パンドラの匣ってなんですか?
青山 忠義
帰ってきた女《ひと》
「隣の亜弥ちゃんが帰ってきてるんだって」
夕ご飯を食べていると、前に座っている母さんが思い出したように言った。
「そう」
「『そう』って。幼馴染みなのに、冷たいわね。様子を見に行ってあげなさいよ」
「気が向いたら行くよ」
「もう。気のない返事をして。私はあんたのお嫁さんには亜弥ちゃんがいいなあって思っているのよ」
「へえー」
「『へえー』じゃないわよ。まったく。美人だし、気が強いところもあるけど根は優しい子だし、昔からよく知っているし、親御さんもいい人だもの。どこに不足があるの」
「亜弥、カレシいるよ」
「えっ? なんでそんなこと知っているの?」
母さんがびっくりしたように俺の顔を見る。
「時々、亜弥からメールが来るから」
「まだあんたたち連絡取り合ってたの? はあー。あんたはどうしてそうなのかしら。もっと積極的にいかないと。亜弥ちゃんのこと好きじゃないの?」
母さんが諦めきれないように言う。
「ウーン。どうかな?」
俺は曖昧に応える。
「あんたはもう35よ。私は死ぬまであんたの面倒を見るなんて嫌だからね。早く相手を見つけてきなさい」
「はいはい」
俺は適当に返事をして、夕ご飯を食べ終わると、自分の部屋に戻った。
小学校の時に、吉野亜弥は隣に引っ越してきた。
亜弥は鼻が高く目も大きいハーフかと思うような彫りの深い顔をして、少し茶色味がかった髪を背中まで伸ばした美人だった。
母親と一緒に挨拶に来た亜弥は美人顔に優しい笑みを浮かべ、礼儀正しく挨拶をしていた。
そんな亜弥がすごく清楚に見え、一目惚れしてしまった。
だが、亜弥は大人の前では清楚な礼儀正しい少女を演じるが、子ども同士のときは我儘で気まぐれな女王様になる。
特にたちが悪いことに、亜弥は自分の思い通りにならないと、甘えるように言ったり、可愛く拗ねたり、時には涙ぐんだりしてうまく女という部分を使って男子たちを翻弄する。
俺もそんな亜弥にずいぶん振り回された。
小学校の時は、友だちと遊ぶ約束をしていたのに飼い犬がいなくなったから探すのを手伝ってくれと泣きそうな顔で言われて探し廻り、結局友だちのところへ遊びに行けず、その友だちと気まずくなったり、絵の宿題のモデルをしてくれと可愛らしい笑顔で言われ、1日中モデルをさせられて、自分の宿題ができずに先生に怒られたりなど数知れないぐらい散々な目にあった。
美人のうえに成績も良く、運動もそこそこできたので亜弥はすごくモテた。俺の知っている限りでも中学、高校を通じて10人以上の男とは付き合っていた。
だが、亜弥の性格も分かってくるのか長くて半年、短ければ3日で終わりを告げていた。亜弥が振ることも振られることもある。
その度に、亜弥は俺にメールや直接家に来たりして、『性格が悪い』とか『ナルシスト』だとか『体だけでなく頭も筋肉だ』とか相手の悪口を言う。
なぜ俺に言いにくるのか亜弥に聞いたことがある。
「あんたは幼馴染みでしょう。カレシに振られて落ち込んでいるかわいそうな幼馴染みを慰めてくれてもいいんじゃないの? あんたそんなに冷たい人?」
と、落ち込んだ様子が微塵も感じられない彼女がのたまった。
もちろん、亜弥にもいいところがある。
俺が風邪を引いた時、学校の授業のノートを全部コピーして持ってくれたりしたし、バレンタインにはカレシに作ったついでと言って、毎年チョコレートをくれた。
亜弥は男子だけでなく女子にも人気がある。相手が男子だろうが先生だろうが間違っていると思ったことは、はっきりものを言う。
中学の時に男子に虐められている女子がいて、亜弥はその男子に食ってかかり、担任が対応してくれなかったので、職員会議に乱入してその事実を全先生に訴え、聞いてもらえないならPTA総会にも乱入して訴えると先生たちを脅した。
