第3話 邂逅

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駅内の群衆をかき分けて、一人の青年が僕の元へと向かってきた。真夏にも拘わらず、厚手のカーディガンを羽織った彼を見やる。茶色の、仕立ての良い服だ。普段ならそんな洒落た服を見れば、その持ち主がファッションに精通した格好の良い洒落者だということを思うのだが、僕が見ているその彼に対しては、そんなことはとても思えなかった。骸骨がどれだけ上等なものを着こんでも、それはとても滑稽で、悪い夢でも見ているかのような気分になるからだ。

「ちゃんと来てくれてうれしいですよ。古田さん」

 骸骨からひょっと顔を出した錦がさわやかな笑顔で僕を出迎えた。メメントモリの意識下で見る骸骨は一瞬にして消え去るが、彼の周りから漂う「死」の気配は彼の傍を離れなかった。さわやかな笑顔がそれをより引き立てている。

 地図に示された駅の中には、多くの骸骨がその存在感を発揮しながら、まるでファッションショーでランウェイを歩くモデルのように堂々としていた。多くの人間がメメントモリを持ちながら社会に潜んでいる。おそらく、この近くにその宗教団体の本拠地があることも関係しているだろう。

「早く目的地へ向かおうか。悪いがそんなに時間はないんだ」

「では、向かいましょう」

 僕と錦は地図に記された通りの道を行き、目的地へと向かった。都心の一角に面した宗教施設で、それは大層な外観かと思いきや、たどり着いた先はただのオフィスビルだった。

 しかもそのビルには、他のテナントが一つも借り出されてなくがらんとしており、周りの店もシャッターが閉まっていて閑閑としている。多くの人間を病魔にとり憑かせた悪魔の巣窟のような場所をイメージしていたが、そうではなかった。駅で見た大勢の骸骨から考えるに、多くの信者を持ち、金銭面でも潤沢なものだとばかり思っていたが、お布施やら献金やらの方法で信徒から金を巻き上げる類の宗教組織ではないらしい。

「ここの四階です」錦が僕を階段まで案内したが、重要なことを思い出して足を止めた。

「原稿は持ってきたのか」僕は錦と会う約束をしたとき、原稿を持ってくるように先に言っておいた。彼がこの先漫画を描いていくのか、それとも漫画を描くことをやめるのか、そのこととは関係なしに原稿を持ってこさせることに意味があった。彼が描くことをやめるという啖呵を切った理由を知らなければならないからだ。メメントモリと漫画を描くこと、その二つは何ら関係のないことだ。今書いている漫画を我が出版社に出してくれればそれは御の字だが、別にそれを書き上げなかったとしても、我が社とは手を切ったとしても、それはそれで構わない。彼はこんな宗教にハマって堕落していい人間ではない。彼には才能があるのだ。もし、あの言葉の理由がメメントモリとこの宗教団体に関係があるのならば、この先の場所でその因果を断ち切らなければならない。そしてそれには彼自身が描いた漫画も必要なのだ。

「ええ、もちろん、このバッグの中に」錦は持っている鞄をパンパンと叩いた。

 僕たちは吹きさらしの階段を上り四階までたどり着いた。モザイクガラスの戸扉越しから人がいることが分かる。それは複数人だが、どうやら大人数というわけではないらしい。

 錦が戸扉を開けると四人の男女が並んでいた。リクルートスーツを着た細身の眼鏡をかけた若い女性と、カジュアルなベージュ色の背広に袖を通し、薄ピンクのタイトスカートをはいた険しい顔つきの女性、そして、くたびれた顔をした、しがないサラリーマン風の中年男性、この三人が安そうなパイプ椅子に並んで座っており、その三人の正面にほっそりとした一人の男が立っていた。

