの空の下で、俺は昼に訪れた寂れたオフィスビルを見つめていた。四階の窓からは光が漏れ出ている。まだ奴がいるという確信を持って、俺は吹きさらしの階段を上り始めた。雨が布生地を通り抜けて、俺の体温を奪っていった。

 ドアを開けると黒スーツを着た屈強そうな男が二人、目の前に立ちふさがっていた。

 両者ともにサングラスを付けて、ワイシャツ越しの首元には何か入れ墨のようなものが垣間見えた。男たちの手元には黒光りした光沢のある拳銃が握られていた。

「お前、誰だ。不法侵入って言葉知ってるか?」片方の男はおちゃらけた口調で俺にそういった。

 見るからに一般人ではないことが分かった。その腕っぷしと度胸だけで生計を立てているような輩。ヤクザか何かの反社会的勢力に与するものだと思う。

 村田のような男が何故、この法治国家の中で拳銃を隠し持っていたのか、だいたいの想像がついた。こういうやつらがバックに付いていたのだ。まるで漫画かなにかじゃないか。

 俺はこの状況が少々馬鹿馬鹿しく思えてきた。俺はクスっと笑みを浮かべた。全くもって現実感の無いこの状況で笑わずにはいられなかった。

「死にたいようだな」もう片方の男が口を開いた。このセリフもそうだ。何もかもが現実感の無いフィクションのようなものに感じる。

 男たちはほぼ同時に、その固く握った拳を俺に振り回した。だがその強く振り下ろした拳は空を切った。別に俺には格闘技の経験なんてものはないが、全て見えているし、それはゆっくりに感じるのだ。そんなものはとうてい当たるはずがない。

 時間が収束していく感覚を覚えた。様々な未来(ヴィジョン)から一つを選び取る時、その感覚はやってくる。時が止まった景色が一気に現在へと引っ張られ、選び取った時間がそのまま上映される。俺が選び取ったのは、二人の拳をかわしながら、彼らの左胸部に銃口をゆっくりと当てて引き金を引くシーンだ。その一枚のフィルムは現実となり、現在となった。

 俺は既に死体となったその二人から背を向いて、奥にあるドアに向かった。


 ドアを開けるとやはりそこに奴はいた。カレンが死んだ元凶。メメントモリを世に広めようなんて馬鹿げた思想を持つサディスト。古田イオリ、俺の兄だった男だ。

「警察のお世話になったんじゃないのか」俺はイオリに近づきながらそう質問した。

「ああ、昼頃にやってきたお客さんなら、私の話を聞いた途端に、家族に会いたいとか、大切な人のそばにいたいとかなんとかをぼやきながら、皆帰っていったよ。きっと今頃は——もうこの世に居ない」イオリは身に纏っている質素なジャケットの内側に手を入れた。「それよりも、そこに居た二人はどうしたんだ?」ジャケットから出てきたのは鉛色をした拳銃だった。そしてイオリは余裕綽々といった表情で俺を見つめた。

「殺したよ。邪魔だったからな。お前もすぐ同じになる」

 俺は拳銃を構えた。奴も同じ動作をし、ほぼ同時に銃弾は放たれた。そしてその瞬間に凍り付くように固まった時間の中で、俺は選んだ。あいつは死に、俺は生きている。単純明快な選択だ。これ以上に無いくらいに明白な決着。奴の体は血飛沫を上げ、俺は向かってくるその弾を寸でのところで避ける。これで終わりだ。

 時は収束した。俺は生きていた。選び取った未来は現実となったのだ。

 だが、イオリは倒れていない。奴は生きていた。

「お前もそこまで到達したようだな。自らの未来を選び取ることのできる境地。人類の次の段階に」

「どういうことだ。俺は選び取った! お前が死ぬ未来を。何故お前は死なない!」

「私も選び取ったのだよ。私が生きる未来を。そしてそれは現実になった」奴はもう一度拳銃を身構えた。

 そして再びヴィジョンが降り注いだ。俺は選び取った選択と同じになるように、体をすぐそこにあるコンクリートの柱へとすべりこませた。

 銃声が鳴り、弾丸は選び取ったフィルムに描かれた通り、俺の体をすり抜けていった。

 奴もこの奇妙な力を持っていた。未来を選択し、この世にある、あらゆる不条理からその身を守る術を。

 この場合どうなるのだ。俺が選び取った選択は棄却されたのか? 奴も俺と同じように選び取ったはずだ。自分が生き延び、俺が死ぬ未来を。その選択はどこに行った。部分的には、たしかに選び取ったものになっている。だが、俺はまだ生きている。そして、奴もまた生きている。お互いの選択の半分は現実となり、半分は棄却されたのだ。

 コンクリートの柱を壁にして、奴にはメメントモリの力が及ばない存在だということを思い知った。何度殺そうとしても半分は現実にならない。どのようにして奴の体に、確実に、鉛玉をくらわすことができるのか。

