memento mori

街田侑

第1話 予兆

 死後の世界を想像したことはあるだろうか。

 天国や地獄、三途の川、輪廻転生とかいろんなことが言われたりするが、誰もその実情を知らない。何故ならば、誰もが死を経験したことがないからだ。

『デスノート』ではリュークは死後の世界は無だと言っていた。つまり死後に世界なんてないってことだ。死んだあとには意識も記憶も感覚も何もない。それこそ、眠りに近いのかもしれない。永遠に起きることのない眠りに。

『ドラゴンボール』では天国も地獄もあった。ドラゴンボールを七つ集めれば死んだ人を生き返らせることもできる、とても便利で都合のいい世界だ。

 現実もそうであってほしいと思うことが度々起きる。例えば、中学生の頃に家で飼っていた愛犬のルーが死んだ時だ。

 うちではルーを屋内では飼ってやれず、庭で鎖をつけて飼っていた。僕達が家で暖かい食事をしている時に外で寒さを凌いでいたと考えると心底同情してしまう。そんな愛犬がいきなり死んだしまった時、僕はとても後悔した。何故もっとルーにいい生活を与えられなかったのかと。何故死ぬまでこんなことに気づかなかったのかと。

もっと幼い頃、僕は自分の死ぬことをイメージして泣いてしまったことがある。もう誰とも会えないということが心底怖くなったのだ。死というものがとても恐ろしくて夜も眠れなかった。

 人は死を本能的に拒絶する。誰もが死を憂い、他人の死を悲しむ。死は誰にでも訪れる平等な事象でそれを止めることは出来ない。どれだけ医療が発達しても人類は死を克服出来ずにいるのだ。いつか母はこう言っていた。誰もが生まれた時から死に向かっていると。人生というレースの中で死というゴールは避けられない。だから後悔しないで死ぬために今を一生懸命生きるのだと。

 そうやって生きてきて今、僕の目の前には僕がいる。


 その表情は希望に満ち溢れていて、何か大きな目標を達成させたかのように、すっきりとしていた。


 そんな自分を僕は見ている。





 母の危篤を知ったのはつい昨日のことだった。その時は全く驚きもしなかったし、悲しみや不安が訪れることもなかった。

 僕はただ淡々と仕事をこなしていた。今更早く僕が病院に着いたところで母が元気になったり、寿命が伸びたりすることはないのだ。仕事帰りに立ち寄って様子を見ればそれで僕のやることは終わりだ。

 母は今年で六八歳になる。癌を患ってもう五年になるが、よくここまで耐えたと思う。僕はもっと早く母が死ぬと思っていた。上京してから十年間ほとんど田舎には帰らず、仕事に没頭した甲斐もあって僕のキャリアは軌道に乗ってきている。母の死は確かに悲しいことなのかもしれない。普通ならすぐに病院に駆けつけなければならないのかもしれない。しかしながら、今はそれどころではないのだ。昇進の話がもうすぐそこまできているのだから。

 仕事帰りに僕は電車を乗り継ぎして、都内の大学病院を訪れた。すぐに受付で母の病室を聞き出し病室へ向かうと、そこには父と姉、そして床に臥した母がいた。

「イツキ久しぶりだな」母が眠るベッドの脇で佇んでいた父が口を開いた。

 もう何年も顔を見ていないせいか僕が知る父の顔よりもずっと老け込んでおり、僕は年月の長さを実感した。父の隣にいる姉は何も言わず、ただ、じっと母の方を見やっていた。

 この病室には死の気配が漂っている。母の周りで渦巻いている黒いモヤが父と姉、そして僕をも巻き込んでいようとしているような気がした。

母の身体には透明の管が張り巡らされており、口許には人工呼吸器が付けられていた。その死を遅延させる人類の叡智の結晶は、母の体内を無理矢理に循環させている。ベッドの横に置いてある、名前も知らぬ大きな装置が母の心拍数を数値化し、母の心臓が脈打つ度に機械音を鳴らしていた。目を瞑り仰向けで眠る母を見た。青白い肌には温かみが感じられず、手を握ってみてもその冷たさは依然として変わることはなかった。無気力なその手を握っても握り返したりすることはなく、手を離した瞬間にそれは力無くベッドへと吸い込まれていった。