「おお錦君、また新しい信徒を迎えてくれたのですね。ありがとう」

「いえいえ、僕は大したことはしておりません。加納さん、早速ですが始めてください」

 そう言って錦は僕にパイプ椅子を手渡してきた。僕はそれに腰を据えると、加納は話し始めた。

「皆さん本日はお集まりいただきありがとうございます。私は集会のカウンセラーを務めている加納晃と申します。本日、皆さんは自分の意志でこちらに来ていただいたと思いますが、その目的は単純に今皆様が抱いている苦悩や絶望の解消だと私は考えております。本日は皆様にその悩みを話していただき、それについてのカウンセリングを行いたいと思います」

「私から話してもよろしいでしょうか」リクルートスーツを着た若い女が弱弱しく手を挙げた。

「どうぞ」加納はそれを承諾した。

「私は佐(さ)江(え)凪(なぎ)美(み)琴(こと)と言います二四歳、会社員です」彼女はパイプ椅子から立ち上がり、僕たちに一瞥した。「今日はあるサイトでこの宗教団体のページを見つけたのでここに来ました。私の悩みは死にたいのに死ねないということです。もう生きるのがつらくて、でも死ぬっていうのも痛くて苦しそうなので怖いんです。「死の天使」なんて名乗っているからには、なにか良い死に方を教えてくれると思ってここに来ました。よろしくお願いします」

 それは衝撃的な告白だった。ここまで実直に死にたいと——しかも赤の他人が居る場所で——言えることは並大抵の覚悟ではないと思った。それによく見ると、眼鏡の奥の眼窩にはアイシャドウのような濃い隈を作り、ぴっちりとしたスーツの袖口には、カッターか何かで何度も自傷行為に及んだような痕跡が窺われた。彼女は既に、メメントモリ以前に、重い精神病に罹っているように思われた。

 その後、彼女は矢継ぎ早に自分の身の上話を始めた。

 彼女は幼いことから内気な性格で、親が転勤を繰り返す都合もあって、親密な友人関係というものを形成できなかった。彼女の両親はそのことには気にも留めず、彼女の学校の成績のことばかりを考えていたという。そのおかげもあって高校、大学と苦も無く進学することが出来たものの、仕事を始めてからは「生きがい」というものが分からず、今後の未来に良い展望を描くことが出来ないので、早々に自らの人生の幕を下ろしたい、とのことだった。

 死への恐怖と死ぬことへの欲求、矛盾を孕んだ彼女に対して加納は答えた。

「死ぬのは意外にも簡単なことです。あなたは今、「死にたい」という気持ちを表明してくれましたが、それを他人に伝える勇気があれば「死」を実行に移すことなど造作もないと思います。ただ、君の死にはまだ意味がない。君の全存在をかけた世界との決別が君一人の命の消失で片付いてしまうというのは君の命を無駄にしてしまうことだ。君は確かに死を望んでいる様だけど、死は手段に過ぎない。君は本質的にはこの世界、社会を憎んでいるのだよ。君が生きづらいこの世界が転覆不可能で絶対的なものであるから、そこから逃げ出したいと思っている。そうじゃないのかね」

「……確かにそうかもしれません。私はこの世界が、社会が、現実が憎い。もちろん親も同様です。私にこんな生き方しか与えてくれなかった環境、そして私自身すら憎く思える。」

「なら復讐すればいいじゃないか」

「親を殺せとでも言いたいんですか?」

「いいや、違う。そんな野蛮なことは推奨しないよ。それは法に触れるしね。人ではなく、社会に復讐するんだよ」

「どうやって?」

「社会とはなにか、それは人々の共同体であり、秩序のある空間だ。しかしながら、現実にはそのようなものは存在しない。それはただの概念であり、人が錯覚している共存意識だ。押し付けられたこの概念を、人は否応なく肯定しなければならないし、多くの人間がそれを肯定している。国家や会社、家族に至るまで、大小さまざまな人的コミュニティに人は入らなければ生きてはいけない仕組みになっている。そして、そのコミュニティからはぐれた人間は淘汰されてしまう。君が抗うべき敵は、このような人が生み出し、信じこんでいる概念だよ」

