白昼の迷宮

スズヤ ケイ

白昼の迷宮

「リアル脱出ゲームに挑戦してみない?」


 由香ゆかがそんな事を言い出したのは、先週の事だった。


 僕と由香は高校に入ってすぐに付き合いだして、もう2年目になる。


 デートコースが少しマンネリ化してきたので、一風変わった場所を開拓してみようと話し合っていたのだ。


 そこで由香が目を付けたのが、近頃流行りらしい「リアル脱出ゲーム」だった。


 雑居ビルなどの中身をまるごと改築した巨大な迷路を、様々な謎や仕掛けを解き進んでゴールへ向かうものらしい。


 推理ものミステリーが好きな僕と、運動アクティビティ好きな彼女との折衷案としては絶好の案件だ。


 意見が一致すると、由香はその日の内に行き先までのルートから日取りまで、あれよあれよと決めてしまった。


 彼女の即断即決はいつ見ても気持ちが良い。



 そんなのほほんとした気分は、現場に立った時点で吹き飛んだのだけど。


 ビルの外観は至って普通。


 しかし入り口の雰囲気が異様だった。


 自動ドアの回りは赤いペンキがぶちまけられたように、まだらに染まっている。


 中に入れば、白いタイル張りの床に点々と、赤い足跡が受け付けまで続いていた。

 早くも異界に迷い込んだ気分だ。


「いらっしゃいませ!  ようこそ、『迷宮から脱出せよ』エスケープ フロム ザ ラビリンスへ!」


 にこやかに迎えてくれたのは、目や口から血の糸を垂らすおどろおどろしいメイクをした、ナース姿の女性店員だ。その白衣もあちこちが破れて赤い染みがある。


 迷宮のコンセプトは毎月変わるそうで、今回はホラー仕立て。廃病院をモチーフにした舞台だという。


 それを聞いた僕は、内心後悔してしまった。


 由香には恥ずかしいので内緒だったけど、僕は怖いものが苦手なのだ。


 でも、


「すごい内装凝ってるねー! 中も楽しみー!」


 なんて目をキラキラさせる彼女を見たら、今さらやめたいなんて言い出せない。


 結局店員の説明もろくに頭に入らないまま、挑戦は始まってしまった。


 ガチャァン……


 後ろで扉が閉まる音が、妙にねっとりと耳に絡み付く。


 もう後戻りはできない。


 前を向けば、薄闇に沈んだ白い廊下が真っ直ぐに伸びていた。

 先々を、ちかちかと明滅する非常灯の緑色だけがぼんやり照らしている。


 浮かび上がる背景は、確かに古ぼけた病棟のイメージそのままだ。


 防音も完璧なのだろう。表の喧噪が嘘のような静寂で満ち、作り物とは思えない不気味さを感じる。


「雰囲気あるね……」

「ねー! 何が出てくるかな!」


 何とかそれだけを漏らした僕に、明るい笑顔を向ける由香。


 本当に頼もしい彼女だ。


 勇気を分けて貰った僕は、意を決して足を踏み出した。


 左手は由香の手を握り、右手にはモデルガンを持って。


 意外にも重いその模型を意識した事で、店員の説明を一部思い出す。


 迷宮内には正体不明の殺人鬼エネミーがさまよっていて、隙を見て襲撃してくる、という設定だった。


 対して僕達プレイヤーは、付近の物に隠れてやり過ごしたり、この銃で撃退したりして、その場をしのぐ事になる。


 捕まらずにゴールまで辿り着けばクリアというルールだ。


 銃を使えるのは一人一回。

 そう考えると、緊張でグリップを握る手がぶるりと震えた。




「──ねぇ、おかしくない……?」


 しばらく歩いたところで、由香が呟いた。


 僕は恐怖心を抑えるのに必死で、周囲に気を配る余裕もない。


「な、何が?」


 そんな間抜けな返ししかできなかった。


 すると由香は綺麗な眉をひそめつつ、声も潜めた。


「入ってからもうずいぶん経つのに、何もイベント起きないじゃん……」


 その方が僕にはありがたいけど、由香は不満そうだ。


 でも、言われてみれば……


 ここまで、病室のドアや曲がり角は一つもなかった。


 ずっと一本道の廊下ばかりが続いている。


 前も後ろも、まったく先が見通せない。


 ビルの外観からは、こんなに奥行きがあるようには思えなかったけど……



 違和感を感じると同時に。



 背後から、カツン、カツン、という硬い音が響いてきた。



「も、もしかして殺人鬼かな」

「こんなところで出るの!? 隠れる場所全然ないのに」


 見回しても、左右は灰色に煤けた壁があるばかり。


 その間にも、靴音らしきものは聞こえている。


 隠し通路などを探している暇はなさそうだ。


「……走ろう」


 思考を放棄した僕は、由香の手を握ったまま促した。


 頷く由香と一緒に駆け出すと、


 カツン……カツンカツンカツンカツン……


 背後の音のペースも上がった。



 ──向こうにも、僕達の足音が届いてしまったんだ!



 僕と由香は視線を交わすと、走る速度を上げた。


 運動不足がたたって、全身がきしむのを感じる。


 それでも迫る者を振り切るために、必死になって走った。



 カツカツカツカツカツカツカツカツ……



 呼応するように小刻みになる靴音。


 心なしか、大きくなっている。


 僕はちらりと肩越しに目をやると、声にならない悲鳴をあげて、全速力に切り替えた。


「なになに!? ──きゃああああ!!」


 釣られて振り向いた由香も、すぐさま僕に追い付いた。


 もう見える範囲に、何者かが迫っていたのだ。


 一瞬だったので全身は見えなかったけど、巨大な斧のような物を手にしているのだけは、はっきりとわかった。


 ──ドガアァンッ!!


