一期一会のドライブ

木谷日向子

一期一会のドライブ

 緑と黄が交差した表紙の開いたスケッチブックを両手で持ち、カーキ色の大きなリュックサックを背負っている少女が、人通りの無い静かで広い道路の端に立っている。

 陽が当たると栗色に輝く少しウェーブがかった長い髪を、紺色のシュシュでポニーテールにしている。

 彼女は。17歳。無職。

 明日香の手にしたスケッチブックには黒のサインペンで「最北まで連れて行ってください」と書かれていた。

 車が何台か明日香の目の前を通り過ぎるが、誰も彼女に目もくれず、一人この広大な北海度道の道路にぽつんと取り残されるばかりである。

 はあ、とため息をつき俯くと、ポニーテールが細い肩に落ちる。吐いた息は冷たい空気と混ざり合い、白い蒸気となって明日香の周りに漂う。

 もう諦めようか。でも。今あきらめたら東京から北海道まで一人で来た意味が……。

 迷いを頭の中で逡巡していると、一台の車が明日香の前に止まる音がした。

 はっと顔を上げる。

 目の前には、小さいがグレーの光沢が光る、日頃よく持ち主が手入れしているとわかる綺麗な車が止まっていた。運転席の窓がゆっくりと開くと、中から眼鏡をかけた青年が優しい笑顔を浮かべて現れた。

「お嬢さん。もしよかったら乗ってく?」

「え、いいんですか!?」

「いいよ。後ろにもう1人女の子いるけどそれでもよければ」

「ありがとうございます!」

 明日香はぱっと明るい笑顔を青年に向けると、体をくの字にして頭を下げた。ポニーテールが紗幕のように彼女の頭を覆い、小柄な体からリュックサックがずり落ちそうになる。

 慌てて片腕で背のリュックサックを押えると、再び青年に向かってはにかんだ。

 青年はそんな明日香にまた笑顔を向ける。

 後部座席のドアが開くと、上半身を近づけて中を覗き込む。

 予想していなかった先客に、一瞬目を見張る。

「あ、赤ちゃん……」

 後部座席には、まだ生まれてまもないだろうと思われる赤ん坊がチャイルドシートに座っていた。窓から差す昼の光が柔らかそうな頬に当たり、小さなうぶ毛を白く光らせていた。

 青年を後ろからちらっと見るが、ハンドルを握ったまま前を見ている。

「ちょっと失礼するね」

 もう一度赤ん坊の方を見て小さく囁くと、

 明日香は距離に余裕を持ってリュックサックを抱えるように後部座席に乗り込んだ。

 青年がエンジンを踏む。

 冷たい空気を纏った空の下、果ての無い程長い道路を車は少女と青年、そして赤ん坊を乗せて走り出す。


 前を向き座っている明日香は、後部座席に乗せてもらってから続く沈黙をどうかしたほうが良いのだろうかと悩んでいた。

 だが、この車内に漂う沈黙は、嫌いではなかった。

 むしろ心地いい。

 BGMは車が道路を走る静かな音と隣ですやすやと眠る、赤ん坊の寝息だけ。

 微笑みながら赤ん坊の長い睫毛を見つめていた明日香に声をかけたのは、運転しながら前を向いたままの青年の方からであった。

「お嬢さん……名前は? 僕は。その子は娘の」

「明日香です。武田明日香」少し驚いたように反応する。

「明日香ちゃんか。どこから来たの?」

「東京です」

「東京か。明日香ちゃんまだ若いよね。十代かな? 何で北海道の最北に行こうとしてたの?」

 明日香は、口を開けた後、俯く。

「……あたし、高校辞めたんです。いじめられて」

 小声で誰に言うともなく囁いた。

 目だけを後ろに向け、一は再び前を向く。その顔は真剣な表情になっていた。明香の心に呼び起こされた、冷たい記憶の表面に触れないように。

「そう。ごめん。話したくなければ話さなくていいよ」

「いえ。大丈夫です」

 明日香は握った左手を右手で擦る。左手は強く握りすぎているからなのか、白くなっている。

愛らしい顔は、眼だけが暗く、虚空を見ているかのように虚ろである。

「信頼してた友達に裏切られました。ツイッターで友達の裏アカ見つけちゃって。SNSの裏アカに悪口沢山書かれてて、他の友達と笑いのネタにされてました。LINEも私だけグループに入られてないLINEがあったことがわかって、その中で私の隠し撮り写真を晒されたり、悪口書いて盛り上がってたみたいです」