「抗うって……どうすれば?」彼女は困惑の表情で加納に問うた。

「……国家転覆さ」

 一瞬にしてその場に沈黙が訪れた。話を聞いている僕を含めた四人は、意味が分からないといった様子で眉間に皺を寄せている。

「ふざけたこと言ってんじゃないよ!」

 いきなり、佐江凪の隣で話を聞いていた女が加納に怒号を飛ばして立ち上がった。彼女は激しい剣幕で加納を見つめていた。

「私は記者をやっている奥田ってもんだよ。あんたの言葉は全部録音させてもらった。あんたのやっていることはテロ行為の教唆だ。いますぐ、ここに警察を呼んでやるから観念するんだな」奥田は右手に握った黒いレコーダー端末を加納に見せつけた。

「放してください!」奥田に手をつかまれた佐江凪は手を振りほどこうとしている。

「あんた、あんな胡散臭いやつのいうこと気にするんじゃないわよ。あいつはあんたを利用しようとしているんだ。いますぐこんなところ出ていきましょう」

「なるほど、記者が紛れ込んでいるとは思いもよらなかった」加納は淡々とした調子で続けた。「佐江凪さん、その女性も、あなたの敵対者だということを忘れてはなりません。彼女はメディアを使って、社会というものを形成している張本人なのです」

「それはあんたの理屈でしょうが!」奥田は加納の言葉を一蹴し、抵抗を続ける佐江凪を連れて部屋から出ていった。恐らく、ここに居ても埒が開かないと判断したからだ。

 静まりかえる部屋の中で、僕の隣にいる錦は微笑を浮かべていた。

「何が起きているのか理解しているのか」思わず僕はそう口に出した。

「ええ、理解していますよ。ほどなくして警察がここに来る。早く要件を済ませたい」

「要件ってなんだ」

「すぐわかりますよ」

 錦は加納のもとに近づいていった。そして、僕の隣にいる中年は鋭い目つきで二人を見つめていた。先ほどまで呆然とこの場を見ていただけの男の瞳には、何か思惑めいたものを感じられた。まさか彼も関係者なのか?

「申し訳ございません。本日の集会はお開きにさせていただきます。また次の機会に」加納はそっけなくそう告げると、中年は納得した様子で部屋から出ていった。「名前くらい聞けばよかった」ドアが閉まる瞬間に加納はひとりごちた。

「古田さん、こちらへ」錦が僕を奥の部屋まで案内した。「あなたに会わせたい人がいる」


 

 錦に連れられ奥の部屋まで入っていくと、そこはガラス張りの何もない部屋だった。コンクリートの壁と柱が剝き出しの何もない部屋。そこには一人の男が佇んでいた。ガラス越しの町を俯瞰で見つめている男には見覚えがあった。ずっと昔からよく知っている顔。兄の古田イオリがそこにいた。

「兄さんなのか」僕にはまだ確証が持てなかった。十年以上疎遠だった兄との邂逅。それは衝撃でもあったが、同時に疑惑の種を僕の心に植え付けた。「兄さんもここに協力しているのか」

「ここのボスは彼ですよ」錦がそうつけ加えた。「加納さんはただの『土壌係』だ」

 後ろを振り返り加納を見つめた。奴には髑髏が憑いていない。奴はメメントモリではなかったのだ。

「加納君、外してくれ」兄がそういうと加納は部屋を出ていった。兄は懐かしそうに僕を見つめた。それは懐古的な感情と憐みが混じった複雑な——でもどこか見下しているような——表情だった。「久しぶりだな、イツキ」

「兄さん、メメントモリは危険だ。この病魔は人に絶望を与える。しかもその絶望は払拭することのできない致死的な絶望——死に至る病だ」

「これは希望だよ——人類のな」兄は眉間にしわを寄せながら言う。「どこから説明すればいいのやら」

「教祖様、時間がありません。手短に」錦が兄に催促した。兄は考えをまとめたようだ。真剣なまなざしでこちらを見つめた。

「メメントモリは人間の意識に芽生える特異点だ。それは死への観想とメメントモリの発音によって発現する。そういう風に人間は元々出来ている。恐らく神がプログラミングしたんだろう、人間が次の段階に行けるように」

