二章
第10話 King of wild boar. Ⅰ
猪の王
地獄の底とは目の前の光景のことを言うのだろうか。
貧しくも平凡で幸せな日常を送っていた少年は、体を焦がし続ける烈火に身を委ねていた。隣では、彼と妹を守ろうと覆いかぶさっていた母親の亡骸が転がっている。
かの帝国は、大陸全土を手中に収めなければ気が済まない器なのだ。一つ手に取れば十を。十を手に取れば百を。百を手に取ればこの世の全てを。
マグナヴェッタ帝国最高権力者であり、少年のふるさとを焼き払って辱めた男——アレウス・アグリオス・マグナヴェッタはいまや知らぬ者はいないと言わしめるほど名を轟かせている。
漆黒の髪を後ろに撫で上げ、燃え盛る真っ青な瞳に射抜かれれば、たちまち全身から力が抜けきり地に伏してしまうだろう。
十五年ほど前、彼は前王であり実兄のマリウスを失脚させ、滅びの道を辿っていた祖国を復刻させた。
王族も民も、みな平等に貧しさと素朴な幸せを抱えていた。大陸の隅にある山に囲まれた小さな国。
炎神ブリギットを信仰し、祭壇には建国から燃え続ける原初の炎を守り続けていた。
その炎が消えることはこの国の終わりを表すという言い伝えが浸透している。
当時のマグナヴェッタは、乳牛や羊の畜産業、そして作物などを他国に輸出することで食い扶持を稼いでいた。豊かな自然は家畜や作物を育てるのにうってつけだったのだ。
マリウスは鉄を嫌っていた。そのおかげか建物はほぼレンガや木で建てられていたため、周辺国からは垢抜けない田舎者の国としてレッテルを貼られていたのだ。
いまだ蒸気に移行出来ず、火のみを使う時代遅れの弱小王国だと。
だが、国民や国の重鎮は生まれ故郷の発展にはそれほど重要視していなかった。
流行り病や飢饉に侵される心配はない。マリウスの言うことを聞いていれば、自分たちの明日は約束されるのだから。
「マリウス王よ。ここ数日間、晴天続きで作物が育ちませぬ。なんとかなりませんか」
「ああ、明日まで待て」
雨が降らず、農作物が育たないと言えば次の日には雨が降る。
「マリウス王よ。家畜が乳を出しませぬ。このままでは税も納められない」
「森の奥にある、泉へ連れて行くといい。そこで半日過せば出るようになる」
家畜の乳が出ないと相談し、彼の言った通りにすれば、またたく間に牛は溢れんばかりの乳を絞り出した。
「兄王、隣国がこちらへ攻めてくると。早く兵を集めて撃って出ねばなりますまい!」
「落ち着け。攻めては来れない。最高司令官に不幸が起こるからな」
マリウスがそういうと、次の日には隣国の最高司令官が落馬をして死んだという事実が触れ回った。
こんな調子で、庶民の小さな悩み相談から国の重要な取り決めまでマリウス一人で担っていたのだ。
予言の王として国民から讃えられていた彼は、不思議な力を持っていると言われていた。
だが、いつまで経っても発展しない古ぼけた国に、当時のアレウスはやきもきしていたのだ。
資金は稼げていたのに、国営にはほとんど使わず、質素な暮らしを続けることになんの意味があるのだ。
「兄王よ。なぜ金品を蓄えるのか。蒸気を使って国を発展させねば周りの国に置いていかれてしまう」
「発展せずとも、この国は幸せじゃないか。作物は取れて、食い扶持には困らない。飢饉も流行病も起こらない。それにな、この国には」
「しかし兄王。世は進んでいるのです」
「アレウス、この国の言い伝えを知っているか」
マリウスは真剣な眼差しでお決まりの『言い伝え』を口にする。
マグナヴェッタの地下には炎の神、ブリギットが眠っており、彼女を起こせばたちまち世界は炎に飲まれるだろうと。荒れ狂う竜が破滅をもたらして、全てを燃やし尽くすのだと。
燃える鉄の匂いは彼女の鼻に届かせてはならないのだ。
原初から燃える祭壇の炎に代わるものはない。
——馬鹿馬鹿しい! 何が言い伝えだ。
アレウスはそうなんど思ったか定かではない。
納得のいく理由も述べられず、やれ予言だの言い伝えだのと、のらりくらり躱されたのであれば、堪忍袋の尾が切れるのは時間の問題であるといえよう。