「……」

 藤田は黙って話を聞きながら運転を続けている。窓ガラスに映る景色に緑が流れ、美しい。

「それがわかってから学校行って笑顔で話しかけられても、誰も信じられなくなってしまって……。人間不信っていうのかな。家に帰っても何をしててもどこかで誰かが私の悪口言ってるんじゃないかって不安になって。食べたもの全部吐いたり、眠れなくなって。次第に不登校になって」

「そっか……。そんな状態で一人で北海道に来るなんてすごい勇気だよ。すごいよ」

「このまま東京にいても、家に引きこもってるだけでどんどん悪くなるだけだと思いました。そして、昔読んだ小説で、主人公が自分探しをするために日本の最北の宗谷岬まで行って人生変えるってところを思い出して。あたしもやってみようと思って」

「なるほどね」

「二三香ちゃん。可愛いですね。お母さんは?」

「この子のお母さん、僕の妻は、この子を産んで二日目に脳卒中になったんだ。今リハビリしてるんだ」

 明日香は口を開け、瞠目した。

「えっ……」

 一の意外な答えに驚くと共に、何と言葉を発したらいいのかわからなかった。ただ鈍く切ない痛みが喉を詰まらせる。

「正直、今後のことが不安で、これからどうしようとか。妻の後遺症のこととか色々悩んで押しつぶされそうになってた。でも、君みたいに再生しようとしている人と出会えて、よかったよ。僕も頑張らなきゃって思った」

「藤田さん……」

「君と一緒に最北に辿り着けば、僕も何か得られるかもしれない」

 明日香は一の言葉を聞くと瞳を揺らし、彼の背を見つめる。

そして、俯き、何かを決意した表情になるとポケットからスマホを取り出した。

しばらく手の中の赤いスマホを見つめる。

両親に初めて買ってもらったスマホ。

友達とLINE電話で深夜にとりとめのない話で盛り上がったスマホ。

好きな小説の電子書籍を購入したスマホ。

信じていた友達が誕生日のお祝い連絡をくれたスマホ。

グーグルマップで色々な道を一緒に歩いたスマホ。


胸を抉るような汚い言葉を流したスマホ。

 

 このスマホと過ごした様々な思い出が胸に去来する。

思い出をなぞるたびに光と闇がちかちかと明日香の瞳の表面を撫でるようだった。

そして光に自分の瞳が定まったとき、顔を上げて一の背に声をかけた。

「藤田さん。すみません。窓開けて頂いてもいいですか」

「え? いいけど」

 外の空気を吸いたくなったのかと思い、一は後部座席の明日香側の窓を開ける。明日香は窓に顔を近づける。

外の冷たい空気が二三香に当たらないように体ごと窓を覆うようにすると、手にしていたスマホを窓からふわりと放り投げた。

「さよなら」

 赤いスマホは窓から風に乗るように道路に落ちると、二転三転し、小さくなって見えなくなってしまった。

「明日香ちゃん!?」

 一は明日香のしたことに一拍置いて気が付くと、運転中にも関わらず驚いて後ろを振り返ってしまい、慌てて視線を前に戻した。こめかみには冷や汗が浮かんでいる。  

「すっきりした」

 暗闇に置かれていた世界から徐々に光を取り戻したかのように明日香は憑き物が落ちた晴れやかな笑顔になって窓の外を見つめていた。

「もう大丈夫です。窓、閉めてください」

一に声をかける。

「スマホ、捨てちゃったの?」

 車を運転しながら、平静を装い、後ろの明日香に声をかけた。自分のような歳の者ならまだしも、こんな若い女の子がスマホを窓から捨てた。そのことが驚きだった。だが、明日香の辛い過去の話を考えると、この子にとってスマホは必需品ではなくなったのかもしれない。

