戻ってくる
逢雲千生
戻ってくる
「いってきます」
最後にそう言ったのは、いつのことだったか。
間もなく迎える春を前に、膨らみ始めた桜の蕾が一足早い暖かさを運んできてくれたのか、今日はいい天気だ。
輝くような青さの双葉も、顔を出し始めたふきのとうも、乾いていく土の上でのびのびと立ち上がっている。
変わり始めた町を見上げ、綺麗に整備された海岸を見ていると、隣に誰かの気配を感じた。
ゆっくりと横を向くと、小学生くらいの女の子が、泣きそうな顔で自分を見上げていた。
「お母さん、知りませんか?」
震えそうな声でそう言った少女は、我慢しきれなかった涙をこぼし、
周囲を見回しても誰もいないし、耳を澄ましても何も聞こえてこない。
そういえば人がいないな、と思って少女に視線を戻すと、彼女は泣きそうな声で高台を指さした。
「あっち」
「……あっちに、誰かいるの?」
少女がうなずく。
半信半疑で高台の方を見ると、そこに数人の後ろ姿を見つけたのだ。
少女が駆け出し、その後に続くように自分も走り出すが、頭の中で声がする。
響くようなその声に、足元がおぼつかなくなるが、少女を一人で行かせられないと踏ん張った。
近づく高台と遠ざかる少女。
その姿に、既視感を覚える。
段々と遠ざかる少女を見ながら、とうとう立ち止まると、見えていたかのように少女も立ち止まった。
「まだ来ちゃだめだよ」
少女が言う。
振り返ったその目には、こぼれ落ちた涙の跡が赤く残っている。
息をする。途端に胸が苦しくなり、立っていられなくなった。
胸を押さえて咳を繰り返す自分の手に、強い力と温もりを感じ、顔を上げるとそこに白い光があった。
「
聞き慣れない女性の声に、ようやく目を開けることができた。
白い天井と白いカーテン。自分を覆うビニールの幕を見て、ようやく戻ってこられた気がしたのだ。
(一度ならず二度までも、君は僕を助けてくれたんだね……)
言葉にならない声でそう呟くと、そばにいた看護師さんが笑ったように感じた。
視線を向けると優しい目をしていて、
「一緒に帰ろうって、約束したじゃないですか」
マスクとゴーグルでよく見えない顔が、いつもみたいに笑っているのを想像して、僕もまたその声に反応するように、ぎこちなくでも笑えた気がした。
「十年でも二十年でも、私達はこうして会えるの。だからあなたも、ちゃんと帰らないと。みんなの分も生きて、助かったことに感謝して、助けられた意味を繋げていかなくちゃ」
分厚い手袋越しに握られた手。本当は温もりなんて届かないのに、とても温かく感じられるのは気のせいだろうか。
慌ただしく入ってきた医師と交代するように出て行った彼女は、背筋を伸ばして次の戦いに臨んでいく。
医師の診断で危機を脱したと言われた僕は、天井を見上げながら、これからのことを考える。
(僕の人生は振り回されてばかりだと思っていた。大切なひとも、大事な場所も、全て失ったと思っていた。でも、違ったんだね。今も現実で戦う人達がいて、大切なひとを、居場所を守ろうとしている人達だっている。それはいつの時も変わらなくて、その時を懸命に戦い続けているはずなんだ。それなのに僕は逃げた。逃げようとしてしまったんだ)
込み上げてくる涙を拭おうと腕を上げると、ガーゼで押さえつけられた首がひどく痛んだ。
(この痛みは僕の弱さだ。それを忘れてはいけない)
遠くから聞こえる無機質な機械音に、去っていく影を見た気がした。
その影が小さく笑っていたのを、僕だけが知っている。
(今度こそ、会いにいくよ)
心の中でつぶやいた声に、懐かしい声が重なった気がした。
戻ってくる 逢雲千生 @houn_itsuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます