御手洗くんは幽霊部員

北野椿

第1話

 学期も中ほどになると、土曜日の授業は大学生を呼び出す力がなくなるらしい。必修でないことも手伝ってか、広い教室にいる人影は疎らで、教授も終始窓の外を眺めてはため息を吐いていた。く言う僕も、梅雨明けの陽射しに話しかけられるかのように時折、校舎裏の中庭を見つめてしまう。青々と茂ったブナが風に揺れている。大きなガラス一枚隔てても、ざわめきが聞こえるようで心地よい。退屈な空気が充満するこの教室から、早く抜け出したいという気持ちが募る。

 教授が緩慢な動作で腕時計を見たのと、終わりのチャイムが鳴ったのは同時だった。それを合図に、誰彼だれかれともなく、教室後ろにぽっかりと開いた、光の差す出口へと吸い込まれてく。駅へ、他の教室へ、食堂へ、各々の目的地に散っていく細い人の波に潜り込んで、僕はサークル棟へと向かった。

 サークル一階の出入り口はガラス張りで、入ってすぐのところに棟の運営を担う学生部が仕切る窓口がある。一サークル会員の僕は、授業終わりに、そこで学生証と鍵を交換してもらい、部室に向かうのが習慣だった。貸し出し表の一つ前の退出欄に、数分前の時刻が書いてあった。どきりとする。よく見る名前だった。

 脇にある階段を上り、教室よりはいくらか賑やかな廊下を早足に抜けて、角にあるドアに鍵を差し込む。ガチャリと錠の開く音を確認してノブを捻って押すと、くぐもった土の匂いが鼻をくすぐった。

 土埃で汚れた四人がけのソファーと、対になるように置かれた長机、離れたところに並んだ轆轤ろくろとサイドテーブル、奥には大きな棚があった。奥行きの広い4段ある棚にはそれぞれ、まだ焼かれる前の陶器、一度焼いて釉薬をかける前の素焼きのもの、陶器のもととなる陶土とうど、バケツを始め細々とした道具が置かれている。僕はソファーにショルダーバッグを投げ出して、陶土の棚の一番手前に置かれているビニール袋に包まれた茶色い、傾斜がなだらかな円錐状えんすいじょうの塊に一目散に近づいた。手を伸ばして触れようとする間際、ふと思い出して振り返る。目当てのものは、すぐに見つかった。長机の、乱雑に書類が積まれた側に置かれたA4の黄色いノート。手にとってページをパラパラと捲ると、直近のページの書き込みが目に入った。

《部誌では、はじめまして! 今日は、新しい土が届きました。みんなどんどん作陶さくとうしようね! B3 伊野》

――B(achelor)バチェラーってことは学部生だ。学部3年なのか、伊野先輩。

 サークル棟窓口の貸し出し表にあったのは、「伊野美鈴」という名前だった。この人は、今日に限らず、土曜日の僕が来る前に部屋を使っていることが多い気がする。

 近くに置かれたペンが目に入り、それを手にするとノートを机においた。屈んで、何か書こうと思案する。

 何も浮かばない。

 紙においたペンのインクがじんわりと広がっていることに気づいて、急いでノートを振って乾かした。なんとなくやる気が削げて、ペンを戻してノートを閉じる。近くにあった段ボールへと腰を下ろした。先程まで使っていたのか、薄っすらと土と水気をまとう電動轆轤ろくろの銀盤をじっと見つめる。

 この陶芸サークルに入ってから三ヶ月になるけれど、僕は他の部員と話したことがない。同じ大学の通信から通学へ、学部の二年になってから編入して入った僕には新歓イベントは無縁で、サークル探しは自力だった。いくつかある公認サークルの、間口が広そうなところを探しているうちに出会ったのが、この陶芸サークルだ。

 陶芸は、小学生の頃に教室に通っていたし、なにより楽しかった記憶がある。すぐに部長とメールのやり取りをし、入部届を郵送して貰い、そのまま送り返して手続きが完了してしまった。引っ越して一人暮らしを始めてからは、平日は生活費のためのバイトで忙しくて、土曜日に来るようにした。でも、土曜日は本当に人がいない。結局誰とも会えないまま、三ヶ月が過ぎてしまった。

 気合を入れ直して、作陶の準備を始めることにした。上着を脱いでソファーに掛け、かごに無造作に入れられたジャージから一つを選んで、洋服の上から袖を通す。籠には張り紙があり、「作陶中はこれに着替えること」と書いてある。

 続いて、青いバケツを持ってトイレに行き、並々と水を汲む。それを轆轤ろくろの傍ら、泥で手が汚れてもすすげる位置に置く。轆轤ろくろの傍にあるサイドテーブルの上には、作っていく器の形を整えたり、最後、轆轤ろくろについた泥を片付けるための道具と、出来上がった器を乗せる板を並べていった。

 一つ深呼吸して、いつもより大きい陶土を持ち上げる。まとっているビニールをいで、銀盤の中心と、土の円錐の底の中心が合うように狙いを定めて、ドン、と勢いづけて置く。銀盤との間に空気が入ると作っている途中に滑ったり取れたりしてしまうのだ。電気轆轤ろくろの電源を入れたら、手を水で濡らし、簡単に剥がれないように、親指を使って土の縁を銀盤へギュッと押し付ける。今度は、足元のペダルを加減しながら押して、銀盤の周り具合を確認する。ゆっくりと回る銀盤。つられて回る土を、広げた両手で触りながら、少しずつ圧をかけて、上半分を円筒状の形にしていく。

 土を触ると、不思議と心が静かになった。遠くから聞こえてくる吹奏楽の音や、廊下の話し声が僕の耳を通り抜けても、身体の中にその余韻は残らない。慣れない一人暮らしで沸いてくる面倒事も、始まったばかりの通学制の大学生活への不安も不思議と頭から消えていった。

