第2話 不安


 言わなくちゃいけないことがあるんだ、生きているうちに。

 今言わないと、僕の頭の中にある言葉は、とても長い人生の中でその意味を見失って、霧散してしまうから。

 生の実感が思い起こさせた言葉を口に出してから一年が経った。その結果として、僕たちは結婚して、彼女の中には新しい生命が宿ることになった。

 生の実感が溢れる、余りにも幸福な時間は、まるで太陽が照り付ける暖かい海の中で、全身の力を抜いて、体を浮かべている感覚にとても良く似ている(とりわけそこが、例えば東南アジア諸国によくあるようなリゾートビーチだと、より気持ちがいい)。

 気持ちよすぎて居眠りしてしまうととても危険だ。気づかぬ内に溺れてしまうからだ。幸福というものは常に、人間を溺れさせてしまう危険性を孕んでいる。重要なのはバランスだ。光があるからこそ影ができるように、幸福という光はすぐそばに絶望の種を巻いている。それは遠くない未来に芽を出して、大きく花開く頃には様々な影を生み出す。

 目を覚ますと辺りは真っ暗になっていた。月の光も届かない海の底に僕はいた。

 海底には苔まみれの椅子が一つ、僕はそこに座りながら、上を見上げていた。


〇 〇 〇


「こういうのはどうかな?」

 カレンは青くて少しゆとりのあるワンピースを僕の目の前に持ってきた。

「いいと思う。うん、すごくいい」僕はその言葉に対してそれっぽいことを言った。だいたい女性が意見を求めてくるときは、それが本人にとっていいものだった時だけだ。

 結局彼女はそれを会計せずに、元の場所に戻した。より良いものを求めて、僕たちはその場を離れた。

 その日、僕たちは近くのショッピングモールへ買い物しに来ていた。というのは、彼女が妊娠六ヵ月で、今まで着ていた服が使えなくなったからだ。彼女は自分に合って、尚且つその大きくなったお腹が目立たなくなるような服を選び抜いていた。そしてそれに途方もない時間を費やしていた。僕だったら三十分で終わるだろう。

 彼女の足取りは軽やかだった。さすがに長時間の買い物は体に悪いと思って、短時間で買い物を済ませる予定だったのだが、彼女の女性的趣向はそういったプランを悉く破綻させていった。僕は彼女の意見を尊重して、快く荷物持ちという役を引き受けていた。これはこれで悪くないのだ。

 歩きながら彼女が言う。「そういえばベビー用品も今のうちに買っておく?」

 彼女は僕たちの子供、今彼女の中に宿っている生命について口を開いた。準備は早いに越したことはない。僕は彼女のほうは見て頷いた。

 ふと彼女の左手が僕の右手を捕まえた。薬指に嵌めてあるリングの固い感触が分かった。結婚というものは何かと必要なものが多い。結婚指輪だったり、役所への申請だったりと。人とは、何かを物質的なもので証明したくて仕方ないものなのだ。偶像崇拝を禁止していた初期キリスト教だって結局は偶像崇拝を受け入れた。そういった目に見えるものがあると安心してしまうのが人間なのだと思う。

 僕たちは、ちょうど目についた子供向けの玩具量販店に足を踏み入れることにした。ショッピングモールはとても便利で、さっきまで洋服選びに夢中になっていたのに、少し目先を変えれば赤ん坊のおもちゃだって買えるのだ。富を持っていれば、そこでいくらでも金と時間を使える。欲望がその際限を知らぬうちは。

 その店は、新生児向けの玩具やぬいぐるみ、プラモデル、フィギュア類の数々、女児向けの人形など、子供から大人までの幅広い年代の男女に向けた玩具がずらりと立ち並んでいた。客も多く、その大半が子連れの家族だった。

僕も少し童心に戻り、色々なプラモデルや模型品を眺めた。特に目がいったのはモデルガンだ。僕が幼いころは、モデルガンを取り扱っている店自体が少なく、置いてあったとしても、売り出している数がとても少なかった。目の前のモデルガンコーナーには、殺傷能力を消失し、形だけを模された子供のおもちゃが見上げるほどに積み上げられていた。

