離婚されましたが、王太子殿下の側近とお見合いすることになりました

畑中希月

離婚されましたが、王太子殿下の側近とお見合いすることになりました

「──エルスベト、すまないが、わたしと別れてくれないか」


 お茶の時間に、居間で本当に出し抜けに夫からそう言われ、わたしは口に含んでいたローズマリーティーを噴き出しそうになってしまった。

 確かに、珍しく「今日は一緒にお茶を飲もう」と言ってきたから、様子が変だとは思っていたけれど、まさか離婚を切り出されるとは……。


 いや、今更言い繕うのはよそう。十年に渡るわたしたちの結婚生活は、とっくに破綻していた。

 もう何年も枕を交わすことはなかったし、彼は仕事を、わたしは趣味を理由にして一緒に過ごす時間も減ってしまっていたのだから。


 それくらいなら、彼も幼い頃からの許嫁同士で長年連れ添った妻を離縁したいなどという外聞の悪いことを、口に出したりはしなかったかもしれない。


「理由は子どものこと……?」


 わたしが確認すると、彼はゆっくりと頷いた。


 わたしたちは跡継ぎの男児どころか、女児すらも授からなかった。家督を継ぐことができなくても女の子が産まれていれば、将来、婿を取るということもできた。

 とにかく、子を産めない妻というのは、伯爵家の嫡男である夫にとっては致命的な悪妻なのだ。


 たとえ夫がそう思っていなかったとしても、彼の両親や親族からの締めつけは無視できないものだったろう。

 十六歳で結婚して、それから十年。今までの結婚生活はなんだったのだろう……。

 そう思わなくもなかったけれど、わたしに残された選択肢は頷くことだけだった。それが、わたしなりの彼への最後の好意だ。


 左手の薬指にはめていた結婚指輪を外すと、目の前のローテーブルの上に載せる。カチャリ、と指輪とテーブルが触れ合う音がした。


「──分かったわ。今まで、ありがとう」


 彼は黙って、指輪に手を伸ばした。


   *


 正式に離婚の手続きを済ませたわたしは、実家のラエティア伯爵家に戻った。両親も跡継ぎの弟も使用人たちも、みな気を遣ってくれたけれど、その優しさがかえって辛かった。


 時折、はっとするほど鮮明に思い出される、彼との生活を頭から追い払いながら過ごしていたら、すぐに一か月が過ぎてしまったので、何か仕事を紹介してくれないだろうか、と父に頼んだ。


 父は国王陛下の侍従を務めているし、末っ子の妹も女官として王宮に上がっているから、その伝手でなんとかならないか、という思惑もあった。

 父は少し考え込んでいたが、一週間ほどすると、話を持ってきてくれた。王宮にある薬草園の手入れをする仕事だ。


 父は昔から園芸が好きで、実利のある薬草を多く育てていた。お父さま子だったわたしも、子どもの頃から父のあとにくっついて、薬草の種類や効能、育て方を学んだものだ。


 使い道も薬や精油、香草茶ハーブティー、化粧品と多岐に渡り、加工するのも楽しいし、友人に贈ると喜ばれる。その趣味は二十六になった今でも続いている。

 ……必要なものだけ鉢に移して引き上げたものの、元夫の家に残してきた薬草園は、今頃どうなっているのだろう。枯れていないといいけれど。


 それはともかく、王宮で育てている薬草は臣下のみならず王族が服用する薬の原料になったりもするので、男女は問わないが、身元のしっかりした者が栽培に携わる必要があるのだという。毒など仕込まれては大変だからだ。


 それだけに、地味な割に責任重大な職務ではあるが、わたしの知識を活かせるのではないか、ということだった。

 一も二もなくその話に飛びついたわたしは、数日後には薬草園の管理を任されている侍医長との面接を済ませ、採用された。


 薬草園の仕事は自分の知識と技術を発揮できるからか、嫁姑問題もあって窮屈だった次代の伯爵夫人をしていた時よりも、うんと充実していた。失敗をしても、次はこうしよう、と前向きに思え、自分が成長している実感がある。


 わたしもまだまだ若いのだ、と素直に思えた。

 やはり、土いじりは性に合っている。どんなに辛いことも、物言わぬ植物と向き合っていると次第に薄れてゆき、忘れられる。


 それに、社交界では知り合えないような人たちとの出会いもある。


「おはようございます。今日もご精が出ますね」


 まだ日差しの弱い朝、薬草園で葉の様子を確認するわたしに声をかけてきたのは、薄茶色の髪をうなじで束ねた女性的な面立ちの青年だった。

 年の頃は二十代後半だろうが、優れた画家が描いたかのような綺麗な顔をしているので、いまいち実年齢が分かりにくい。もしかしたら、三十の坂を越しているのかもしれない。


 名前も知らない彼は、宮廷の侍医をしているらしい。「らしい」というのは、彼は誰それのお付きの侍医であるとか、そういう自慢とも取れる自身の情報を一切口にしなかったからだ。