「こんなのに惑わされて、傷つけられて、時間奪われて。学校辞めて。なんだか馬鹿らしくなっちゃって。いらないや。こんなのって思っちゃった。いいんです、もう」

 明日香の声には先ほどまでとは違い、透き通った薄い光が孕まれているように感じた。

その声を聴き、一は安心した。

彼女の決断は間違っていない。聡明な彼女なら無鉄砲に連絡機器を捨てたのではなく、考えがあってのことなのだろうとは感じていたからだ。

「そっか。確かに僕ら現代人は、スマホに惑わされすぎてるからね。明日香ちゃんがそれでいいなら」

 電車に乗ると半数の人はスマホをずっといじっている。ひと昔前まではこの世になかった光景が当たり前のようになった。

電車で文庫本を読む一は、そのことに違和感を感じていた。皆、その画面に何を探し、何を求めているのだろう。

文明の更新をし続けた人間の進化の果てがこれだったと、誰が予想しただろう。

「はい。新しい自分に、生まれ変わりたいんです。ゼロになりたいんです。何も持たずに」

 明日香はスマホを捨てたことで、何であんなちっぽけなものに日々悩まされていたんだろうと不思議な心地になっていた。

自分を縛っていた時の鎖から解き放たれた、鳥のような解放感があった。

多分、またスマホを手にするときは来るだろう。

だが、今とは心の距離の置き方が違っているという自信がある。

捨ててよかった。そう思えた。

「いい曲がある。聞くかい」

 一は、運転席の音楽の再生ボタンを押す。

アコースティックのノスタルジックな前奏のあとに流れてきたのは、透き通った歌声だった。

『風が変われば ぼくの道さえ少しは ましになるだろう――』

 明日香は口を開ける。

「この曲……」

 愛らしく美しい声で一つ一つの単音を綺麗に発音し、終わると切ない余韻を残す。

「僕の奥さんが好きな歌手、坂本真綾さんの『ポケットを空にして』って歌。初めは興味なかったんだけど、奥さんが脳卒中で倒れて、会話も出来ないような状態になってからこの人の歌をよく聞くようになって、心の支えになった」

「いい曲ですね」

 青い水滴のような声が、脳に直接響くかのように降り注ぐ。


『人を愛すること 生きてくこと 死ぬこと』


「何にも持たずに、ポケットを空にして旅に出ようって歌。今の君にぴったりだ」

「あたしのテーマソング……」

 明日香は小声で呟く。


『ポケットを空にして さあ 旅に出ようよ目当てもなにもないけれど――』

 

 車の窓はいつの間にか、北海道の海を映していた。海は橙色の夕陽を水面に映し、金色の煌めきを起こしている。

そして、外を見ていた明日香の瞳に、両手で三角を作ったかのような白い塔が映る。

日本の最北、宗谷岬公園の先端、北緯45度31分22秒を標す記念碑「日本最北の地の碑」だ。

一の車がゆっくりと止まった。

「明日香ちゃん。着いたよ。日本の最北、宗谷岬」

 後部座席が自動で開く。

 一は体を明日香の方に向けた。その顔には夕焼けの灯りが輪郭をなぞった笑顔が浮かんでいる。

「ありがとうございます! 夕焼けを見てから帰りたいので、しばらくここにいます。帰りは大丈夫です。またヒッチハイクしますから」

「ここでお別れだね」

「はい。藤田さん、本当に本当にありがとうございました」

 明日香は一を見つめながら、少し眉をゆがませた。

「じゃあまた……またはないかもしれないね」

「はい……」

 2人は沈黙したまま見つめ合った。出会いから別れまでの時間は短かったが、共に車中で過ごした時間は、お互いの傷を癒すほどの尊い時間だった。

スマホを捨ててしまった明日香とは連絡先を交換できない。いや、連絡先を渡せばいいだけの話なのだが、何故かお互いにそれはしなくていいことのように思えた。

2人とも現代の時の流れから外れていた。外れようとしていた。機械を通さない、人と人同士の自然の出会いと別れの奇跡を感じていた。この美しい関係を、美しい距離を、このまま完結させよう。