「何をいっているかさっぱりだ」兄の言葉は誇大妄想の産物としか思えないものだ。「これは人を不幸にするだけのただの呪いだ。母さんもそうだった。不幸だ、あんな人間は。虚無の感情の中で死を待ちわびる人生なんて——」

「母さんが?」一瞬兄の表情が鈍った。兄はこのことを知らなかったらしい。だが合点がいったという顔をして話を続けた。「お前も罹っているのならわかるだろう。ヴィジョンによって人は絶望する。だが、絶望の先に人間は大きく二つの感情パターンに分かれる。虚無、もしくは破壊だ」兄は外を指差した。夕日に照らされた街の中に烏合の集団が闊歩していた。大きな旗を掲げ、武装し、どこかへと向かっていく。「あれの行先は国会議事堂だ。政治を暴力で破壊するらしい」まるで他人事のように兄は語る。

「テロの指導者だなんて——イカれてる」

「別に私は何もしていない。彼らは自発的にそうしているんだ。自らの死に意味を見出すために——『生』在る世界を打ち滅ぼし、『死』の世界を作り上げるために」

 暴力が作り上げる荒廃した世界——秩序や倫理といったものが破壊され、無いものとされた——、そんな場所にいったい何の価値があるというのだ。今在る世界を打ち滅ぼしてなんになる? その世界で破壊者たちは何を勝ち取る? 何を得る? この忌まわしき精神疾患は人間をどこに導くというのか。僕は到底理解できなかった。ただ、そのことに対する危機感だけが僕の内を支配していた。これから起こる争い。この世界の住人と世界を破壊せんとする者たちとの最終戦争がもうすぐそこまできているという危機感。

「教祖様、そろそろ時間です」後ろから錦が兄にいった。

「そうだな。新しいお客さんが来る」兄は冷静だった。ビルの外で車が停まる音がした。恐らく奥田が警察を呼んだのであろう。何人もの警察官らしき声も聞こえる。「お前たちは裏口から回るといい」兄はそういうと、錦に目配せした。

「ちょっと待ってくれ、兄さん考え直してくれ。こんなことをして何になる。昔の、優しかった兄さんに戻ってくれ」僕は兄の変わり様に未だ信じられずにいた。兄は聡明で優しくて、常に他人のことを想っていた。僕や母のことを大切にしていた。それがサディスティックなテロリストになっているなんて。

「私は元々、そんな人間ではないよ。それよりもお前はどっちなんだ。虚無か、破壊か」

 僕はそれに答えることが出来なかった。呆然とした意識の中、僕は錦に連れられ、その場所を後にした。



 僕と錦は人込みの多い雑多な駅前のベンチで座り込んでいた。

 僕は無力感を抱えていた。兄の変貌と、これから兄が行う行動を止めることのできない無力感は、僕の心の中にぽっかりと大きな穴を穿った。今まで追い求めていた憧れが、次第に石ころのようにちっぽけな感情に変容していることに気づいた。僕が憧れた兄は聡明で優しくて完璧だった。

 あれは兄ではない。きっと兄と僕を知る第三者。僕をより深い絶望へと叩き落すための作られた緻密な計画が今実行されているのではないか? あれは偽物だ。きっと兄はそう言ってくれる。こういう時、兄はいつも僕に語りかけてくれたじゃないか。きっと今にでも兄が真実を語ってくれる。奴は兄を語る偽物であることを。

 僕は意識を集中した。僕の中にいる兄が答えてくれることを祈って。だが、その時は訪れなかった。

 僕は既に奴を兄と認識していた。今日出会った兄が真実であり、僕の中の兄は僕が作り出した幻なのだということを僕は否応なく実感した。記憶の中の兄すら疑わしくなってきた。兄と過ごした時間は全て自分が作り出した妄想で、僕と兄には、記憶とは違う別の関係が築かれていたのではないのか。僕の記憶は果たして真実の記憶なのか?

