あの子とゴールイン
来冬 邦子
俺とあの子のおうち時間
「どうなってるんですか!」
日曜日の開店早々、俺は不動産屋に怒鳴り込んだ。
「いくら待っても連絡一つ無いし!」
「ああ、
カウンターに坐っていた角刈りオヤジが、ひょいと立ち上がって頭を下げた。
「探してるんですがねえ。なかなかご希望通りの物件が無くてですね」
「違いますよ! もう物件なんか要らないんだ!」
「へ?」
角刈りオヤジの目が丸くなった。唐突だがオヤジの本名は
「あの子ですよ! もう三日も姿が見えないんだ!」
「ええと、どこのお子さんですか?」
「ああ、もう! 事故物件のあの子ですよ!」
「あ、例の?」
「そうですよ。霊のあの子ですよ!」
早乙女が笑ったので、思い切り睨んでやった。
「家永さん、いつから霊が見えるようになったんですか?」
早乙女のしたり顔の笑いが腹立たしい。
「三日前にはじめて見えたんです。なのに、消えちまって、それっきりです」
俺は体を
こんなに誰かに逢いたいと思ったのは生まれて初めてだ。それなのに、あれきり姿を見せてくれない。あの子が成仏してしまったのなら諦めようと思う。でもそうでなかったら。
「まあまあ。すこし落ち着きましょう。お茶を淹れますから」
俺は応接スペースに通されて、やたらに柔らかいソファに坐らされた。腰が沈んで、すぐには立ち上がれそうにない。早乙女は奥からお茶と和菓子をお盆に載せて戻ってきた。
「さあ、どうぞ」
テーブルを挟んで俺の向かいに坐り、自分の湯飲みから一口グビリとお茶を飲んだ。しびれを切らす俺を焦らすかのようで頭に来る。
「早乙女さん、あの部屋でいったい何があったんですか! 教えてくださいよ!」
「そりゃあ困りました。言えないんですよ。個人情報ですから」
「そんなのってあるか! 俺は三カ月もあの子と同居してたんだぞ!」
立ち上がろうとする俺の肩を早乙女はチョンと突いて、ソファに押し戻した。
「しょうがないな。それじゃあ新聞に載ってることぐらいはお教えしましょう」
「お願いします」
俺は胸ポケットから手帳とペンを出した。
「おや、手帳ですか。今どきアナログですね」
「そんなことはいいから早く教えてくださいよ」
早乙女はニヤッと笑った。
「まず、あの部屋では誰も死んじゃいませんよ。縁起でも無い」
「なんだって? 事故物件だって早乙女さんが言ったんですよ」
「ウソじゃありませんよ。あの部屋で事故があったのは確かなんですから」
「事故ってどんな?」
「半年前、あの部屋で一人暮らしの女性が睡眠薬を飲み過ぎたんですよ。間違えたのか、故意なのかはわかりません。なにしろ、それきり意識が戻らないんだから」
俺の体はまた震えだした。
「それじゃ、それじゃ、俺の部屋にいるのは……」
「生き霊というか、幽体離脱というか、そんなところでしょう。あの部屋がとても気に入っていたようでしたから、あの子は」
俺は取り落としかけた湯飲みをかろうじて握りしめた。
「ネグリジェを着ていたってんでしょ? きっと入院しているせいですよ」
あの子が死んでない。あの子が生きてる。叫び出したいくらいに嬉しかった。
俺は湯飲みを握りしめて泣いた。
「家永さん、大丈夫ですか」
早乙女の大きな手がポンポンと俺の背中をたたいた。
「すみません。怒鳴ったりして。ほんとうにすみません」
「気にしないでくださいよ。あの子はいま言った通り入院中です。コロナで面会が出来ませんから、今日の午後にでも、御自宅の方へ行って様子を訊いてきましょう」
「早乙女さん、ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
遅い朝飯をパン屋で買って、とぼとぼとマンションに戻ると、部屋の前の外廊下で帽子を被った女性とすれ違った。白いコートが長すぎて裾を引きずりそうだ。この奥には俺の部屋しかないからエレベーターのボタンを押し間違えたのだろう。
玄関の鍵を開けようとして、何かが俺を引き留めた。
――いや、待てよ。まさか。
俺が振り返ると、その女性も振り返って俺を見た。
帽子を
「あの、家永さんですか?」
おずおずとした細い声。あの子の声だ!
「はい、家永です。ひょっとして君はこの部屋の――」
あの子はポロポロと涙をこぼして言った。
「ああ、夢じゃなかったんだわ!」
俺とあの子は、あの子と俺の部屋でお互いの身に起きた怪異を語り合った。
あの子の名は
半年前に倒れてから三日前に意識を取り戻すまで、あの子はこのマンションで暮らし続けている夢を見ていた。初めての一人暮らしが楽しくて、勤め先のハラスメントも家に帰れば忘れられた。そんな或る日、突然見知らぬ男が引っ越してきて、自分は部屋の隅に追いやられた。
「許せないと思ったの」
雪奈はいたずらっぽく笑った。「ここは、わたしのお城なのにって」
「それであんな嫌がらせをしたんだね」
やれやれ。俺は苦笑するしかない。
「ごめんなさい。でも家永さん、ちっともわたしに気づかなくて、この人、もしかしたら幽霊なんじゃないかしらって思ったわ」
俺が笑うと雪奈も笑った。鈴を振るような綺麗な声だった。
「でもいつも一緒にいるうちに、だんだん家永さんのことが好きになって」
雪奈は両手で朱く染まった頬を隠した。
「お掃除の御礼を言って貰えたときは、嬉しくて心臓が止まるかと思ったの」
「あの後、消えちゃったよね」
「気がついたら、病院のベッドに寝てたわ。わたしが『家永さんは?』って訊いてるのに、うちの母親ったら大泣きするばっかりで聞いちゃいないし」
「嬉しかったんだよ。君が目を覚ましたから」
「そうね。まさか半年も経ってるなんて、ビックリ」
「僕だって泣くさ。同じ立場なら」
雪奈が目を見開いて俺を見た。
「二度と幽霊になんかにならないでくれよ」
細い肩を抱き寄せようとすると、雪奈が笑ってするりと逃げた。
「こら、待て!」
俺はあの子を追いかける。
もう逃がさないぞ。二人でゴールインするんだから。
< 了 >
あの子とゴールイン 来冬 邦子 @pippiteepa
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