 いつかこうなることはわかっていたことだった。五年前に癌を発症したと連絡が来た時も僕は淡白な文章でレスポンスを返して他にはなにもしなかった。いや、それよりももっと前に、大学卒業や高校卒業の前、もっと幼い頃からこうなることはわかっていた。母はいつか死ぬ。僕よりも早くその命は散りゆくと言うことを僕は母本人から教わっていた。そしてその時がとうとう来たのだ。別に憂いや悲しみというものは無い。誰しもに死というものは与えられるものなのだから。

「なんでもっと早く会いに来なかった」

 父が発した言葉に僕はなにも返さなかった。なにを言っても言い訳にしかならないと言うことを知っていた。それこそ、たとえ五年前に母に会いに来たとして、僕になにができただろうか。医者は母を治療し、その治療費は国と父が負担する。いったい僕に他のことができただろうか。心配なんてしていないのに心配したような素振りを見せるだけでよかったのか。僕は嘘をついてまで母に会いたくなかった。もっと言えばこの場にも来たくなかった。

 母が目を開けた。その瞳は虚空を見つめており、視点はどこにもあっていなかった。実際何秒か経つまで僕たちの存在にも気づかなかったであろう。意識を取り戻した母であったが、その瞳には光がなく、声を出そうとしているようだったが、なにを言っているかわからなかった。人口呼吸器越しに僕は母の言っていることを聞こうと耳を傾けた。母は僕に何かを伝えたそうに必死に口を動かしていた。しかし、口の動きが鈍くなると同時に目蓋も閉じていき、母は動かなくなった。機械は耳鳴りのような音を出して母の死を示していた

「母さん……」

 母の死を間近に見て僕はどこかホッとしていた。それは感動にも近い感覚だった。やっと母はゴールに辿り着けたのだ。母は死にたがっていると、僕は幼いころから頭の隅っこで考えていた。それには特段理由というものはないが、母の視線、声、挙動がまるで死を見据えているかのように達観し、絶望的なまでに母の内から湧き出る気配が静かだったからである。母は待っていたのだ。この死の瞬間を。

「兄さんは来てないよね」僕は父と姉にそう言った。

彼らは首を横に振った。兄もまた僕と同じように上京した後、家に戻ってくることはなかった。おそらくそれは母のせいであろう。母のいる空間を一緒に過ごすということに耐えられなかったのだ。兄は言葉には出さなかったが、母を嫌っている節があった。いつも兄は母と話すとき、母と顔を合わさずに話していた。

 父と姉に別れの言葉を告げ、僕はタクシー乗り場で次のタクシーが来るのを待っていた。ケータイを見ると婚約者であるカレンから何件もの着信が来ていた。僕はケータイを耳に当て、彼女に電話をした。

「お母さんは?」

「ああ、今さっき息を引き取ったよ」

「そう……最後に会うことができてよかったわね」

 彼女は僕の家庭状況をよく知っているのでそれ以上の言葉を投げかけてくることはなかった。

 昔、彼女に母のことを話したことがあった。母を好きになれないということ。もっと言えば家族に会いたくないということ。彼女はそれについて、悲しいことだね、と一言言ってくれた。僕もその時はとても悲しいことだと思ったし、自分のことで嘆き悲しんだが、今となってこの悲しみという感情が変化しているということを発見した。母が死んでも僕には悲しみが訪れなかった。家族という大切であるはずのものが僕の中では全くの無価値になってしまっているということに気づいてしまったのだ。悲しみのない悲しみなんて言うとおかしいかもしれないが、そういった感情が僕の中で芽生えた。