 不意に、後方で大きな音が鳴り、廊下全体が揺れる。


「何!? 地震!?」


 立ち止まった由香と共に辺りを見回すと、追跡者が振り下ろした斧を、陥没した床から引き抜いているところだった。


「ちょっと、脅かすだけじゃないの……? あんなの、死んじゃうよ」


 あまりの迫力に、由香が僕の胸にすがってくる。


 いつもならふわりとした髪の香りを楽しむところだけど、とてもそんな余裕なんかない。

 気を抜くと漏らしてしまいそうだ。


 足がすくんでしまった僕達へ、人影がのそりと寄ってくる。


 非常灯の範囲に入るにつれ、その全貌が徐々に見えて来た。


 下半身は、ゲームなどで見るような西洋風の長い腰巻。

 その上は裸体がむき出しで、ものすごい筋肉の塊だった。


 先程の振動が納得できる、廊下を塞がんばかりの巨体。


 しかし視線を上げると、それよりショックなものを見せつけられた。


『──ひぃぃ!?』


 二人して抱き合い絶叫する。


 本来人の顔があるべき場所には、どう見ても牛のような頭が乗っていたのだ!


 半開きの大きな口からは荒い息と涎を垂れ流し、虚ろな瞳をぎょろりとさせて僕達をねめつけている。


 扮装にしてはリアル過ぎた。


「もう無理!! 降参! ギブアップします!!」


 僕が両手を上げて叫ぶと、由香も激しく首を縦に振った。


 続行不可だと判断したら、退場リタイアさせてくれるとルールにはあったのだ。


 なのに……


 カツン。カツン。


 牛男はこちらへ歩き始めた。斧を頭上に振りかぶりながら。


「待って……降参だってば」


 カツン。カツカツカツカツ。


 聞く耳持たないとばかりにのっしのっしと走り出す。


 由香が僕のシャツの襟首をぎゅうっと握りしめた。


 ──その仕種で、僕は閃いた。


 右手に、現状を打破できる可能性が残っている事を。



 僕は無我夢中でモデルガンを正面に向け、ためらわずに引き金を引いた。


 バァン!!


 予想に反して、凄まじい反動と銃声が上がる。


 同時に、牛男の頭がぐしゃっと弾け飛んでいた。


「きゃあああ!」

「ほ、本物!?」


 困惑する僕達の前で、ただの男になった肉塊が、赤い液体を噴き出しながら仰向けに倒れていく。



 ……動かない。



 僕は人を、殺したのか……?



「……考えるのは後にしよう。早く逃げなきゃ」


 疑問や罪悪感はこの際置いておけ──


 辛うじて残った理性はそう指令を下し、まだ呆然とする由香を無理に立たせて歩き出す。



 その後、新手を警戒しながら進んでいると、唐突に明るい場所へ出た。


 ざわざわとした日常の音がする。


「脱出、おめでとうございまーす!」


 光に慣れた目の先で、骸骨メイクの女性店員が朗らかに拍手をしていた。


「も……戻って、来れた……?」

「はい! お疲れ様でした! すごいですね、お客様。一度も発見されずにゴールなんて! こちら、景品になります!」


 包装された小箱を渡して来る店員の言葉に、更に困惑してしまう。


「いや、あの……牛みたいな人、いましたよね?」


 銃を返しながら質問すると、店員は首を傾げた。


「牛? そんなのキャストにいたかしら……?」


 とぼけているようには見えない。


「ええと……じゃあ、それって本物なんですか?」

「え? まさか~!」


 彼女が引き金を引いて見せると、多少派手な破裂音がしただけだった。





 ビルを出てからしばらくしても、まだふわふわとした感覚が残っている。


 二人して白昼夢でも見ていたんだろうか。



 果てしない迷宮。

 牛頭人身の男。


 そして……死。



 それらのワードは、とある哀しい神話を想起させた。


「……何だったんだろう」


 思わず零すと、由香は僕の腕に勢いよく組み付いてきた。


「怖かったね……でも、嬉しかったよ」


 そう言って僕の肩に頭を預ける由香。


「え、な、何で?」


 周囲の目が気になり、僕は狼狽えながら聞き返した。


「カッコイイとこ、見せてくれたから」


 上目遣いな目がすぐそばにある。


「ありがとう。守ってくれて」

「……うん」


 僕は右手へ視線を落とす。


 あの時体が動いたのは、きっと由香がいてくれたからだ。


 彼女が僕の意識の糸を手繰り寄せてくれなければ、今頃……


 軽い怖気おぞけを感じ、誤魔化すようにわざと声を張った。


「自分でも、よく咄嗟にあんな事できたなーと思うよ!」

「……ふふ、そうだね! 直前まで、『降参で~す!』なんて情けない声出してたのに」

「そこは忘れて欲しいな……」


 悪戯っぽく笑う由香に、僕は頭をかいてみせた。


「無事にゴールできて……良かった」


 僕の腕を掴む力を強めて、由香が言う。


 その安堵した顔を見たら、あれこれ考えるのが馬鹿らしくなった。


 帰って来られた。それでいいじゃないか。


「そうだね。二人一緒にゴールまで行けて、本当に良かった」


 どちらが欠けても、には戻れなかった。


 何故だかそんな想いに駆られ、僕は人込みにも構わず由香を抱きしめた。


 彼女もぎゅっと抱擁を返してくれる。


 伝わる温もりで、ようやく現実に戻れた気がした。



 僕らの脇を通り過ぎた人が、「バカップルめ」と言い捨てるのが聞こえた。

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白昼の迷宮 スズヤ ケイ @suzuya_kei

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