 明日香は笑顔で別れようとしていたが、口を開くと目尻に涙が溢れた。

「藤田さんに会えてよかった。一期一会でも、藤田さんに会えたこと、一緒に最北まで送って頂いたこと、一生忘れません」

「明日香ちゃん。僕もだよ。君なら大丈夫、また歩いていけるよ」

「奥さん、きっと良くなりますよ」

「ありがとう。これを君にあげる」

 一は、坂本真綾のCDアルバム「シングルコレクション+ハチポチ」を明日香に差し出す。

「さっきの歌、『ポケットを空にして』が入ってる」

「いいんですか? ありがとうございます! 大切にします」

 一からアルバムを受け取ると明日香はじっと表面を見つめた。白くシンプルな地に挑戦的な目つきをした若い少女の坂本真綾の写真が左上に小さくカットで載せられている。

 唇を引き結び、その写真の顔の頬を人差し指の腹でそっと触れるか触れないかの距離で撫でた。

 リュックサックのチャックを開けると中にあった白いハンカチで包み、大切にしまった。リュックサックを持ち上げ、背に担ぐ。

 座席から外へ出ようとすると、腕に柔らかい感触がしたのを感じた。振り返ると二三香が小さな手で明日香の腕を引っ張るように掴んでいた。大きな瞳で明日香を見上げている。瞳は潤み、ドアから差す夕陽で海面のようにきらきらと輝いていた。

「二三香ちゃん?」明日香は驚き、瞳を少し開く。

 2人の光景を前から見ていた一は、くすりと笑みを零した。

「二三香も明日香ちゃん頑張れって応援してくれてるみたいだね」

 明日香は一を見た後に、ゆっくりと笑顔になり、二三香を見つめた。

「二三香ちゃん。ありがとう。あたし頑張るよ」

 明日香の瞳は涙でとうに濡れていた。

 その水面の瞳の表面に、柔らかく愛らしい二三香の瞳が反射した。

「二三香ちゃんも頑張ってね。遠くからあたしもずっと応援してる」

 握られていない左手の甲で涙を拭うと、笑顔で明日香は二三香を見た。

 その言葉を確認したかのように二三香は、ぱっと手を離した。

 明日香は真剣な顔で二三香を見つめていたが、意を決したように車外へと降り立った。そして、後部座席のドアを音を立てないようにゆっくりと閉めた。

 地を踏むと、何故か久々に足を踏みしめたかのような感触に陥る。不思議な気持ちだった。車に乗ってからそれほど時間は経っていないというのに、異世界へと降り立ったかのような。母の産道を再び通り、この世に生まれ直したかのような新たな気持ちになっていた。

 胸に手を当て後ろを振り返ると、運転席の窓越しから笑顔で一がこちらを見つめていた。

 明日香は口を少し開けてただ一を見つめる。本当にこれが今生の別れになるかもしれない。短い間だったが、高校を辞めてから、これほど心を開けた人はいなかったのではないかと強く感じる。自分たちの道が再び交わることはないかもしれない。二度と会うことはないかもしれない。二度と会えないということは、その人の未来が今後どうなったのか知ることができないということでもあった。一は明日香がその後就職したのか、大検を受けて大学へ行ったのか、知ることはない。明日香は一の妻が回復したのか、二三香がどのような娘に成長するのか知ることはない。

 明日香は口を開け、少し震えた。

 一と二三香がここを去れば、また一人だ。

 スケッチブックを持ち、ぽつんと誰かの訪れを待っていた自分へと戻る。北海道という広い大地、それもその果てにただ一人で佇むことになる。

 胸に手を当てる。

 夕陽は穏やかに落ちていく。零れるようなさざなみは自然のBGMだった。まだ明るい空には白い小さな星の瞬きが浮かび始めている。

 どちらとも視線を動かすことがない、まさに緊迫状態と言って良いような中、一が口だけで言葉を発したのを、明日香は確認した。

(明日香ちゃん。ありがとう)