 タクシーが停まり、目の前でドアが開いた。早く帰ろう、と思いタクシーに乗り込もうとした瞬間、僕の頭にある映像が流れ込んできた。

 交差点でトラックがタクシーに横から衝突していた。

 タクシーのカーナンバーは4008。

 緑色の長方形の車体が折れ曲がり、窓ガラスから飛び出して倒れこんでいる自分。

一瞬自分の頭に浮かんだ映像に僕は戸惑った。

首筋や脇下から冷たい汗が滝のように流れ出て、指先が震え、体の感覚が麻痺していく。まるで肉体が無くなっていき、自分の体ではないものに変容していくような感覚。

 ふと気づくと目の前にあったタクシーはもうそこにはなかった。一体どれくらいそこに立ち尽くしていたのだろうか。

 死神がすぐそこまで迫ってきているかのような感覚を覚えた。よく漫画や小説などに出てくる骸骨の姿に黒いマントを羽織って、鎌を携えている異形の存在。命を刈り取る悪魔。そういった人間の力が及ばない何かが本当にいるのかもしれない、と僕は思った。

 そうなのだとすれば、きっと母の次は僕なのだろう。新しい標的を見つけた死神がもしすぐそばで笑っているとしたら、僕にはどうすることもできない。死神は地の果てまで追ってくる。どこに逃げ隠れしようとも、必ず僕を見つけ殺しにやってくる。

 兄が昔言っていたことを思い出した。母には死神が憑いていると。本当に兄の言う通りなのかもしれない。母は死神にとり憑かれていて、死の恐怖をずっと味わっていたのかもしない。そして次は僕にとり憑いた。

 僕は呟いた。母の最期の言葉を。

「メメントモリ……」


〇 〇 〇


 記憶を辿る。今までの人生に起きた様々な体験や心情を逆再生させるみたいに丁寧に思い出してみる。大学時代の恋愛、受験勉強、高校生活、死、死、死……

 たいてい人が覚えているのは幸せなことよりも不幸なことのほうが多い。そして、幸せな記憶は自分が作り上げた淡い幻想に過ぎない。僕の近くにはいつも死が居た。母の隣で横たわっていた。僕たちはいつも死と同居していた。

 一番最初に死を目の当たりにしたのはルーが動かなくなってからだ。それによって僕のいる世界には、死というものが存在するということを認識した。

 次に死を見かけた時は友達にそれが降りかかった時だ。もう名前も覚えていない同級生が死んだ時、僕は涙を流していたことだけは覚えている。それくらいから僕は死に慣れ始めていた。いや慣れなければ頭がおかしくなっていただろう。家の中に充満する死の気配で僕の死への認識は麻痺し、死という概念がまるで当たり前かのように思えてきた。

 そして兄が家から出ていった日から、家族は兄を忘れた。まるで今まで兄なんては居なかったかのように振舞われ、僕自身も兄がいた過去を疑うようになった。しかしながら、確実に疑いようのないものも存在した。それは過去に想い耽る自分と過去の 感情の残滓である。

 そして僕の中に、兄との楽しいひと時の思い出だけが残った。

 それから僕には兄の声が聞こえるようになった。迷ったときや苦しんだ時は兄がそっと励ましてくれる。心の中に兄は生きていた。家族の中で死者として扱われるようになった兄が僕の中では生者のままだった。

 兄は確かに存在している。しかし今はいない。僕の中だけにいる幻想。記憶を彩るためのイミテーション。

 それが僕にとっての兄なのだ。


〇 〇 〇


 病院の待合室というものはとても退屈で時間の経過がとても遅い。時計を見ていないので正確には受付をしてからどれくらいの時間が経過したのかはわからないが、何時間もその退屈な空間で一人、過去の記憶の回想をしていたような気がする。現実世界へと意識が戻ると兄が言う。最近のジャンプは面白いかと。

