ソロ育児〜第二王子の養育は命がけ〜

汐凪 霖 (しおなぎ ながめ)

なんだ、そのソロ育児。

「キンガさんって、ヴァンが生まれたときから一緒なんですよね」

 今日も指定席で何やらふわふわしたものを編んでいる老齢の侍女に、カップを手にしたマリシュカが話しかけた。

「はい、左様でございます。正確には、殿下が生後3日目から、お側に侍らせていただいております」

 手を止めたキンガに、「あ、いいの。続けてください」と、マリシュカが笑う。侍女は黙礼すると、その言葉に従って作業を再開した。

「いやぁ、王子の養育係が一人だけって、前代未聞ですよねー」

「……死産だったことになっているからな」

 ペーテルの明るい声に、ヴァンの静かな声が続く。

 マリシュカが首を傾けた。

「それなんですけど。ずっと不思議に思ってて。なんで、そんなことになってるんですか? お師匠さまも、王さまも、お城ここの方々も、誰も教えてくれなくて」

 数秒間、室内を沈黙が支配した。空気が重苦しくなる。キンガの様子は変わらないが、ヴァンの口元も強張っている。

 ペーテルが両手の指先を合わせて、天井を見上げた。

「あー……それね……うん、私めは聞きましたけどね。知らないほうが幸せなことだと思ってますよ、マリシュカさま」

「ペーテルさんは知ってるのに?」

「私めは殿下の近侍としては2人目で、しかも、教師としても接するようにとのことでして。そんなお役目に就きたくない方々が職を盥回ししてましてね。最終的に私めに押しつけられたときに、とある親切な方が懇切丁寧に教えてくださいました」

 ヴァンが大きな溜息をく。


「僕が生まれたときに5人の人間を死なせたからだ。母も含めて。産声とともに産室内にいた者の身体は四散した。壁にも天井にも、彼らの血と肉塊が飛び散っていたそうだ。そして、部屋の中央で僕が泣き叫んでいた」


「殿下ぁ」

 咎めるようなペーテルの呼びかけを、ヴァンは聞き流す。

「知らずにかよって来るのは良くない。知って来なくなるならば、それで構わないだろう」

 驚きに硬直したマリシュカの手にあるカップが傾き、中のハーブティーが流れ落ちてテーブルに水たまりを作った。

「はっ! はわわわわぁっ! ご、御免なさいっ!」

 慌ててカップを置き、どこからか取り出したハンカチでテーブルを拭くマリシュカに、ペーテルは憐みの目を、ヴァンは無感情な目を向けた。


「……落ちついたか?」

 手ずからマリシュカのカップにお茶を足して、ヴァンが訊く。マリシュカは、しょんぼりとしつつ、

「はい……ありがとう、ヴァン」

 お茶の礼を述べた。

「気にするな。つまりは、僕の側にいるのは命の危険があるということだ。キンガとペーテルは無事だが、お前も無事でいられるとは限らない。だから、ここに来なくていい」

 マリシュカは、むっとしたようだった。


「原因がヴァンだって証拠でもあるの?」


 一瞬、ヴァンは何を言われたのか、分からなかった。

「──あ、あ……王宮魔術師が僕の魔力が暴走したのだと告げた。赤ん坊に制御しきれないほどの魔力だったと。今でも時々、思いがけない発動をする」

「確かに、あなたの魔力は異常なほど強いわ、ヴァン」

 橄欖石色ペリドットグリーンの瞳を細くして、マリシュカがヴァンを凝視する。その輝きの強さに、ヴァンは気圧された。

「もしかしたら、お師匠さまと同じくらい……ううん……もっと強大かもしれない。だけど、赤ん坊のときのことで、正確なことは判らないでしょ。決めつけてはダメ」

 鼻息荒く人差し指を突きつけられ、ヴァンは思わず頷いてしまった。

「あ、ああ……わかった……」

 ペーテルが、くすくすと笑っている。それをヴァンは横目で睨んだが、ちょっと頭の弱い従僕兼教師は、主人の憮然としている様子を面白そうに眺めていた。


「じゃあ、ヴァンを育てたのは、キンガさんだけなんですね。大変だったでしょう?」

 再び侍女の指定席に声をかけると、彼女は穏やかに答えてきた。

「いいえ。殿下は大変に温柔おとなしい赤子でいらして、決まった時間にお食事などのお世話を怠らなければ、お泣きになることも殆どございませんでしたから。ですが、そのご様子は赤子としては心配で、医師の診察を奏上いたしましたがお聞き入れくださらず、大変に気を揉みました。しかしながら、このように、ご立派にお育ちくださいまして、わたくしは安堵いたしております」

 珍しく、にっこりと微笑んだキンガに、ヴァンの顔色が明るくなる。


 ペーテルが素朴な声音で悪意なく問いかける。

「そういえば昔から気になっていましたが、キンガさん。当時のあなたは乳母には不適格でいらしたでしょう。授乳って、何をどうやってしてたんですか?」

「勿論、このばばには殿下に母乳を差し上げることが出来ませんでした。そこで、恐れながら海綿に家畜の乳を含ませまして、お口もとにこう、近づけて差し上げますと、赤子ながらにご聡明な殿下は察してくださいまして」

 従僕は頷き、

「へぇ。なるほど。ちなみに夜泣きなさったら、どうなさってました?」

「殿下は夜泣きなさったことがございませんでした」

「えっ、昼も夜も泣かなかったんですか」

「記憶にあるかぎり、軽く ぐずられたことが数回あっただけでございましたよ。おやすみの時間が長く、いつもお健やかで、ご年齢を重ねられるにつれ利発な王子殿下になられましたから、わたくし一人でも、どうにか務めを果たしてまいりました。お役目を任せてくださった陛下には、胸を張って殿下を誇りにご覧いただきたいと申し上げられます」

「キンガ……」

 ブルーフローライトの澄んだ瞳を潤ませているヴァンを見て、マリシュカも嬉しくなる。ところがペーテルは肩を震わせていた。


「なんだ、そのソロ育児……全然、育児の苦労と無縁じゃん……めちゃくちゃ楽じゃん。高齢の侍女の命も惜しまない無慈悲っぷりに同情を寄せられていたのに、全否定だよ」

 ぶつぶつ口の中で呟くペーテルの本音は誰にも届かず、忠義者のキンガの慈愛深さに感動している少年少女のきらきらとした瞳は濁ることなく、その心の平安を維持できた。

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