 瞠目する明日香に、満面の笑顔を一は返す。そして、震える体を抱きしめて、明日香はこれ以上折り曲がらないというほどに体を折り曲げて深く頭を下げた。

 全身で、一と二三香への感謝を表した。一はそれを見届けると、名残を残さぬように真剣な顔で前を向き、車を発車させた。

 明日香は車の影が見えなくなるまで、頭を上げることはなかった。


どれくらい時が経っただろう。

 既に夕陽は海の中へ半分落ち、半月のようになっている。

 海面はその夕陽を飲み込んだかのように紅く染まって、金色の光を更に強く放っていた。

 頭上の星は白、赤、黄、緑と命を燃やすように暗闇の中を輝いている。

 明日香の足元には、彼女の落とした涙の粒が散らばっていた。やっと頭を上げ、体制を整えると深く深呼吸をする。そして、暗かった顔に徐々に笑顔が灯り、瞳を二、三回瞬くと、右手の甲でごしごしと瞼を擦って最後の涙を拭った。手の甲を離すと目は赤く腫れてひどい有様だったが、晴れやかで愛らしい少女の笑顔が浮かんでいた。

「ありがとう。一さん。二三香ちゃん。あたしと出会ってくれて」

 誰にも聞こえない言葉を囁く。それは、もうこの場にはいない、二度と会うことがないかもしれない2人への感謝の想いだった。

 体を曲げていたことで乱れたポニーテールを結び直すと、頭を一振りする。夕陽に明日香のなめらかな髪が金色の光沢を纏って流れた。リュックサックをぐっと強く掴み、背負い直すと、宗谷岬の大地を一歩、二歩と徐々に速度を上げて歩き始めた。

 後ろを振り返ると、最北の白い塔が夜の闇と夕陽の赤を上下半々で映しながら立っていた。それを見つめる明日香の瞳にも、星々と夕陽の煌めきが半々で映し出されていた。

 この最北が、新しい彼女の最初の一ページとなるだろう。階段を上り、さらに塔に近付く。海が、より体に迫ってきた。潮の匂いがしょっぱいくらいに鼻につく。口を開け、潮風を吸ってみる。何故か風を飲み込んだと同時に、眼から一粒涙が零れた。唇をぎゅっと閉じると、鼻から大きく息をすき込む。

「あたしはここにいるぞー!!」

 高校生になってから、一度もこんなに大きな声を出したことはなかった。

「あたしはここにいるぞー!!」

 もう一度大声で海に問いかける。吐き出すと同時に大きく深く空気を胸いっぱいに吸い込む。

「あたしはここにいるぞー! だから、だからもう大丈夫だ!!」

 意図するでもなく、自然と出た心の言葉。そうだ。もう大丈夫だ。未来のことはわからない。高校を辞めた自分がこれからどうなるのか、ずっと不安だった。何をしていても、頭の中にはスマホの画面に現れた自分を罵る汚い言葉が幾つも点滅して現れる。すべてから逃げたくて、すべてを忘れたくて北海道に来たのではない。すべての傷を消化し、再生するために、自分は北海道へやってきたのだ。北の冷たい風と裏腹に、出会った人は皆春の陽の光のように穏やかで温かかった。その温かさに氷のように固まった心は徐々に溶けていき、いつしかその中に眠っていた光の芽が現れるようになっていた。

 胸に手を当てる。腕にはまだ、二三香の手の温かさが残っていた。瞳を閉じる。息を少しづつ吐き出すと、少し吸い、そっと言葉を吐いた。

「あたし……、もう大丈夫だよ」

 幼子を慰めるようにゆっくりと胸を撫でる。頭の中に、高校の制服を着た明日香が泣いていて、その明日香の頭を、今の旅装の明日香が撫でて慰めているような映像が浮かんでいた。泣いている過去の明日香が顔を上げて今の明日香を見上げてくる。今の明日香が、過去の明日香に、大丈夫だよと声をかける。ゆっくりと目を瞬き、今の明日香を唖然とした顔で見つめる過去の明日香。

 2人の視線は同じ高さへ重なり、交わり、溶け合っていった。

 過去の明日香の背に腕を回し、落ちていく夕陽に2人体を向け、一緒に赤と青が溶け合っていくのを眺めていた。



参考文献


1)坂本真綾、シングルコレクション+ハチポチ、フライングドッグ、1999.12




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