 いや全くと返答する。近頃のジャンプは昔みたいに看板漫画が三つあるわけでもないし、魅力的な主人公が登場する作品も少ない。少なくとも僕たち兄弟がジャンプを購読していた頃よりは。

 幼い頃、僕は兄が買ってきてくれたジャンプを読むことが一週間に一回の楽しみだった。月曜日に掲載されている漫画を全部読み終わらせたら、火曜日には二人で作品の感想を言い合った。水曜日には今後の展開の予想を話し合った。兄は僕より五つ上なので面白そうな展開予想を何度も話してくれて、僕はそれを学校で友達みんなに広めた。まるで自分が考えたかのように。

 ケータイが震え、画面を開くとそれはカレンからの着信だった。

「大丈夫? いきなり心療内科にいくなんてびっくりよ」

「心配させてごめん。仕事が忙しくて精神的に疲れたのかもしれない。もう職場には休職届を出したよ」

 仕事で精神的に疲れているなんてのは体の良い嘘だ。いままでいろんな悩みを打ち明けてきた彼女にも、今の自分のことを言うことはできない。おそらく、話したとしても気がおかしくなったのだと思われるのが関の山だからだ。母が死んだ日から出始めたこの症状は、ただの精神的ストレスから来る精神疾患の類なのか、それとも不可思議で恐ろしい力が精神に働きかけているのか、それは僕自身も見当がつかない。この症状に該当する精神疾患や精神障害はいくら本を漁っても、インターネットで検索をかけても見つけることが出来なかった。

 途中から電話越しに聞こえていたカレンの声がどんどん遠のいていった。何を言っているのか分からず、うん、うん、と相槌を叩くだけになっていた僕に兄が囁いた——

 母さんが悪いんだよ。

「ねぇちゃんと話聞いてる?」

「ああうん、ごめん。なんか電波が悪いみたいであんまり聞こえなかった」

 僕は適当に話を済ませ電話を切った。これ以上彼女に心配はかけさせたくなかったし、頭の中で兄が言った言葉が反響して、全くカレンとの会話に集中できなかったからだ。

 通話が切れて耳元からケータイを離し、僕はケータイの画面を見た。画面には現在時刻を示す13:24という数字が表示されていた。

 それを見た途端、数字の羅列は蠢きだした。

大きくなったり、小さくなったり、曲がったり、色が白から黄色へ、そして赤へ……様々な色彩が数字に溶けていき、数字が何色とも言い表せない色に変化していくと、数字以外の周りの風景にもその色が移っていった。背筋が凍るような感覚。心臓を鷲掴みにされたような圧迫感。得体の知れない恐怖が心を支配していく。

 僕はすかさずケータイを閉じた。この症状を知ってから、僕は時計を見ないように生活することを心掛けていたが、習慣づいた行動や癖を無くすということは意識していても、すぐに実現させることは難しい。朝目覚めてすぐに時計を見たり、電車の時刻表を見ても同様の症状が表れる。普通の日常生活を送ることもままならない。

「古田さん、三番診療室まで来てください」

 息を荒らげながら、僕は三番診療室に向かった。



 扉を開けると目の前には白衣を羽織った骸骨が佇んでいた。

 とうとう死神が目に見える形で、眼前に現れ出たのだ。いつかは来ると思っていたがこんなに早いとは。早く逃げ出したいと思い、踵を返そうとするが、体が委縮して足が言うことを聞かない。額から流れる冷たい汗が頬を濡らす。死神はゆっくりと立ち上がった。そして近づいてくる。僕の魂を刈り取るつもりだ。嫌だ、逃げたい。僕はまだ、まだ死にたく——