「顔色が悪いですよ」錦が心配した様子で話しかけてきた。

「なんで僕を兄さんと合わせた」

「教祖様——お兄様があなたに会いたがっていたから。そして僕は機会をもらいたかったから」錦は穏やかな眼でこちらを見た。「あなたと話し合える機会を」

「そんなものはいくらでも作れたさ。君が言ってくれれば」その時、僕の中にあった思惑がふと浮上してきた。

 錦との約束は果たしたのだ。彼はこれからも漫画を描いていく。そしてその担当編集は僕だ。彼の作品はヒットして、僕はきっと出世できる。宗教組織もテロも関係無しにそれは叶えることができる。それでいいではないか。

「君はあんな集団に関わっちゃいけない。漫画を描くんだ。ヒット作品を出して、君はかねてよりの夢を果たせばいいじゃないか」

 ひとつの希望が見えた気がした。明るい未来への展望。死とは対極に位置する、生命が存続し、繁栄する未来。その希望があれば、人間は生きていける。多くの絶望を覆すことが出来る。

 僕は錦が持っていたバックを取り、中を覗いた。

 そこに漫画の原稿はなかった。

「原稿はどうしたんだ!」僕は動揺を隠すことが出来ず、語気を荒げた。僕にとっての希望であり、彼の未来が掛かった原稿がそこには無かったのだ。

「古田さん、僕はあなたに深く信頼を置いているんです」錦は平静にいった。「僕の才能を認めてくれたあなたに、僕は他人以上の気持ちを抱いている」

 錦は立ち上がり、空を見上げた。既に太陽はその身を隠し、仄暗い夜が広がっていた。「だから僕は、あなたの前で最期を迎えたかった。それが僕の見たヴィジョンだったから。その運命は、僕にとっての最良の死、最高の選択に思えたんです。今でもそれは変わっていない」

 錦は駅のホームの方向へ走り出した。若い肉体が持てる限りの力を使って躍動を始めた。彼の感情を理解する間もなく僕も錦を追った。僕も彼には、他人以上の感情を持っていることは同じだった。才気あふれる感性とその若さだけを認めていたわけではない。人間として、一人の友人として漫画を描き上げ、成功してほしかった。恥ずかしい言い方をするのなら、友情を、僕たちの関係の中に見出していた。なのに何故行こうというのか。全ての関係性から、この世界のあらゆる全てから完全に断絶された死の底へなぜそうもいきたがるのか。僕の目の前で死ぬこと、それが君の友情の在り方なのか。

 彼を全速力で追う最中、またもやあの忌まわしい未来を映し出すメメントモリの作用が働きだした。彼の死、絶望的なまでに決定的な彼の死に様が頭に浮かんだ。

こんな未来があってたまるものか。彼は支配されているのだ。メメントモリという、人間が、如何なる時も死を忘れることの出来ない強迫観念を抱くようになる、悪夢のような病が彼の心を蝕んでいる。彼はそれに抵抗しようともせず、それを受け入れている。

 轟轟と遠くから列車が近づく音が響き渡るホームに着くと、彼は既に列車が通るレールを眺められる乗降場のぎりぎりのところに立っていた。「黄色い線の内側で、並んでお待ちください」なんていうアナウンスを完全に無視して彼は列車を待っていた。乗るためにではなく、死ぬために。

「やめるんだ錦! 君と僕でもう一度漫画を練り直そう。死ぬ必要なんてありはしない! 君はおかしくなっているんだ。その病気のせいで!」

 叫んで錦を止めてみようとしたものの、彼の意志は一向に変わる気配がなかった。  音はどんどん近づいてくる。電車のライトが横から錦を照らした。

 彼の表情は喜々としたものだった。口もとは緩み、目には輝きが満ち溢れて、額には多少の汗が滲んでいる。

「古田さん、僕が死んでも悲しんだりなんて、決してしないようにしてください。何故なら僕は悲しくないんだ。あなたの前で死ぬことは、僕にとっては望んだことなんですよ。ただあなたは忘れないでほしい。僕のことを。それが僕の、あなたに対する唯一の望み」