 モデルガンに心奪われた理由は大したものではない。子供の頃、兄さんと僕はよくモデルガンを持って、「西部のガンマンごっこ」をしていた。そのごっこ遊びも、確かなにかの漫画の影響だったような気がするが、今では忘れてしまった。僕たちは、今では絶対に「西部アメリカ時代にトカレフは無いだろ」とかいろいろ文句も言いたくなるような、ちぐはぐな遊びを凝りもせず何度もやっていた。そのゲームのルールはいたってシンプルで、お互いに背を向けて、十歩歩いたところでお互いに構えて、BB弾を打ち合うというテンプレートなものだった。結局、双方ともに打ちまくって、勝敗なんて気にしなかった。ただのごっこ遊びがしたかっただけなのだ。兄さんも僕もライフルみたいな大きな銃よりも小さなハンドガンが好みだった。僕はトカレフで、兄さんはワルサーを使っていた。

「ねぇベビー用品はこっちでしょ」彼女は僕の手を引っ張って店の奥へと向かった。

 ベビーグッズコーナーに到着すると、彼女はそこに置かれているおむつやガラガラなどの安価なものからベビーカーなどの高価なものまで、その隅々に目を通して、最終的に値段とラベルを睨みつけた。眉をひそめながら彼女が言う。「どれがいいのか全然わかんない」

 それもそのはずだ。全く下調べもしないで、その場の勢いと成り行きでここまで来てしまったのだから。しかしながら、何も考えずにそれに賛同した僕にも非はあるだろう。実際、子供用品がここまで多種多様で、予想以上に高くつくとは思いもしなかった。

 僕は提案した。「今日はいったんやめて、また出直そうよ」

 彼女は既に、その身重の体で何時間もここに滞在していた。表情には出ていないが相当疲れているのではないかと思う。その疲労状態から、次は金銭的なストレスを抱えることになったらと思うと背筋が凍るようだった。マタニティブルーなり産後鬱なり、妊婦が抱える精神的ストレスは肉体的なものに匹敵するかそれ以上だ。僕は彼女を慮って、その提案をしたのだが彼女の反応は意外なものだった。

 彼女は僕が色々なことに気を配り、思いを巡らせていることを知ってか知らずか、朗らかな面持ちでこちらに振り向いてこういった。

「ちょっとお母さんに聞いてみるね」

その声や表情には僕が危惧していたような暗い影は微塵も感じられない。彼女はケータイを耳に当て、商品を持ちながら悠々と話し始めた。

「どんなおもちゃを買えばいいの?」

「ベビーカーって安物でも大丈夫?」

 電話越しの母親に気兼ねなく話しかける彼女を少しだけ羨ましく思った。普通の家庭、普通の親子関係、普通の会話。僕と母が築き上げることのできなかった関係性は、ここでは当たり前のように、かくも自然に構築されていた。

 目線を少しだけカレンが立っている場所の先へと移した。異様な気配がしたので目線の先にあるそれを見つめると、それは骸骨だった。

「こんなところで会うなんて奇遇ですね。古田さん」

 骸骨がなれなれしく話しかけてきた。


〇 〇 〇


『速報です。本日、国会議事堂前で大規模な暴動が発生しました。これまでに合計二十三名の死傷者を出しており、現在は鎮圧活動が続いている模様です。また、暴動の主導者と思われる人物の行方を追っており——』

 喫煙所内の端に置かれた薄型液晶テレビから不安を煽るような内容——ニュースキャスターの声が届いた。

「物騒な世の中になったねぇ」

 煙草を吹かしながら上司の青山田はぼやいた。煙草の筒に親指をひっかけて灰を落としながら、僕もそれに反応する。

「ほんとですね」

 適当に相打ちをして、話題を逸らすために何か話すことはないかと考えた。社会情勢とか時事ネタは、その話し手の性格や思想をはっきりと提示させてしまう可能性がある。自分の考えがもしも目の前の男——直属の上司に気に入らないものだった時には、それは明らかな社会的立場の弱体化に繋がる。

「そういえば例の彼はどうだね」

 都合よく青山田のほうから話を振ってきた。

「錦君のことですか。彼はまさしく「金の卵」だと思います。画力やストーリー構成、演出も含めて、二十代前半とは思えないくらいです。部長も読んだと思いますが、彼の作品は確実にヒットします。僕はそれを保証してもいいくらいです」

 僕はとある出版社の漫画編集部に所属している。もちろん青山田もその一人だ。

 青山田は僕の言葉を聞いた後、にやりと悪そうな顔をした。彼にもわかっているのだ。僕の言葉などなくてもそれは確信に満ちて、揺るがないものだということを。そうとも、二十二歳の若者である錦(にしき)甲斐(かい)が我が出版社に持ち込んできた漫画はまさしく、我が社——僕は勿論のこと他の上層部も——が喉から手が出るほどに欲しがっていた未来のある漫画であり、普段は上から目線で胡坐を掻いている出版部が頭を下げるほどに完成度があり、なにより勢いがあった。漫画から湧き出るエネルギッシュな表現やキャラクターというものは作家が歳を重ねるごとに弱まる傾向がある。だからこそ僕たち出版社の人間はただ漫画の上手い人間というよりも漫画が描けて尚且つ、若者を探していた。そんな時に現れたのが彼だったのだ。お上さんはこの大型新人をどのようにお膳立てして世へ出していこうか、早く完成原稿は届かないかと手をこまねいている状況だった。そしてそれは僕にも同じことが言えた。彼の漫画に僕の出世が掛かっているのだ。しかしながら、僕の中には一つの懸念があった。

「実は彼、もう二週間近く連絡がないのです。もうすぐ連載会議だというのに」

「それは由々しき事態だ」青山田が言った。そして僕に睨むような視線を送ってきた。

「なにか彼に、変なことを言ったんじゃないかね。例えば不要な指摘や、とても個人的でつまらないアドバイスだったり——」

「そんなことは言っていません」僕は青山田の声を遮るように、そう反論した。

「どんなことをしてでも彼とコンタクトを取りなさい。彼の才能にライバル社が気づいてしまわぬうちに——」


〇 〇 〇


 僕は数週間前の青山田との会話を思い出していた。目の前の骸骨がうっすらと視界から退いて、その若々しい顔が浮かび上がると、僕は喜びと不安が入り乱れるようなアンビバレントな心情に陥った。なれなれしく話しかけてきた骸骨は錦甲斐であった。

「錦くん久しぶりだね。何度も連絡したのに返信がなかったから心配していたんだ。こんなところで会ったのも、きっと君と僕に何かの縁があったからに違いない。それはそうとして、原稿の進行具合はどうだい?」

「いや、それがですね……」

 彼はそのことについて、全く調子の良い返事というものを返してくれなかった。まるでその話題を遠ざけたいと言わんばかりに、彼は少しの間、黙りこくって視線を泳がせた。そしてその視線は妻の方角へと向かった。

「奥さんですか? とても美しい方ですね」

「ええどうも、よく言われるんだよ」

 彼の目線がこちらに移り変わると、彼はひそひそとした声で言った。「古田さんも会員なんですか?」

 何のことだかわからなかった。話が見えてこないので、僕は聞こえないふりをして、漫画についての話を切り出した。

「もし一週間以内に原稿が届かないなら、次の連載会議は三か月後になる。だけど、その時は大御所作家さんが一人入ることが確定だからそっちが優先されてしまうと思うんだ。だからこの一週間のうちになんとか原稿を届けてくれれば、君の漫画が雑誌に載ることは間違いなしだとおも——」

「メメントモリ」

 彼はなんの脈絡もなくその言葉を発した。それは僕が最も危惧した言葉であり、現状近くにいる妻には絶対に聞かれては困るものだった。

一瞬の静寂を経て、僕は睨みながら呟いた。

「その言葉を使うな」

 静かな声だとしても、その空気の振動だけでそれが感染するのなら——もしそうならばこれほど厄介なものはない——もう既にカレンにその言葉は届いているのかもしれない。カレンを見やったが、彼女はまだ片耳に携帯電話を当てて母親と会話をしていた。まだ大丈夫だ。彼女にメメントモリは感染していない。

「すまないが場所を変えて話さないか。仕事の話になると当然、機密というものも含まれるからね。ここだと話しづらいんだ」

「なんであなたはメメントモリを奥さんに話さないんですか。」

 着ていたシャツの裏側で汗がじんわりと滲み出てくる感触が分かった。彼がある種の挑発行為をしているのは明らかだった。彼はメメントモリの仕組みを理解してその病魔に罹っている。おそらく彼の目には、カレンは正常に映っている。肩まで伸ばした黒髪も張りのある健康的な肌も光を反射させた透き通った瞳も、正常に彼には見えていた。しかしながら、そのことがとても気に食わなかったらしい。僕にはその思考というものが今一つ分からなかったし、正直分かりたくもなかった。