「どうも、こんにちは」

 死神は悠長に話し始めた。「私は心療医師の村田というものです」

医師——そうだ僕は病院に来ているのだ。では今見えているものはなんだというのだ。

 僕は目を見開いて肉の付いていない頭蓋骨を見つめた。そうすると段々とまっさらな骨に赤黒い肉が透けて見えてきた。ぽっかりと開いていた鼻骨の先に潰れた鼻先が出現し、前頭骨の真下に位置する二つのくぼみには剝き出しの目玉があった。全身に肌色が覆い始めた頃、徐々に黒——体毛の類も現れて彼の顔がくっきりと認識できるようになった。

「私が骸骨に見えているのだね」

「なんで、それがわかるんですか?」

 心臓の音が激しく鼓動する。まるで、部屋中に反響しているのではないかと思うようなその音を遮るように彼は続けた。

「私にも君が骸骨に見えるからだよ」



 診療室に足を踏み入れて周りを見渡すと、そこには時を表すありとあらゆるものが一切見当たらない、ある意味で異様な空間であるということに気が付いた。人間が社会的に生活する中で、時間の制約は必要不可欠なものである。それ故に、時計というものはこの世界の至る所に存在し、大抵の人間は腕時計や携帯電話などの時間を確認する機器を身に着けるのである。そういったものが一切存在しない空間というものは、まるで時間を配慮していないように思えるが、僕を呼び出したこの三番診療室は全く違うことに配慮して、このように時計を設置していないように思えた。つまるところ、村田という人物は知っているのだ。僕の身に起きている異変について。

 開いた窓から流れる渇いた風でベージュ色のカーテンが靡いた。カーテンによって遮断されていた暖かな真昼の陽光が部屋に漏れ出す。

 村田医師は太陽の光に背を向けて、座りながらこちらを見つめていた。

「メメントモリ……この言葉を聞いたことはありますか」村田医師は母の最期の言葉を口に出した。

「母が死に際に……」

「なるほど。母親から感染したとは気の毒なことですな」

 村田医師は憐れむように言葉を放つと、僕は兄の言葉を思い出した。「母さんが悪いんだ」と囁いた兄の幻影は何かを知っているのだろうか。僕自身が知りえない何かを僕の中の兄は知っていたとするならば、兄はなにかのヒントを僕に託しているのではないか。

 村田医師は続けた。

「メメントモリとは、言葉によって感染する精神疾患みたいなものなんです」

「どういうことですか」

「メメントモリとはラテン語で死を忘れるなかれ、という意味です。元々は古代ローマ帝国時代に使われた諺みたいなものなんですが、この言葉には呪い、あるいは言霊みたいなものが宿っていまして、この言葉を聞いた人間はたちまち、あなたが現在発症しているような幻覚症状や精神障害を引き起こします」

「……そんな馬鹿げたことを信じろと?」

「信じるも信じないも、あなた自身が体験したでしょう。死のビジョンや時計を見るときの幻覚、そして骸骨を」

「では何故こんな病気が社会で認知されていないのですか。色々と調べてみましたが、このメメントモリに関する情報はどこを漁っても見当たらなかった」

「この病気、いや呪いは精神医学界のタブーとされているからです。よく考えてみてください。言葉によって感染してしまうのだから、文献やデータの海にこの言葉を残してしまうと多くの人間がメメントモリに罹ってしまう。だから誰もこの病気について研究しようとしないのです。まぁ私を除いてはですがね」

「あなたはどこまでこの病気について知っているんですか」

「私もすべてを解明したわけではないから何とも言えないんですがね、症状はだいたい三つ、死のビジョンを見ること、時計を見る際の幻覚症状、そしてメメントモリを発症した者同士はお互いを骸骨として認識してしまう、この三つです。

 そして、それらは全て自分の死につながる直感的なイメージや感情によって引き起こされているということ。まぁつまり、この病気は精神に作用して発症するということ。私が知っていることはここまでです」

「直すことはできないんですか?」

「完全な治療法は見つけていませんが煩わしい幻覚や精神的不安定さを軽減させることはできます」

「どうやって」

「死を克服するのです」

「死を克服する?」

「はい。誇張した表現になってしまいましたが、死に対する恐怖心を無くすということです。物理的に不老不死になるとかではなく、精神的に死というものに恐れを抱かず、生に執着しない状態になることによって、この病気は気にならなくなるくらいには落ち着きます」