 彼は背中からその身を通過する電車の方へと投げ出した。最後まで、彼の体が電車に飲み込まれるその寸前まで、彼は僕と目を放そうとしなかった。凄まじい速度で通過したその列車に跳ね飛ばされた錦の体は肉塊となり、どこかへと消えていった。

ホームの中でけたたましい悲鳴が鳴り響いた。騒乱となったホームの中で、僕は電車が通過したことによって発生した、一時的な冷たい風に打たれながら、彼の死を深い心の奥底で感じた。そして彼と初めて会った日のことを思い出した。彼が最初に原稿を持ってきたあの日、僕は彼を高く評価して、彼はそれを大いに喜んだ様子だった。それから始まった彼との関係、漫画家と編集者としての仕事上の関係は、連絡が途切れるまで、いたって良好で、彼との打ち合わせを重ねるたびに、それはより特別性を帯びたものになっていった。だが、いまここでその友情も終了した。彼の死によって、その関係はこれから進行することも後退することもない決定的なものになった。その思い出と彼に対する様々な感情は僕の内に深く刻み込まれることとなった。

 空虚だ。僕はそう思った。彼を悼むこと、死した彼を思うことにとてつもない空虚さを感じた。もうこの世界に居ない人間を想うと、悲しみも憐みもない、現実的な、自分ではそれがどうすることもできない不可逆的な現象のその存在感を感じざるを得ない。現象は彼に降り注ぎ、彼から命を奪い去っていった。

 彼は死に何を望んだのかはわからない。ただ一つだけ言えることがある。それは死の間際、彼は安堵していたということ。それだけははっきりとわかるし、心のどこかがそれを理解し始めていると思った。理解したくはないが、もう理解しかけている。この心的現象もきっと不可逆的なものなのだろう。きっと、もう死を恐れたあの時の精神には戻れない。一度受け入れてしまった死への受容的態度はもう覆されることはないのだ。この死への理解は安心感すら覚える。このまま自分も電車に跳ねられ、思考することのない肉片になりたいとさえ思える。

 急に妻の顔が頭に浮かんできた。はっとなり、僕はさっきまで浸っていた安心感から抜け出て、また自身の奥底から溢れる不安感と対峙した。そうだ、妻がいる。愛する人がいるのに、死んでどうする。妻を悲しませたくない。死なない理由はそれで充分だ。

 僕はカレンに電話をかけた。震える手でケータイを耳元に押し付けたが、空しい電子音が聴覚を刺激したに過ぎなかった。彼女は電話に出なかった。

 不安だ。どこまでも続く不安。決して晴れることのない焦燥を掻き立てる暗澹たる雲が心の中に幕を張った。

 帰らなければ。僕はそう強く思ってタクシー乗り場に向かった。


〇 〇 〇


 家に着くと明かりは灯されておらず、彼女の靴の隣には見慣れない靴が置いてあった。

 僕は靴を脱いですぐにリビングの方に向かった。早く彼女の顔が見たい。声を聞きたい。この死が蔓延った世界で希望は彼女だけだ。僕が生きる理由はそれだけで充分なんだ。それ以外には何も必要なものなんてない。編集者としての成功や過去、兄、アイデンティティ、様々な重要だと思っていた何か。そんなものはもう僕には路傍の石ころ当然なのだ。もう彼女以外に必要なものなんて——

 

 ドアを開けた。僕は絶望のあまり膝から崩れ落ちた。

 首くくって宙に浮いている彼女。暗がりの中で揺れる彼女の体は、まだ死して間もない頃だということを表わしていた。

 僕はすぐにロープを外そうとした。しかし固く結ばれた結び目は言うことを聞かない。台所から包丁を取り出してロープを切った。僕は彼女の胸を強く両手を重ねて叩いた。必死に叩いた。

