世界平和を目指す少年の話

夜長 明

目標へにじり寄る

 今日もまた、世界平和に一歩近づいた。

 飢えた野良猫に餌をやり、困っているおじいさんに道を教え、ごみだらけだった教室をくまなく掃除した。上出来だ、と確かな達成感と共に森野凛太郎もりの りんたろうは独りごちた。

 凛太郎は世界平和を目指している。というのは、冗談ではない。人がその気になれば世界平和は実現できるはずだ。なぜなら世界平和は誰にとっても理想だから。争いのない世界を望まない人がいるとすれば、それは正義の味方くらいのものだ。正義の味方にとって、対立は自分の価値を証明する機会でもある。なぜなら対立する悪がなければ、正義の価値が実感されることもないから。

 だから凛太郎は正義の味方ではない。ただ純粋に世界が平和になればいいと思う。それが実現困難なことであることを理解している。けれど、それは不可能ではないとも確信している。今日が終われば必ず明日がやってくることを疑わないように、世界平和は決して手の届かない理想郷なんかではない。


 *


「世界平和を目指すなんてまだ言ってるの」

 と彼女が言った。視線は依然として手の中の文庫本——おそらく彼女のお気に入りの小説——に向いている。僕はその質問の意味を上手く受け取ることができず、首をかしげた。

「まだってどういうこと」

「そのままの意味だけど」

「じゃあ、うん。まだ言ってる」

 ああそう、と彼女は答えた。僕の答えに納得しているようには見えなかった。顔は文庫本に向けたまま、こちらをうかがうように目だけがほんのわずかに動いた。

「世界平和のために、君に何ができるっていうの?」

 そんなこと、いくらでもある。それをひとつずつ説明したところで、彼女が完璧に理解できるとは思えなかった。けれど、ここで何も言うことができなければ世界平和にも遠ざかる気がした。

「たとえば野良猫に餌をあげるとか」

「野良猫に餌をあげると、世界は平和になるの?」

 彼女と話していると「気が合うな」と思うことが多い。たとえば今の回答に対して大抵の人は「そんな訳ない」とか「何言ってんの」というような、完全に拒絶としての反応を返す。こちらの意見を完全に間違ったものとして扱い、検討することすらしない。けれど彼女は違う。僕の言葉を一度受け止めてから、それに対して誠実に疑問をぶつけてくる。相手を頭から否定しない彼女の建設的な態度を、僕は好ましく思っていた。

「もちろんだよ。不幸な猫がいたら、それを悲しむ人がいるかもしれない。猫が助かったことで助かる人もいる」

「猫が助かったことで不幸になる人もいるかもしれない。その可能性は? たとえばその猫に足を引っかかれるかもしれない」

「可能性はある。けどね、猫が助かって助かる人の方が多いんじゃないかと僕は思う」

「つまり、猫に引っかかれた人はどうでもいいって言うの」

「誤解を恐れずに言えば、そういうことなのだと思う。でも世界平和になって困る人というのはいない」

 正義の味方なんて、世界平和に比べれば大した存在ではない。平和になった世界で正義の味方が困っているというのであれば、それは本当の正義の味方ではない。本物の正義の味方なら、怪人のいなくなった世界を喜んでいればいい。それで正義の味方がアイデンティティを失ったしても、そんなのは知ったことではない。というかそもそも、世界平和で困るというのは矛盾している。

 本は開けたままの状態で彼女はこちらに向き直り、疑うような眼差しを真っ直ぐぶつけてくる。

「本当にそうかな? 世界平和になっても問題の一つや二つあると思うけど」

 そんな簡単に世界平和が実現するなら、もうとっくに実現していないとおかしい、と彼女は言った。

 ああ、そういうことか。

「僕が言うところの世界平和っていうのはつまり、問題がないから世界平和なんだ。だから、問題のある世界平和なんてものはない」

「あらゆる問題が解決された理想郷ってことね」

「少し違う。それは理想郷なんかじゃないよ。確実に実現可能な未来だ」

「猫を助けることと比べると、ぜんぜんスケールが違うでしょ。もしバタフライ効果みたいなのがあっても、きっとそうはいかないよ。猫と世界平和が繋がっているとは思えない」

「猫はたとえの一つだよ。世界平和はね、言ってしまえば今すぐにでも到達できる。ただ全ての人が世界平和を望めばいい」

「願っただけじゃ現実の問題はなくならないんじゃない」

「そうかな。みんなの考えが一つの同じ方向を向いているなら、問題はすぐに解決できる。問題が問題になる前にね」

「それは理想論だと思う」

 彼女にとっては理想論でも、僕はこれをとても現実的な思考だと思っている。価値観の違う相手にこのことを上手く説明するのは難しい。

「なんて言えばいいかな。世界平和を実現する現実的な方法ってそれくらいしかなくない?」

「世界平和を実現する現実的な方法」

 違和感のある表現に聞こえたのだろう、彼女は確認するように呟いた。ふと、彼女がさっきまで読んでいた文庫本が表紙を下にして机の上に置かれていることに気づいた。

「そうだよ。世界平和を望まない人なんかいないのに、みんなそれに無自覚なんだ。だから僕は世界平和を目指すことを口にするのを躊躇ためらわないようにしてる」

 ふうん、と曖昧に頷いて、彼女はそれから何も尋ねなくなった。読みかけの文庫本を手に取ると、またゆっくりとページをめくり始めた。

 彼女が今の話に納得しているとは思えないけれど、少しでも理解してくれたら嬉しいなと思う。

 それも世界平和という遥か遠くの、しかし確かに目に見える目標に向けたかすかな前進だから。


 それから僕も適当に見繕みつくろった本を読んで過ごした。放課後の図書室は世界平和の象徴みたいに静かだった。

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