 一通りの説明を聞いて思ったことはただ一つ。

—なんだ別に、そんな恐れることではないじゃないか—

というものであった。

 死神は存在しなかった。

 死神なんてものは居やしなかった。

 僕が迷信的に信じていた、死神というものは、存在しないということを知って、僕は安堵した。今までの不安や危惧が馬鹿らしくなるほどに、ことの顛末はちっぽけなものであったのだ。何故そう思うか。それは僕の身に発症したメメントモリという精神疾患は僕の命までは奪わないからだ。僕は幻覚症状を恐れていたのではない。この症状の先にある死という未来を恐れていたのだ。

死にたくない。これは誰もが抱く普通の感情だろう。人並み以上に生に執着しているわけではないのだ。普通に、死にたくないだけだ。

「あと一つだけ忠告しておきますよ。メメントモリについて、たとえば親族とか恋人とか友達とかにベラベラと話さないことです」

「そんなこと言われなくてもわかっています」

 僕はそう答えて、すっと立ちあがって部屋を出ようとしたが「最後に聞きたいことがあるんですが」と村田医師も立ち上がりこちらへ近づいてきた。こちらとしては、症状の原因がはっきりと分かったので、今すぐここから立ち去って普通の生活に舞い戻ろうと思ったのだが、また何か不吉なことでも言うんじゃないのかと少し訝しげに村田のほうへ顔を向けた。

「【死の天使集会】という怪しい宗教組織をご存知ないでしょうか。あるいは、お母さまが宗教に熱中していた、とかの話は生前聞いたことはありませんか?」

【死の天使集会】、いかにも怪しくて、たちどころに鳥肌が出るほどにチープな名前を聞いて、僕はそれを鼻で笑った。

「母とは十年近く疎遠になっていたのでそういったことはわかりません」

 宗教に対する一般的なイメージは怪しいという一言に尽きる。昔はそれが大きな力を持って政治や戦争、民衆を動かしていたというが、現代ではその力を失ってしまい、小さなコミュニティが互いに違う教義を抱きながらばらばらに点在しているに過ぎない。なおかつこの国では宗教、特に新興宗教団体は、なにかよからぬことをしでかす怪しい奴ら、というレッテルが張られている。

 それは1970年以降に台頭した、多くの新興宗教団体が、ある組織は犯罪に手を染め、ある組織は政治的に力を持つ、などしたからだと思う。一般民衆はそういった連中に対して、見て見ぬ振りをすることに長けている。特にここ日本では。

「最近その宗教組織がメメントモリを広めようとしているみたいなんで、あんまりそういうのに近づかないようにしてくださいね」

 僕も彼も、見て見ぬ振りが得意というわけだ。

 僕は村田医師に軽く礼を言って、その場を後にした。



 病院から出る際に考えていたことは、母と【死の天使集会】とかいう、怪しい宗教団体との関係だった。

 いつからだろう。母がメメントモリに罹ったのは。

 僕の知る限り、物心つく頃には母は既にああだった。死を見つめ、死の傍に居て、死を拒みつつ望んでいた。世に絶望し、生に絶望し、未来に絶望していた。

 母は死を克服できていたのであろうか。

 母のようになることが死を克服するということなのだろうか。

 頭の中で過去の母の姿をイメージする。しかし、曖昧なその記憶情報が僕に確信をもたらしてくれることはなかった。逆に様々な憶測が頭の中を駆け巡る。

 もし母と宗教団体が関係性を持っていたとしたら。

 もしかしたら、僕は母の布教活動にまんまとハマったのではないか。

 母は何を思って、僕にメメントモリを与えた。

 僕の体は病院を出て、駅へと向かっていった。頭であれこれ考えながら僕は家を目指す。歪んで見えていた電光掲示板は依然として歪んでいたが、別にそれによって恐怖心が芽生えることはなくっていた。ケータイを開いた時、時間を見ても、少し視界が悪くなる程度で別に気にしなくなった。