「会員って……どういうことなんだ」

「集会があるんですよ。そう、明日もあるんです」

 こいつは何を言っているんだ。彼はまるで、その会員とか集会とかいうものがあたかも当たり前かのように話し始めた。こっちはそんなことを聞きたいわけではないのだ。早くここから離れたい。

「なになに、お知り合い?」

 カレンがこちらに寄ってきた。どうやら母親との話が一段落着いたらしい。なんて間の悪い時に電話を切ってしまうのか。

 彼女にはメメントモリなんて奇病を発症してほしくない。

 それはなにか、僕のなかの安全装置みたいなものが警鐘を鳴らしていたからだ。人間が自身の理解しえないものに畏怖の念を覚えることは良くあることだが、これにも同じことがいえた。なんとしても、彼女に聞かれてはならない。メメントモリは危険なのだ。

「カレン、実は明日急用が出来たんだ。彼はすごい新人でね。明日は原稿を取りにいかなくちゃならないんだ。仕事のことで話をするから、席を外してくれないか?」

 彼女はそれを聞くと二つ返事でそれに応じて、ショッピングカートを押しながらレジの方角へ向かっていった。

「ああ、行っちゃった。仲良くなれると思ったんだけどな」

 錦の言葉がとても鋭く、皮肉のように聞こえてならなかった。残念がっている口振りだがそうではない。そこには明るい場所にいる者をもっと暗い深淵へと引きずり込もうという悪意があった。ペシミストは無知な人を奈落の底まで案内する。無知者はそんなこととは知らずに、のこのことそれに付いていってしまうのだ。自分が暗がりへ導かれているとも知らずに——

「漫画、もうすぐ完成するんです」

 彼は俯きながら言った。先刻まで僕が一番に欲していた言葉を。

「なんだ、そうだったのか。それならこんなところで油を売っている暇はない。早く帰って原稿を描くんだ」

「条件があります」

 彼は淡々と言葉を続けた。「明日行われる集会に古田さんが参加するなら書き上げます。来ないなら僕はもう漫画を描きません」

「君は何を言っているのか分かっているのか  」

「もし僕に——僕の漫画に未来を感じるのなら、一緒に来てください」

 彼は僕の手に小さな紙を無理やりに押し付けて走り去っていった。



 紙に描かれていたのは手書きの地図だった。駅と一つのオフィスビルが赤い一本の線によって繋がれている。このビルまで来い、というメッセージだ。

 おそらく、このビルは何かの宗教団体の本拠地なのだと思う。一年前に診療所で聞いた村田医師の言葉を思い出してみた。【死の天使集会】。錦がこの宗教会の会員であるのならば合点がいった。会員である錦はメメントモリを広めたがっている。それはその宗教の目的か何かかもしれない。古今東西の熱心な宗教家たちが、布教に命を捧げたのと同じように。だが、彼自身がそれを望んでいるとは到底思えなかった。

 彼は、初めて会った時とは随分と雰囲気が変わっているように思えた。初めて会った時、彼は目を輝かせて漫画の話ばかりしていた。漫画以外には興味なんかないとも言っていたのだ。そんな彼が変な宗教なんかにハマるとは今でも考えづらい。

「仕事の話は終わったの?」カレンが買い物を済ませ、こちらに戻ってきた。

「ああ」と返事をし、彼女を見た。カレンには骸骨の影は宿っていなかった。僕はほっと胸をなでおろす。

「どうしたの?  怖い顔しちゃって」カレンが心配そうにこちらを見つめていた。

 錦との会話で顔が強張っていたのか、もしくは恐怖というものを隠し切れなかったのかもしれない。あの日から、母の死から始まったどす黒い予感めいた不安がまだ続いているのだ。僕一人の問題ならどうにでもなる。しかし、絶対にカレンは巻き込みたくない。彼女の内には新しい命が、僕たちの子供がいる。彼女と子供だけはこのメランコリックな病魔から遠ざけなければならない。

 彼女が手に持っていた大きな袋を見て、僕はとっさにそれを持とうと思った。それは僕が常に心掛けている紳士的作法で、きっと多くの男性も同じことをするだろう。

「それ、持つよ」

「ありがと」

 僕は彼女が持っている荷物を取るために手を出した。

 その瞬間、僕の脳裏に稲妻のような何かが閃いた。

 それはあの時と同じものだった。あの日のタクシー乗り場、あの時に視た圧倒的幻視。それと同じ性質を持った、死の背景が映し出された。

確かな現実感と共に現れたその焼け付くようなヴィジョンは、僕の中に飛来して、その余韻を残して、またどこかへ消え去った。

「どうしたの? 手、震えているよ?」

 カレンが心配そうな表情でなにかを言った。でもなんて言っているかわからなかった。なんでまたこの症状が出たんだ? これも「死の可能性」の一つなのか。もしそうだとするならば、これは僕のものなのか、それとも彼女の——