 職業柄、高貴な方のご病状を伏せる必要もあるのだろうけれど、わたしは彼の態度に好感を持っている。自惚うぬぼれや噂話ほど、うっとうしいものはない。


「おはようございます。今日は何をご所望ですか?」


 わたしが挨拶を返すと、青年はふわりとほほえむ。


「ローズマリーをお願いします。軟膏を作りたいので」


「まあ、皮膚炎ですか?」


 わたしの問いに、彼は若草色の目を細めた。


「さすがですね。ローズマリーの効能は他にもあるのに」


 そんなことを言われると照れてしまう。うつむきながら、わたしはもごもごと答えた。


「……ローズマリーの軟膏といえば、皮膚炎の治療が一般的ですから」


「ご謙遜を。あなたが薬草園にお勤めになってからというもの、欲しいものを伝える際に余計な説明をしなくて済むようになった、と侍医の間でも評判ですよ」


 自分の仕事ぶりを面と向かって褒められると、嬉しいけれど恥ずかしい。胸が熱くなり、頬も火照ってくる。


「あ、ありがとうございます……」


 あまりに照れくさくて、わたしは青年に背を向けると、小さな薄紫の花と細長い葉をつけたローズマリーに駆け寄り、腰から下げた鋏で茎を切り始める。青い匂いが漂った。

 青年の柔らかな声がうしろから聞こえた。


「四十本ほどお願いします」


 茎を切り終えたわたしは、ローズマリーの束を青年に渡す。ローズマリーの清々しい匂いを纏わせながら、彼は微笑した。


「ありがとうございます。では、また」


 青年はしずしずと去っていく。

 また、名前を訊けなかった……。

 わたしは多少落ち込みながら、元の作業に戻るのだった。

 

 それからも青年は足繁く訪れ、わたしたちは世間話をする仲になった。でも、いつも名前を訊けずじまいだ。

 一度だけ、名前を訊けそうな機会があった。それなのにわたしは、なんだか怖くなってしまい、口を開けなかった。


 名前を尋ねてしまったら、彼はもうここには現れないかもしれない。そんな根拠のない考えがふっと浮かんだからだ。

 わたし、何をやっているのだろう。子どもを授からなかった以上、もう恋愛も結婚も望めないのに。


 いや、結婚を度外視した恋愛ならできるのかもしれないけれど、あいにく、わたしはそういうタイプではない。

 それに、年齢や容姿、穏やかな性格からして、左手の薬指に指輪をしていなくても彼は絶対に既婚者だ。


 そう考えると、とたんに胸が苦しくなり、わたしは自分の心に蓋をした。

 もう結婚などは望まず、必要とされる場所で生きていく。それが、今のわたしの望みだ。


   *


 年が改まり、薬草園で働き始めてから七か月が過ぎた。

 草木は青々と茂り、緑の眩しい夏の到来が近いことを告げている。世間では、この前盛大に式やパレードが行われた王太子殿下のご結婚の話で持ちきりだ。


 わたしは式には参列しなかったけれど、王国の未来を担う若いお二人のご成婚に、人々は身分を問わず湧いた。妹のティルデも大層喜んでいた。公爵家出身の王太子妃殿下は、妹の元同僚で親友でもあられるらしい。


 その日は休日だった。アプリコットティーを飲みながら自室でくつろいでいると、ノックのあとに侍女が入室してきた。父が呼んでいるのだという。

 階下の居間に向かうと、父が長椅子に腰かけていた。


「エルス、座りなさい」


 わたしは父の向かいに座った。父は難しい顔をしていたが、やがて口火を切った。


「……実はな、お前に見合い話がある」


 どうして、今更縁談なんて。わたしは言葉を失った。父は続ける。


「相手はお前より六歳年上で初婚だ。貴族ではないが、王太子殿下の秘書官をなさっていて、ゆくゆくは叙爵されるのではないか、と噂されていらっしゃる。突然の話で、わたしも面食らってはいるが……一度、会ってみてくれないか」


