孤独少年放浪記

添野いのち

違った道でもいいと思えるように

 今日はここらで引き返すか。

 明日はもっと遠くへ行けるだろうか。

 最近、日が沈んだ後に俺が考えるのはこんな感じだ。


 俺は数年前に両親を亡くしてから、テストの時を除いて学校には行っていない。年数回帰ってくる叔父から支給される生活費を使って日本各地を1人で旅行しているのだ。電車やバス、歩きで移動しては何かを食べ、適当なホテルをとり、部屋に入るや否やシャワーを浴びてお茶を飲んで一息つき、そして眠る。中学校に行く日や家にお金を取りに戻る日以外は、こんな生活を毎日送っている。

 小学校の頃から俺には気の合う友達がいなかった。誰かと話をしていると、どういうわけか1分ほどで何を話せばいいのかが分からなくなり、言葉が喉でつっかえてしまうようになる。昔はなんとか治そうとしたものだが、今は治しようのないものとして受け入れたつもりでいる。

 両親が亡くなり親権が叔父に移った日、確か小6の秋だったかと思うが、その時にこのコミュ障について叔父に相談した。すると叔父は、

「誰かと話せないせいで学校に行っても楽しくないと思うのなら、いっそのこと1人でしかできないことを学校の外でやりなさい。ただ、テストとか、誰とも話さなくても済むような大事な行事だけは行くように、あと勉強は1人でも怠ることのないようにしろよ。それさえ守ってくれるのなら、あとは私が渡すお金で好きにしてくれたらいい。」

 と僕に言ったのだ。これがきっかけで、1人旅行に出ることを決意したのだ。

 実際のところ、こうして旅行に行っている方が、僕にとっては得ることが多いような気がする。学校で学ぶ他の誰かと協力して生きていくことの大切さとかは、コミュ障の俺には全く必要のない知識である。他人と関わって生きていく術を学ぶよりも、1人で社会に貢献しながら生きていく方法を模索する方がよっぽど都合がいいし、将来役に立つと本当に思う。

 旅行を始めて半年ほど経った頃、俺に初めて将来の夢ができた。それは小説家。“1人”でただただ物語を書いていくことに憧れを抱いたのだ。

 旅行を始めて1年ほど経った頃、四季の変化の美しさを身にしみて感じた。1年ずっと旅行を続けた体は、それぞれの季節の景色や香り、雰囲気の変化を繊細に覚えていた。

 旅行を始めて1年半ほど経った頃、日本のどこにいくにしてもほとんど迷わなくなった。鉄道やバス、飛行機などの路線がどこを通っているのか大体覚えてしまったからだ。

 旅行を始めて2年ほど経った頃、日本のほぼ全ての都市を訪れ終わった。つまり1周したのだ。それで2周目に入り、訪れたことのある都市を再び訪れるようになったのだが、前訪れた時との変化や前は気づかなかった場所を見てみたり、新しい発見は尽きることがないと気づいたのだ。

 学校に行かないというだけで、人として外れたことをしているのは自分でも分かっている。でも俺は旅行をし続けるという選択が間違っているとは全く思わない。例え叔父の助言がなかったとしても、だ。“普通の人”とは違った道でも、それが自分にとって1番良くて別に誰かに迷惑をかけるわけでもないのなら、堂々とその道へと歩みを進めていきたいと、俺は思っている。


 窓から差し込んできた朝日の光で目を覚ました。サクッと顔を洗い、お茶を飲み、昨日洗っておいた水筒に水を入れておく。そして荷物を小さなリュックサックにまとめ、ホテルを後にするのだ。

「今日は北の方へ電車で行ってみるか。」

 新しい発見を求め、俺は今日も違う道を進んでいく。

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孤独少年放浪記 添野いのち @mokkun-t

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