職員室に乱入した時もPTA総会に乱入した時もなぜか俺は付き合わされた。
もっとも、亜弥の後ろに立ってただけだが。
それ以来、亜弥は尊敬と恐怖の目で見られるようになったが、その親分肌の気質は女子に慕われ、俺はなぜそんなことをしたのかと、親にこっぴどく怒られた。
そんな亜弥だが、俺のことをどう思っているのだろうか。
大学受験の時、
「愚痴を聞いてくれる人がいないと寂しいから一緒に東京の大学に行こう」
と、誘ってくださったので、丁重にお断りして、俺は地元の大学に進学した。
もう亜弥に振り回されるのはごめんだ。これでやっと亜弥から解放されると思った。
だが、甘かった。
東京に行っても、亜弥はメールや電話でカレシの愚痴を言ってくるようになった。最初のうちは相手をしていたが、だんだん鬱陶しくなってきてメールを無視し、電話にもでないようにした。
そうしたら、亜弥は休みに実家に帰ってきた時に、俺の母さんに連絡しても返事をくれないと泣いて訴えたらしい。それを聞いた母さんは烈火の如く怒った。
「あんたはどうしてそんな冷たいことができるの。亜弥ちゃん、泣いていたわよ。私は悲しいわ。そんな子に育てた覚えはないわ。ちゃんと連絡してあげなさい。もし、しなければ勘当だからね」
いささか時代錯誤の物言いだが、さすがに母さんに怒られたら仕方ない。それからはメールに返事をし、電話にも出るようにして、今に至る。
何かあったらメールや電話がいつも来ているのだから、帰ってきたからといってわざわざ会いに行く必要もないだろうと思い、亜弥に会いに行くことはなかった。
しかし、盆休みでも年末年始でもない4月の初めに亜弥はどうしても帰ってきたのだろう。
俺の勤めている市役所では、四月は年度の初めや異動時期が重なり忙しく亜弥のことはすっかり忘れていた。
忙しい時期が終わり、仕事も落ち着いてきたゴールデンウィークが始まる週末の夜に亜弥が突然家にやってきた。
「私が帰ってきているのに会いにこないってどういうこと?」
「もう東京に帰ったんじゃないのか? どうしてまだいるんだ?」
「色々あるのよ。ねえー、飲みに行こうよ。明日休みでしょう」
「今から?」
もう夜の8時だ。
「ねえー、お願い」
たとえ、散々振り回された女でも亜弥ほどの美人に目に涙を溜めてお願いされて断れる男がいたらお目にかかりたい。
俺は母さんに亜弥と飲みに行くと言って、学生時代によく行った居酒屋へ向かった。
「会社の上司と不倫してたのよね。それで、相手の奥さんが会社に乗り込んできたの」
注文が終わり店員がいなくなると、亜弥はとんでもないことを言い出した。
「不倫?」
亜弥は就職してからも会社の同僚やIT企業の社長、たまにテレビに出る俳優などと付き合っていた話は聞いたが、不倫は初耳だ。
「相手が遊びだとは分かってたんだけど、だんだん私がのめり込んじゃったのよ。やめられなかった」
「それで?」
「奥さんはどうして付き合い出したのかとか色々聞いてきたわ。でも、決して怒鳴ったりはしないの。冷静に話しかけてくるの。だけど、握りしめていたハンカチは震えていた」
「そうか」
「同席していた会社の幹部に彼と別れることと会社を辞めることを約束させられたわ」
「そうか」
「最後に奥さんが静かな声で言ったの。『あなたを一生恨みます。絶対に許しません』って。さすがに堪えたわ。怒鳴られた方がよかった」
テーブルに顔を伏せて亜弥は声を押し殺して泣き出した。
「まあ、飲め」
俺はなんと言ってやればいいか分からず酒を勧めるしかなかった。
その夜、亜弥はしこたま呑んで、ベロベロに酔った。
「おい、あんた。抱いてよ」
目が据わった亜弥が呂律の回らなっていない大声で叫んだ。
「えっ」
「何が『えっ』だ。あんた、男だろう。それとも落としたのか。根性なし。玉なし」