 不妊を理由に離縁された既に若くもない女にとっては、不自然なくらいうますぎる話だ。わたしは思わず尋ねていた。


「どなたからのお話なのですか?」


「王太子殿下からだ」


 それでは、父も断るわけにはいかないだろう。わたしは動揺を抑えて、また質問する。


「……どういった理由で、王太子殿下はこの縁談を?」


「分からぬ。何も教えてはくださらなかった。ティルデにそれとなく訊いてみたが、『殿下は突飛なことをなさるお方だから』としか……」


 あの優しい妹がそう言うからには、王太子殿下はよほど変わったお方なのだろう。けれど、そういう事情を差し引いても、父は先ほどからあまり乗り気ではないように見える。


「まあ、殿下は悪いお方ではないし、わたしとしても、よい話だとは思うが……ひとつ気になることがある」


「気になること?」


「見合い相手は、若い頃、ある女性とお付き合いなさっていたのだがな……その女性とは国王陛下の逝去されたご側妾なのだ。もちろん、ご側妾となられる前の話だが」


 国王陛下のご側妾が若くして難産で亡くなられた、という話なら聞いたことがある。

 愛する人がご側妾にと望まれたために、その方は身を引かざるをえなかった、ということだろう。だから、そのような地位にありながらも、未だに独身なのだろうか。


 まだ会ったことのないその方の孤独と悲しみが垣間見えたような気がして、わたしはうつむいた。


「エルス?」


 気遣うような父の問いかけに、わたしは顔を上げた。

 一瞬、あの青年の顔が頭をよぎる。ちょうどいい。彼のことを完全に諦めるいい機会だ。


「心配なさらないで、お父さま。かえって興味が湧いてきました。わたし、その方にお会いしてみます」


   *


 一週間後、わたしは王宮の応接室にいた。お相手は王太子殿下の秘書官だけあって忙しいらしく、こちらでお見合いをすることになったのだ。彼の住まいが、ここ東殿の一室だということもある。

 父と並んで長椅子に腰かけ、お見合い相手の到着を待つ。急な話だったので、お相手の絵姿すら見ていない。


 緊張のせいで長く思える時間が過ぎた頃、ノックの音が響いた。

 重厚な扉が開く。


 現れたのは、あの青年だった。


 彼はわたしの顔を見ると、目を丸くした。それから額に手を当て、「やられた」というような表情になる。


 驚いたのはわたしのほうだ。彼は侍医のはずなのに。それに、見合い相手が彼だなんて、いくらなんでも都合がよすぎる。

 青年は長椅子の傍まで歩いてくると、胸に手を当てて軽く頭を下げた。


「失礼いたしました。アウリール・ロゼッテと申します。わたしとしても、お見合いの相手があなただとは聞かされていなかったもので……。なんというか、こうしてお会いすると、面映おもはゆいものですね」


「いいえ! とんでもないことでございます。わたしこそ、驚いてしまって……」


 慌てて返答するわたしを父が目を見張って眺めている。


「なんだ、エルス、お知り合いだったのか」


「はい。薬草園に時々、いらっしゃるので……」


「薬草園に? ああ、ロゼッテ殿は元々、王太子殿下の侍医でいらっしゃるからな」


 つまり、侍医と秘書官を兼任しているということか。わたしはようやく納得した。


「そう……なのですか。あ、失礼いたしました。エルスベト・ファルケと申します」


「王太子殿下の衣装係女官をなさっているティルデ・ファルケ嬢のお姉君でいらっしゃるのですよね? 言われてみれば、似ていらっしゃる。いや、世間は狭いですね」


 アウリールさまは照れたように笑って、長椅子にかけた。彼はふと、真顔になる。


「エルスベト嬢、あなたのお人柄は十分でないながら存じ上げておりますので、本題に入らせてください。既にご存じかと思いますが、わたしは曰くのある男です。王太子殿下のご紹介ですから断りにくかったのでしょうが、無理にお見合いをなさる必要はないのですよ」


 彼の恋人が国王陛下のご側妾となられた、という話を思い出し、わたしは言葉に詰まった。そんな微妙な立場の方が王太子殿下の秘書官をしていること自体、奇跡に等しいのだ。

 国王陛下のご機嫌を窺う者は、娘をアウリールさまと結婚させたいとは思わないだろう。


「それでしたら、あなたこそ無理をなさる必要はございません。わたしは子ができないことを理由に離縁された女です」


 思わず、そんな言葉が口をついて出た。父の視線が横顔に突き刺さる。内心で冷や汗をかいたが、言ってしまったものは仕方がない。

 アウリールさまは苦笑した。


「それは存じ上げておりませんでしたが……。貴族ともなると、色々大変なのでしょうね。もっとも、わたしが元ご夫君の立場なら、子どもができないことを理由に離婚したりはしませんが」