「死なないでくれ!」喉がはちきれるほどに叫んだ。神様お願いします、どうか彼女を助けてください、と今まで神様など信じたこともなかったのに心の中で祈った。神にも縋る思いだったのだ。本当に、本当に。

 どれくらいの時間が経ったろうか。僕はこの現実を認めて、両手を彼女の胸から放した。彼女の膨らんだお腹を見た。まだ子供だけでも助かるのではないだろうか。いやそんなことはあるわけないよな。僕はそう心の中で呟くと、死の重みが二重に積み重なっている、そのとてつもない重力の中で、またもや空虚な感情に陥った。

僕のせいで彼女は死んだのだ。

 僕は見ていた。ヴィジョンの中で彼女の死を。しかしそれはまだ回避可能な未来だと思っていた。僕にとっての絶望という観念が、それを投影しているのだと思っていた。これを防ぐために村田医師に助力を求めたのに、彼は何もしてくれなかったのか。いや、もうすべては取り返しのつかないものになっている。だから、こんな事を考えても意味はないんだ。絶望的に不可逆的な現象。死が彼女を連れていったしまった。

「こんばんは古田さん」

 暗がりの中から声が届き、人影が徐々にその姿を現した。

 そこには村田医師が立っていた。

「村田さん……なんで妻は——」もうそれ以上は声を出すことが出来なかった。ただただ涙が止まらなかった。悲しみの中で、僕は自分の存在を消してしまいたい、もうこれ以上この世に居たくない、そう思った。

「あなたも教祖様から話は聞いたでしょう。全てはメメントモリが世界を覆いつくすために必要なことだったんです。奥様の死も」村田はにやりと笑った。

「奥様はとても力強く抵抗しましたよ。彼女は死を拒んだ。それを想像することさえ許しはしなかった。それは母親としての防衛本能とも言える常人ならざる意志の力が働いたようにも思える。しかしながら、時間をかけてゆっくりと説いていきました。死に逝く未来と死への観想を。彼女に髑髏が表れてから行動は早かった。すぐさま死の準備を始めましたよ。子供をこの世界に生み落とさぬという、確固たる意志が彼女の中に生まれ、子供と共に死に逝く道を選んだ。私はね、正直感動しましたよ。子供を想う母親の意志の強さにね」村田は腰を下ろし、僕に向かって言った。「あなたはどうなんですか」

 村田の手には拳銃が握られていた。とても小さな銃。命を奪い取るには十分な大きさの——

 怒りや憎しみ、復讐心が湧き立つよりも先に、罪悪感が僕の心を支配した。あの時にこんな男を頼らなければ、彼女を一人にしなければ、集会に赴かなければ、こんなことになるはずなかった。全ては僕が蒔いた種なのだ。そのせいで彼女は死んだ。

「大丈夫。あなたも死ねますよ」村田は微笑みながら拳銃を渡してくれた。

僕は立ち上がり、拳銃をこめかみに当てて、もう一度彼女を見た。その姿を見て、彼女との思い出を振り返った。

 一緒に海に出かけた。

 手を繋いで散歩した。

 いろいろな話をした。

 僕たちは心から通じ合っていたんだ。もうそれもできないけれど。

 早く彼女のもとにいかなければ、と僕は強くそう思った。

 とうとう到達した。いや到達してしまった。メメントモリが導く死への衝動。抗えぬことのできないその衝動が僕に安心感を与えている。絶望は希望へと変わり、恐怖は親しみとなった。今では、死がとても近く感じる。誰よりも早く死にたい。

現実というものが遠くなっていく。全てから、この世のあらゆる全てから目を背けたい。そういった現実逃避的な言葉が脳裏をよぎる。しかしそれは逃避ではなく、現実可能なものなのだ。今すぐいこう。死の淵へ。

 僕は引き金を引いた。

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