店中の客の目が俺たちを見ている。
「呑みすぎだ。出よう」
俺は顔を真っ赤にしながら足元のおぼつかない亜弥を支えながら、金を払って店の外に出た。
亜弥は聞かれたら憚られるようなことを叫び続けている。こんなに酒癖の悪い奴だとは思わなかった。
このまま家に連れて帰るわけにはいかない。どうしたものかと考えていると、亜弥が叫んだ。
「あそこに泊まる」
ネオンがキラキラ光るファッションホテルを指さしている。
亜弥がうるさく叫び続けるので、どうなっても知らんぞと思いながらホテルに入った。
部屋に入ってなんとか亜弥をベッドに寝かせて、床にでも寝るかと思ったら、突然、亜弥が俺の首に腕を巻きつけてきて、自分の方に引き寄せる。俺は亜弥の上に乗っしまった。
亜弥が唇を俺の唇に押しつけて来て、片手で自分のワンピースのボタンを外していく。
俺はその夜、亜弥を抱いた。
その夜以来、亜弥とは会わなかった。
家が隣同士なので、亜弥と出くわすことはあるが、何か気恥ずかしくって挨拶をするぐらいで何の話もしない。
あの夜から3か月ほど経って、何度か挑戦して不合格続きだった係長試験を合格し、俺は意気揚々としていた。
「亜弥ちゃんが来たわよ」
母さんの声が聞こえたかと思うと、亜弥が部屋に入ってきた。
「久しぶり」
俺は亜弥から視線を外して言った。
「そろそろ結婚しよう」
亜弥の言葉に俺はびっくりした。
「なんだよ、いきなり。『そろそろ』っていうのは長い間付き合ってたのが言うセリフだろう」
「別に細かいことはいいじゃない。私はあんたのパンドラなんだから」
「パンドラ?」
「パンドラの匣を知らない?」
亜弥が俺を馬鹿にしたように見た。
「知っているよ。ギリシャ神話だろう。いろいろな災いがパンドラの持っていた匣から出てきて、最後に希望だけが残ったていう話だろう」
「そうよ。あんた、係長試験通ったんでしょう。おばさんが言ってたわ」
「うん」
「希望が叶ったんでしょう。私のお陰じゃない」
「どうして?」
俺が係長試験に通たことと亜弥がどういう関係があるのか分からない。
「あの夜、私の匣をあんたが開けたから希望が通ったのよ」
「下ネタ?」
「違うわよ。江戸川乱歩賞を取ったある作家が作品に書いているのよ。災いとか悪いものばっかり入っていたんだから、匣の中に残った希望も悪いものに決まっていると言う人もいる」
「正論だね」
俺は頷く。
「でも、その希望がいいものか悪いものかは匣を持っている女によって決まるってね。なぜなら、パンドラは女の象徴だからって。私は女によって決まるんじゃなくて相手の男との相性で決まると思っているの」
「じゃあ、俺との相性が良かったから、俺は係長試験を通ったっていうことが言いたいの?」
「そうよ。それに赤ちゃんもできたし……」
「赤ちゃんって。俺の?」
「あっ、自分の子ではないかもって疑っているでしょう? 妊娠3か月って言われたんだから。あんたしかいないわよ」
亜弥はいつから俺のことを『あんた』って言うようになったんだろう。最初は名前を呼んでいたはずなんだけど。母さんが俺のことをそうよんでいたから、いつからかそう呼ぶようになっていた。
「疑ってないよ」
本当は少し疑っていた。不倫相手の子ではないかと。
「疑うんなら、DNA鑑定してもいいわよ。1回でできるなんて相性が良かったんだって思わない?」
「思う」
俺は子どもの頃からずっと好きだった亜弥を抱きしめた。
「私に言うことは?」
「結婚してください」
「はい」
亜弥が俺の唇に唇を合わせてきた。
まあ怪しいところもあるが、亜弥の言うことを信じてみよう。
いろんな意味で。
パンドラの匣ってなんですか? 青山 忠義 @josef
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