 胸を叩かれたような衝撃を受け、わたしは目を瞬いた。


「なぜですか……?」


「せっかく縁あって夫婦になった相手を、そんなことが理由で離縁はしませんよ。単に家を存続させたいのであれば、親戚から養子を迎える方法もあるでしょう。それも難しければ、家を畳むことも考えます」


 そんな発想はしたことがなかった。父が首をかしげながら問う。


「……それは、つまり、娘を妻に迎えたい、ということですかな?」


 お父さまったら、なんということを訊くのだろう。こうしてお見合いの席で会っているとはいえ、わたしたちは単なる知り合いでしかないのに。何か言ってやらなければ、と、わたしが思案に暮れていると、アウリールさまは答えた。


「今、この場で即決すれば、かえってご令嬢に失礼かと存じます。そこで、提案ですが、今日はお互いに自己紹介をすることにして、後日、またお会いできないでしょうか?」


 わたしに否やのあろうはずがない。この方は互いの悪条件を提示した上で、真剣に、わたしが結婚相手に向いているかどうかを見極めようとしてくれているのだ。

 それは、政略結婚とも親同士が決めた約束事のような結婚とも違う、お互いの人間性を深く知るためのものなのだろう。


 これだけでも、わたしの気持ちは強くある方向に傾いたのだけれど、まずはアウリールさまの提案を呑むことにした。

 お父さまにも国王陛下の侍従としての立場があるのだろうけれど……ごめんなさい。


「はい、そうしていただけますか」


 答えあぐねている父をよそに、わたしは頷いたのだった。


   *


 そうして、わたしたちは逢瀬(と言うには、いまいち色気も甘さもなかった。彼は女性にもてそうなのに、とても真面目なのだ)を重ね、アウリールさまは九回目に会って別れる際に、求婚してくれた。


 彼もだいぶ前からわたしのことが気になっていたらしいけれど、過去の事件が重しとなって、なかなか距離を詰められなかったのだそうだ。

 アウリールさまは真剣な目で、わたしを見つめた。


「ですが、ようやく覚悟が決まりました。あなたを幸せにする覚悟が」


 可愛げのないことに、わたしは「本当に子どもはいらないのですか?」と訊いてしまった。でも、アウリールさまは「育児には苦労したので、またあんな大変な目に遭うのかと思うと、恐ろしくて」と微苦笑を漏らしていた。


 宮廷の事情に詳しくないわたしは知らなかったのだけれど、彼は王太子殿下が九歳の頃からお傍に仕えていて、殿下が思春期の頃は相当手を焼かされたらしい。「特に男の子は、もうこりごりです」とも言っていた。


 もっとも、当初、王太子殿下はお見合いの席に同席すると言って聞かなかったらしいし、そもそもこの話を持ちかけてくださったのは殿下なのだから、二人の間にはその苦労に見合うだけの絆がしっかりとあるのだろう。


 宮廷中の女性の情報を把握しているという殿下は、アウリールさまと顔見知りで薬草に詳しいわたしの存在を知り、この二人は気が合うのでは、と思し召したそうだ。

 殿下にはいくら感謝してもしきれない。わたしたちを驚かせるために、お見合い相手を選んだ理由を伏せておいでだったことは、今では笑い話だ。


「わたしはもうそんなに若くありませんが、二人でゆっくり生きてゆきましょう」


 アウリールさまの言葉に、わたしは胸と目の奥を熱くさせながら、「はい、喜んで」と答えるのが精一杯だった。


 婚約式と結婚式を挙げたのち、王都に新居を構えて一年後、なんとわたしは一児の母となった。産まれたのは男の子だったけれど、我が子をいだくわたしを初めて目にしたアウリールさまは、言葉では言い表せないほど美しく優しいほほえみを浮かべていて、とても幸福そうに見えた。


 そういえば、出産祝いに訪ねてきてくれた友人から、こんな話を聞いた。

 わたしより先に前夫も再婚していて、今では子宝に恵まれているのだという。「あなたを捨てておいて……神々の天罰が下ればよかったのに」と腹を立てる友人をなだめながら、わたしはおかしさが込み上げてきた。


 本当に、わたしと彼は相性の悪い夫婦だった。まるで、結婚したことが何かの間違いだったみたいに。

 そう思えるのも、今が幸せだからだろう。


 アウリールさまと出会ったばかりの頃、彼に頼まれたローズマリーの花言葉のひとつが、ふと心に浮かんだ。


 ……あなたがわたしを蘇らせる。


 彼と出会って、わたしは土壌を変え、水と肥料を与えられた植物のように蘇り、花を咲かせた。願わくば、結んだ実が健やかに育ちますように。



   ──完──

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離婚されましたが、王太子殿下の側近とお見合いすることになりました 畑中希月 @kizukihatanaka

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