 円筒状になった上部を上から見下ろす。轆轤ろくろの回転を上げてから、円形に見えるその中心に両手の親指を、ゆっくりと押し込んでいく。器の内側を作っていく作業だ。ある程度の深さができたら、再び回転を緩めて、穴の側面を優しく外側へと広げていく。利き手を内側に、反対の手を外側に添えながら、力加減に気をつけて挟んで薄くする。一番難しい工程だ。

 集中して取り組むと、土がなくなるのはあっという間だった。程よく形になったところで器の口を滑らかにするなめし皮を当てて一回転させ、轆轤ろくろを止め、凧糸を巻きつけて水平に切り取った。慎重に板に載せたら、今日の粘土を使った作業は終わりだ。土がいつもより多かったこともあって、板には普段の倍近い数が乗っていた。

 ふうと一息ついたとき、微風が頬をかすめた。バタンとドアが開いたのは、その直後だった。



 はじめ、自分が用意した土が無くなっていた時は驚いた。今まで土曜日に部室にやってくる部員なんていなかったからものだから。前日に轆轤のまわりに付けっぱなしだった、陶器の削り粕が大量に入ったドベ受けが外されているのを見て、誰かが作陶をしたらしいことはわかった。棚から取り出した発泡スチロールの箱には重みがあり、蓋を開けると、綺麗に形成された、乾燥待ちの器が入っていた。人の土を使って作った上に、なかなか上手いじゃないか。生意気だ。それが第一印象だった。

 後輩の誰かだろうと思い、まだ菊練り――作陶前に、土の空気を抜く作業――も教えていないし、自分で土を練ることも難しいだろうしなあと、次の金曜日からは、見えない場所に自分の土をしまい、わかりやすい場所にもう一つ置くことにした。

 しばらくして、誰が作ったかわからない器があると、ほかの部員たちの間でも話題に上るようになった。器の底を作る際、それぞれ自分のものであるとわかるように、名前だったりマークだったりを彫るのだが、なにも彫られていない器が出現したのだ。決まって週明けに出来ていることから、土曜日に現れる謎の人物だろうと私はすぐに察しがついた。

 謎の人物の正体がわかったのは、久々に顔を見せた部長の大崎が、「そういえば、通信制から編入した子が入ったよ」と五月の頭になって報告をしてきたからだ。B2の「御手洗悟」くんと言うらしい。御手洗くんには、新入生も含め、誰か会った人が器の底にマークをつけることを教えよう、ということになった。

 ところが、この御手洗悟、全く捕まらないのだ。手始めに同じ学部の比較的顔が広そうな他のサークルの後輩に聞いても、そんな子は知らないという。陶芸以外サークルも入っておらず、特別影が薄い子であるらしい。次に部長がメールを出してみたものの、返信がない。アドレスがパソコンであることから推測すると、多分見ていないのだろう。

 彼がサークル棟にやってくるのは、決まって土曜日の二限目。部員たちのうち土曜日に来るような奇特な者は私しかいない。しかも、私はその二限に授業が入っていた。金曜日に土を用意し、土曜日の二限前ぎりぎりまで待っては、授業に行き、授業終わりに部室に寄って土が器になっているのを確認するだけで月日が過ぎていった。

 誰もその姿を見たことがないが、居た形跡は残していく。昨年は器の数が少なくて秋口になってしまった窯も、御手洗悟の加勢でこの調子なら夏休みの頭に行えると、会計の宝田は部室で弁当を食べながら嬉しそうに話していた。幽霊部員というか座敷童部員というか、姿を見せない御手洗悟はそんな調子でサークル内で不思議な立ち位置を確立しはじめていた。

 部に貢献している好人物とはいえ、網を張っても張っても掛からない、姿さえ見えないのは、私としては歯がゆいものだった。流石にしびれを切らし、梅雨も近づくころに私はある作戦に打って出ることにした。土をいつもより多くするのだ。作陶時間が長引けば、御手洗悟は私と鉢合わせるはずである。

 いつもの倍近い土をセッティングして、授業に出て帰ってくると、部室のドアの覗き窓にはまだ明かりが灯っていた。ガッツポーズをしてから、勢い込んでドアを開ける。

 轆轤の前に、ジャージ姿の青年が立っていた。同じ二年生より少し年上だろうか。一浪した私と同い年くらいに見える。そんな彼が、きょとんとした目でこちらを見た。やっとこいつの度肝を抜けたと、自然と口角が上がってしまう。

「御手洗悟くん、だね」

 その青年――御手洗悟――は、戸惑いがちに頷いた。

「私は、学部三年の伊野美鈴、よろしくね」

「よろしくおねがいします」

 御手洗くんは、泥まみれの手がジャージにつかないように少し前に出して、ひょこりとお辞儀をした。

「とりあえずさ、それ着替えて!」

「はい」

 御手洗くんは慌ててバケツに手を突っ込んですすぐ。一転してきびきびした動きになった御手洗くん。緊張させてしまっているのだろうかと、私は少し居心地悪くなって言葉を続けた。

「いや、そういう意味じゃなくて」

「え?」

 再びきょとんとした顔がこちらを向く。度々現れるきょとん顔に吹き出しそうになる。私は、「ほら、もう昼だし」 そう言って、壁の掛け時計を指差す。

「ご飯行こうぜ!」

 ずっと言いたかった言葉を口に出せた。嬉しくなって私が笑うと、驚いた顔をした御手洗くんも、時計を一瞥いちべつしてから恥ずかしそうに微笑んだ。

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御手洗くんは幽霊部員 北野椿 @kitanotsubaki

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