ゴールイン
尾八原ジュージ
ゴールイン
「おうち時間を利用して、ちょっと走ってみるね」
同棲している彼女にそう言われたとき、僕はてっきり近所をジョギングしてくるのだろうと思った。厳密にはそれはおうち時間ではないだろうがまぁいいかということにした。こういうところにつっこむと「細かいところにうるさい」と逆ギレされるものだ、と僕の直観が告げていた。
ところが彼女はこの二人の愛の巣、つまり軽量鉄骨二階建てのメゾネット2LDKの中を走り始めた。玄関から狭い階段を上り、リビングダイニングをぐるりと一周してまた玄関へ。これを延々と繰り返すのだ。すれ違った彼女の顔はギッと瞳孔が開いた真顔で、僕はゾッとしてしまった。これはもうホラーの領域である。僕が何と声をかけても彼女は反応せず、体当たりして転ばせても黙って起き上がる。
もうなすすべはない。僕はスマホを手にした。
『助けてください』
そう書き込んだのは、趣味で小説を書いている人たちのSNSのサークルだった。僕のトンチキSFもどきを読んでくれ、またそれを超える傑作を易々とアップしてくる僕の仲間たちなら、何か画期的なアイディアを思い付くのではないかと思ったのだ。さっそくオンライン会議が開かれた。作戦が決まったのは、21回目のトイレ休憩を終えた後であった。彼女が走り始めてから、すでに50時間以上が経過していた。
『ゴールを用意すればいいんじゃないかな』
作戦に直接関係のない創作論や雑談に尊い時間を溶かしまくったのち、僕たちが至った結論はそれだった。僕は仲間たちの提案に従って紙テープを入手し、それからあるものを買いにいった。その間も彼女は延々と走り続けていた。もう身体が限界に違いない。早くこのおうちソロマラソンを終わらせてやらなければ。今更ながら僕は急いだ。
さて準備を整えると、僕はダイニングと短い廊下の間に張ったピンクの紙テープの横に正装して片膝をつき、彼女が部屋を回ってこちらにくるのを待った。トントンと足音が近づいてくる。汗だくの彼女のウエストに紙テープが触れ、切れた。
「ゴォーーール!!!」
僕はでっかい声で叫んだ。あんなにリアクションのなかった彼女が、ぎょっとしたように立ち止まった。僕は彼女の正面にさっと移動し、ポケットから取り出したジュエリーケースをパカッと開けて中の指輪を見せた。
「結婚してください!」
彼女は荒い息をつき、呆然と僕を見つめていたが、急に泣きそうな顔になると、
「はい!」
と答えて僕に抱きついた。汗が冷たかったがそんなことはどうでもよかった。
こうして僕たちは結婚した。そういえば結婚することをゴールインなんて言うこともあるが、僕たちにとっては新たなスタートそのものだった。
今二歳になった息子を追いかけて部屋を走り回る彼女を見ながら、僕はああ尊いなぁと思ってみたり、カメラを持って二人を追いかけてみたりする。いつか来る人生の終わりまで、こうやって彼女と一緒に行けたらいいなと思う。
ゴールイン 尾八原ジュージ @zi-yon
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