しかし、原因不明の人攫い事件が頻繁に起きてからというものマリウスの人気は地に落ち始めた。
「マリウス王、わたくしの息子が帰ってきません」「私たちの大事な子どもが、跡形もなく消えたのです」「マリウス王、俺の息子は一体どこに」「予言王よ、どうすれば」「どうか知恵を」
神のように崇められていた前王マリウスは、事件が連続して勃発すると、それまで言い当てていた予言をことごとく外し続けた。
そればかりか玉座に座る時間は減り、信託を受けると言って自室に籠りきりになった。
当時の王妃、妻のアイフェに全てを任せて姿を見せることもしない彼を、みな一様に弾圧した。
ときおり、部屋の中から彼の怒鳴り声やガラスを割る音が聞こえたという。扉の隙間から冷気が漏れ、薄気味悪いと口々にこぼした家臣たちは誰も王に近づかなくなった。
挙げ句の果てには周辺国に攻め入れられ、マグナヴェッタ王国は阿鼻叫喚の地獄と化す。
マリウスの言葉がなければ動けないものたちばかりだ。自分で考えることを放棄した結果がこれである。
敵も味方も入り混じり、死体は転がり放題だ。
のどかだった下町や畑、牧場は燃えて哀れな国民は家畜とともに死に、王宮はもはや陥落寸前であった。
民は怒りに猛り、それまで讃えていたマリウスをけなし、手のひらを返してアレウスを王にするようレジスタンスまで結成する始末であった。
絶好の機会を見逃すアレウスではない。彼はマリウスの腰巾着だった者たちを言葉巧みに焚きつけると、自らを主導者とした革命を起こした。
「力こそ全てである。弱き者は強き者に虐げられるだけだ。予言などというふざけた言の葉を使う臆病者に率いられた結果がこれだ。親を、家族を、恋人を、国民を殺したのは異国民と——無能なマリウスだ。おまえたちの中に燻る
鎖に繋がれた国民を奮い立たさせ、アレウスは自らの後に続くよう求めた。押さえつけられた鬱憤を晴らすかのごとく、弱小国家であったマグナヴェッタ王国は次々と隣国を攻め滅ぼし、大陸一、二を争う巨大帝国になったのだ。アレウスもさることながら、彼が密かにこさえていた個人部隊は非常に好戦的で、それに比例するように戦いの才能をもっている。マリウスが死んだ今、それらを律する者は誰一人としていない。
そしてアレウスは象徴である原始の炎を消し、新たなる帝国を作り上げたのだ。
『おとぎ話』や『言い伝え』が記された書物は、アレウスの命によりほとんど燃やされてしまう。
古き時代遅れの国は予言の王とともに死に絶え、ここに帝国の再建を声高々に宣言する。
祭壇に炎などいらぬ。信ずるは己らの力のみである。
煉獄の炎は収まることを知らず、色あるものを燃やし尽くしていく。少年は瞳を閉じる気力もなく、感覚の薄れゆく手足を大地に投げ出し事切れた。
「陛下。制圧完了しました」
陛下と呼ばれた男、アレウスは太い眉を軽く動かすにとどめた。元より勝つも負けるもない。こんな貧弱国家、捻り潰すのも朝飯前である。
炎はいい。全てを焼き払い無に帰す。鉄同士が擦れ合い、また弾き合う音はいい。体が内側から高揚するのを感じる。肉を断ち、声を枯らして命乞いにむせぶ響きなど絶頂すら催す。自らに力があると誤想していたものたちが、力を奪われ屈辱に耐えながら地に伏せる姿は後世に残すべき場景だ。
昔とは大違いだ。毎日が刺激的で自身の中に溢れんばかりの活力がみなぎっている。
「陛下」
鎧に身を包んだ側近が再度声をかける。炎を見つめたまま動かなくなった彼を案じてのことだろう。アレウスはふっと息を吐き、幾分か背の低い彼を横目で見やった。
「少し長居しすぎたか」
無骨な鎧の節々を鳴らし、アレウスは燃え尽きた大地に一瞥もせず馬にまたがる。ほむらに目を細めながら、マグナヴェッタ帝国軍は火照った体を休めるため拠点へと向かった。
エゴフレイズム・シンドローム 芦名 史緒 @fasno
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