 様々な映像が頭の中で暴れだす。背中を押されて、線路に飛び出す自分。脱線する電車。巻かれたサリン。通り魔に合う自分。車に引かれる自分。リンチにあう自分。

 死のヴィジョンは僕の意識など関係なしに降り注いだ。しかし、これがただの精神疾患の類だとわかると全然怖くないのだ。これは死の可能性を示唆する本能の働き。それが暴走しているにすぎないのだと思う。

 今思えば、この社会には死がいくらでも潜んでいる。そこかしこに存在する死の可能性を現代人は見ないふりすることが大変に上手だ。いつ死ぬかわからないのに、明日、明後日、明々後日、しまいには来年の予定だって建てようとする。人間の生はこの社会で完全に肯定されて、寿命や病気で死ぬ可能性を完全に度外視した人生プランを立ててしまう。

 明日なんてないかもしれないのに、明日を夢見る。  

 ああわかったよ母さん。死は確かにすぐそばにいるみたいだね。

 僕は何となく、母がどんな気持ちで僕たちを育てたか、わかってきたような気がした。

 死が近くにあると、自分の生がより新鮮に、浮き彫りになっていく。これは簡単な表現だと、生きている実感なんて言えるのかもしれないけど、これは普通の生活を送る人間にとっては、荷が重すぎるのかもしれない。

 生の実感なんて要りもしないギフトを母は誰かから与えられて、その実感に押しつぶされてしまったのだ。

 今ならわかるんだ。その気持ちが。


 

 電車を使い、商店街をくぐり抜けて、僕は自分の住まいに到着した。普通のアパート、築十年で綺麗とも汚いとも言い難い普通のアパートだ。

 ここに越してきたのは三年前のこと。理由は彼女の実家に近い、ただそれだけだ。                                    大学時代からの友人だったカレンと恋人として付き合うことになった際に、ここに住むことを決めた。

 僕はいつものようにポケットからキーケースを取り出し、部屋の鍵を錠に差し込む。

 鍵を捻り、扉を開けると、そこにはカレンが居た。

「おかえりなさい」

「あれ、部屋に居たんだ」

 目の前の彼女は、今まで通りの普通の彼女であった。合鍵を渡しているので勝手に部屋に上がったのだろう。艶のある黒髪とぱっちりとした目を携えて僕を迎えた彼女を見て僕はどこかほっとしていた。

 メメントモリを抱いたもの同士はお互いを骸骨と認識する。

 つい先刻まで骸骨と対面していた僕にとって、カレンという普通の人間と話す行為は安心感を与えてくれた。なんだかいつもよりも彼女の肌はきめ細かく見えるし、幾分か露出度の高い衣服を着ているせいか、今までの彼女とは別人のような色気を放っているようにも思えた。

 靡いた長髪が女性特有のフェロモン的芳香を部屋中にまき散らす。

 僕はまるで樹液に釣られたカブトムシみたいに彼女に近づいていく。今まで彼女を性的に見てなかったわけではないが、ここまで魅力的に感じたことは今まで一度もなかった。セックスだって飽きるほどしたし、正直言えば、退屈にさえ感じていた近頃であった。しかし、今は彼女を本能的に求めている自分がいる。これはDNAからの命令なのだろうか。子孫繁栄という、現代社会で最も疎かにされている動物的な人間本能がメメントモリと呼ばれる謎の精神疾患によって目覚めされられたとでも言うのか。

「今日は本当に暑いわね」

「ああ、そうだね」

 僕は思いついたことを口に出した。これは独占欲の最終形態。雄が雌をわがものとするための契約の言葉を。

「カレン、僕と結婚してくれ」


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