 僕はカレンの手を力強く握りしめた。

「痛いよ」と彼女は言うが、止めることはできなかった。恐ろしい未来が迫ってきている。なんとかしなければならない。カレンだけでも。

「ごめん、先に帰っていてほしい」

僕はカレンの手を放し、ケータイを取り出す。

 この番号にかけることはないと思っていたし、かけたくないとも思っていた。しかしながら、頼れるのは彼しかいない、この病魔を知っている彼にしか頼めないことなのだ。

「もしもし、村田です」彼が電話に出た。

「古田です。急なお願いなんですが、明日、妻をカウンセリングしてもらいたい」

「なるほど、色々とお察しいたします」村田の声はとても落ち着き払っていて、まるでこういう事態も想定していたような口ぶりだった。彼はすぐに明日のカウンセリング予約を取り付けてくれた。

「例の……【死の天使集会】について知っていることはありますか」

「……最近とても精力的に活動しているようだ、よくテレビでも見かけるよ、患者の数もここ一年で異例の増加だ」

 メメントモリ感染者は増えている。それはおそらく、その信奉者が巻き散らす恐るべきバイオテロのようなものだ。人々はそれを阻止する術を持ち合わせていない。

「早朝、妻を診療所へ向かわせます。僕は一日、家を留守にしなければならない。大事な要件があるんです。よろしくお願いします」

「奥様は今どこに?」

「彼女と僕は今、ショッピングモールにいます」

「それはいけない。非常に危険だ。あなたはともかく、奥様は早く帰宅したほうがいい。もちろん、あなたは傍に居たほうが安全だ」

「どういうことですか」

「周りを見なさい。しっかりと」

 僕は周りを見渡した。多くの人間が立ち歩くショッピングモールの施設内だ。それに変わりはない。

 しかし、よく見るとそれは混じっていた。

 群衆の中におぞましい姿をした者共が、平然とその中に混じっていた。

「メメントモリはあなたが想像する以上に社会に浸透しつつある。奥様はそれに気づかないでしょう。あれは死の宣告に等しい。至る所に地雷があるにもかかわらず、奥様はその中を闊歩している。とても危険だ。早く彼女を自宅へ——」

 僕はケータイを途中で切って、彼女のもとへ走った。


〇 〇 〇


 その夜、僕は夢を見た。

 幼い頃の夢だ。母さんと兄さんと僕で買い物に行っていた。

 夢の中の母さんは暗い母さんじゃなかった。すごく明るくて眩しい、なんだか知らない人みたいだ。

 兄さんが言う「母さん、荷物持ってあげるよ」そういって、とても自然な動きで母の手にあった荷物を細くて白い手で持ち始めた。

「お兄ちゃんは優しいねぇ」母が言う。

 夢だということは既に気づいていた。明晰夢というやつだ。

 これは幻想なのか、それとも本当の過去の一場面なのか。僕にはわからなかった。

 こんな理想的な、暖かな時間があったのか。もし本当なら、あの鬱々とした母はいったい何だったのか。

 兄さんもだ。兄さんは母が嫌いなはずだ。なんでこんなに、こんなにも穏やかな関係が目の前に、僕の夢の中のあるのか。

 そういえば、と僕は思い出した。

 女性の荷物を持つ紳士的作法は兄さんが最初に教えてくれた気がする。いや、正確には兄さんを見て、真似た気がする。

 兄さんは僕の憧れだった。

 僕は幼いころから「僕」を否定して、兄さんという「理想」を追い求めた。

 いつか兄さんみたいに、優しくて頼れる人間になりたかった。

 アイデンティティというものを、人々は自己の中に求めるが、僕の中にそれに適うものなんてありはしなかった。成長とともに定着するであろう個性は、やはり兄の模倣でしかなかった。

 自己を超える他者の存在が僕を突き動かしていた。

 僕は今でも、「理想」を追い求めている。イミテーションの微笑みが無くならないように、僕は僕自身を否定し続け、兄を演じる。演じようと努めている。




 

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