「いつまで隠れているつもりだよ」コンクリートの壁で反響されたイオリの声が聞こえた。「私とお前とでは、この力はお互いに相殺されてしまうようだな。さっきわかったよ。そして確信したよ。全人類がメメントモリを手に入れた時、やっと人間は不条理から解き放たれるのだと。個人の意識が他者の意識とぶつかり合ったその先にこそ、真の時間が生まれる。今がまさにそこだ。この力を持たぬものは皆、不条理から逃れることが出来ない。死を克服できていない。全ての人間にこの叡智を授けなくてはならない。例えどんな犠牲を払ってでも!」

「そんなことのためにカレンは死んだのか!」

「お前の奥さんについては気の毒だったな。死の衝動が発動するまでの猶予期間がとても短かったのだよ。破壊か虚無の感情に覆いつくされてから、その発作は起きるものだが、彼女はそのどちらにも陥らずに自殺した。死へと至る心的プロセスが彼女にとってはとても簡単な構造になっていたのかもしれないな。それとも死ぬ理由を見つけたか」

 俺は奴の口を塞ぐために、柱の陰から出て引き金を引いた。だが、弾丸はイオリの体にはかすりともしなかった。どんな選択肢を選んでも、奴には通じない。

 早く目の前の男を殺さなければならないという、その確固たる意志だけでは奴を殺せないということを実感した。もう引き金を引いても銃声は鳴らないのだ。弾切れ。万事休すか——

 俺はイオリを見つめた。奴は拳銃を構え、勝ち誇ったかのようなにやけ面をしている。

「もう終わりか、面白くないやつだな」そういうと奴は内ポケットから拳銃を取り出して、それをコンクリートの床に滑らせるようにこちらへと渡してきた。

「どういうつもりだ」これは挑発のつもりなのか? 勝利への確固たる自信がそうさせているのか?

「『西部のガンマンごっこ』を覚えているか。これくらいの距離だったよな。ちょうど五メートル先にいる相手を打つようにしてやっていたと記憶しているが」

 俺は銃を拾い上げ、安全装置を外して遊底を引き、奴に銃口を突き付けた。

 この遊びだけは、現実の俺たちの関係性の中にあったようだな——俺は心の中でそうひとりごちた。

「お前と私、どちらかが死ぬまで撃ち合おう」奴の顔は自信たっぷりだ。まだ自分が死ぬだなんて微塵も思ってもいない、そんな感情が見て取れた。

 俺たちは同時に引き金を引いた。

 もう俺は死に物狂いで拳銃を連射した。イオリも何発もの弾丸を俺に放った。止まった時の中で、俺はまっすぐに向かってくる弾丸の軌道を追った。そして溢れてくるヴィジョンは、俺の動きに何パターンもの選択肢を与えていた。奴ならどんな選択肢を取る? 俺を確実に殺す選択肢を選ぶだろう。そしてあいつは生き残るのだ。転がる俺の死体を上から見下ろして、勝利の余韻に浸っている未来(ヴィジョン)。これを選ぶだろう。だが、奴の選択も半分は現実にならない。もう半分は俺に決定権がある。

 俺は選び取った。きっとこれが俺の最後の選択になるだろう。もうこれ以上、未来を垣間見ることもない。どうせ半分は棄却されるだろうが、もう半分は現実にさせてもらう。

 選ばれたヴィジョンは作動し、それがそうなるように時間は動き出した。数多の弾丸が俺の体を貫く。だが、激痛が走るその最中でも、俺は忠実にそのヴィジョンに映し出された動きに従い、奴の体に弾丸を放った。

 現在の時間が確定していた。俺の体には至る箇所に風穴が空き、そこから生温かな血液が勢いよく流れ出ていた。もう立つことさえままならず、俺は重力のままに膝を地面へと打ち付けた。

「ふん、私の勝ちだな。お前はここで死ぬ。みずぼらしい死体となって、朽ち果てていくのさ」イオリはにやりと笑った。勝利を確信し、自信満々の笑みだ。まるで大きな目標を達成させたかのような、すっきりとした表情。

 そしてイオリは背中からばたんと倒れた。

 奴は自分が死んだことすら、意識することが出来なかったろう。胸元に打った一発の弾丸。それはあいつを殺すには十分なものだった。

 奴は自分が死ぬという選択をことごとく放棄したのだ。俺を殺すことよりも、自分が生き残ることを優先していた。

 だが俺はそうじゃない。

 俺も死に、あいつも死ぬ、そういう選択をした。イオリが選択した、俺が死ぬというその半分は現実になったが、もう半分は俺が選択させてもらった。結果として、俺の選択は全て現実になったがな。


 俺の体は力なく地面へと崩れ落ち、頬には冷たい感触が伝わってきた。この感覚ももうすぐ途切れるのだろう。待ち望んだ安楽の状態。死が、目前まで迫ってきていた。

 様々な記憶の断片が頭の中を駆け抜けていく。全く信用ならない不確かな記憶の束が何層にも積み重なって、過去から現在への俺の人生を飾り立てていた。兄の幻影に支配されていた俺が紡いだ歴史。それは全くもって感動的なものではなかったにせよ、一時は幸福な時間があったように思える。カレンと過ごした時間と彼女への愛は、まぎれもなく俺のものだったと、そう信じたい。

 死後の世界はあるのだろうか、とふと思った。もしあるのならば、——あるわけがないのだが——もう一度、カレンに会いたい。そう強く願い、俺は瞳を閉じた。




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