草原
幕開け
目を開けるとそこは、……いや違うな。目はずっと開けてたし。
目覚めたとき、……だから違うって。寝てない。
暗闇が晴れたら、……まだ違和感あるな。そんな感じじゃなかったんだけど。
まあ兎に角、暗転した視界が、真っ暗になったお先が、ようやく見えるようになったとき、僕は部屋の外にいた。
部屋なんてものじゃない。
ここは、おそらく草原だろう。
地面には何らかの種類の草が生い茂り、果てしなく続いている。
奥の方には丘が見え、なだらかな傾斜が視線を遮る。
本来、生命あふれる生き生きとした景色のはずだけど、今の自分には毒々しく感じられた。
今はそれどころの気分じゃない。
落ち着かない。
手元に視線を落とす。
落ち着く。
見慣れたものがある。
文房具一式。
幾つかあったけど、とりあえずノートに手を取る。
今となっては、もう勉強するモチベーションがなくなってしまったけど、まあまずノート。
消しゴムとか単体で持っても意味ないし。
自分が使っているノートとは違う種類だと思いながら、表紙を捲る。
『ようこそ異世界』
1ページ目から閉じてやろうかと思ったけど、流石にそれはやめとこう。
なんだかんだ通知表を破ったことが精神的にキているらしい。
脳みその動きが普段と明らかに違うのが分かる。
こういう時は色々と考えて動いた方が良いんだろうけど、そんな余裕はない。
『君は異世界転生を果たした』
とりあえず2ページ目を読んだけど、中々にキツイな、これ。
異世界転生?
異世界、異なる世界。転生、輪廻転生?
どう捉えればいいんだ。
そろそろ思考停止のまま流せるような状況じゃない気がする、
それでも、脳は動こうとしなかった。
喪失感、とでも言えばいいのだろうか。
通知表を破るということは、僕の中で思っていた以上に大きなことだったらしい。
破る前の鬱状態からは抜け出せたけど、それ以上に何も考えられなくなった今の方が精神的に参っている気がする。
なんてことを思いながら、右のページに目を落とす。
『良い勘してるね』
3ページ目にはそれだけ書いてあった。
なんて使い方してるんだ、勿体無いだろう。
軽口を叩くことでリハビリを図りながら、更にページを捲る。
こうなったら、とことん付き合ってやるよ。
『人間にはそれぞれトリガーがある。
人として生きるためには、必ず一人に一つ存在する。
ボーダーとはまた別だよ。
そんな生っちょろいものじゃない。
こうはなりたくない、あんなことはしてはいけない。
そういう自分自身で決めた戒律がボーダー、境界線だ。
誰しもそういう基準が幾つかあるだろう。
例えば、通知表で5以下をとったりね。
境界線を越えてしまうことで、人は病む。
精神の崩壊、自我の敗北、倫理の欠如。
6時間以上座ったままなんてまだマシだろうよ。
そんなことより、
トリガーだ。
トリガーは、ボーダーと話が違うし、次元が違う。
数多に引ける境界線と違い、トリガーはたった一つしかない。
オンリーワンのナンバーワン。
端的に言えば、絶対にしてはいけないこと、だ。
もしも引き金に手をかけてしまったのなら、すぐにやめた方が良い。
忠告させてもらうね。逃げろ、と。
引き金を引いてしまえばどうなるか、君はすでにわかるだろう。
精神の喪失、自我の喪失、倫理の喪失。
アイデンティティは陵辱され、自己の定義は失われる。
鬱になったりとかはしないだろうけど。
というか、鬱になっている暇はないね、鬱患者の人には悪いけど。
だから言ったろ、話が違う。
直しようがないし、治りようがない。
まるで初めからそんなものなかったように、人格そのものがこの世から消える。
現実世界に居場所はないだろうね。
人間社会、というよりもあの時空間そのものから。
追放されるだろうね。
というわけだよ、一心君。
ようこそ異世界
答え合わせは必要かい?
いらないだろう、そんなもの。
さあ、次のページへGO』
いきなり長文を書かれても反応に困る。
なんて言えばいいんだ。
ただ、答え合わせ、という言葉にどうしようもなく反応させられる。
あんな午後を過ごした身ではもう、がり勉と名乗ることはできないだろうけど。
それでも、まあ、やってやろう。
ここまで言われたのなら、なんとなく状況は把握した。
あくまで、このノートに書いてある設定にのっとれば、だけど。
緑川一心。ボーダーが5以下の成績をとることなら、トリガーは通知表を破ることだった。
厳密に言えば、破る以外でもいいのかもしれないけど、大体こんなものだろう。
引き金を引いたのなら、弾丸は発射されるのみ。
哀れ、弾丸となった男子高校生は現実世界から異なる世界に打ち込まれた。
結構面白いよ、うん。
これまでまともに小説を読んだことなかったけど、これからは読もうかな。
こういうのはファンタジー系なのかな。
で?
これは一体どういうことなんだよ。
異世界というのを許容するなら割と無理がない気がする。
それでもまあ、許容できれば、の話なんだよなあ。
かなり無理があるだろ。
どうするべきか。
この設定を受け入れでもしない限り、ノートはこれ以上信用ならないだろう。
結構きついぞこれ。
冷静に考えるなら、誘拐が一番納得がいく。
心神喪失の状態だったことは間違いないから、それで気を失ったり狂ったりしているところを空き巣紛いの侵入者に連れ去られたとか。
痩せ型とはいえ男子高校生を誘拐ってのは無理があるかな。
あるいは夢?
第三者からすればこっちの方がありそうだと思うだろう。
現実味の無さからして、夢ってのはわかりやすい。
体調が悪いときほど悪夢を見るし。
あのまま気を失ったとか、病院に運び込まれて寝かされてるとか。
いろんなパターンが考えられる。
一人称視点からすると、この可能性は薄いんだけど。
夢だとすればリアルすぎる。
僕の貧弱な想像力でこんな設定を夢に持ち出せるとは思えないし。
VR、あるいは全面に映像が映し出される部屋。
今の技術力を持ってすればこんなことも可能なのかな?
ただこの可能性は低いと思う。
どうしたって誘拐に近い手順を踏まないといけないし、映像作品というにはリアルすぎる。
第一案と第二案の悪いところが重なっている。
ほかにはどんな可能性があるだろうか。
死後の世界、という言葉が頭をよぎった。
なるほど、それがあったか。
あの後、心臓発作とかを起こしたり、あるいは自殺に踏み切ったり。
あってもおかしくない精神状態だったことは確かだ。
誰も否定はできないだろう。
当の本人が何も覚えていないのだから。
死後の世界だとすれば周りの景色も納得がいく。
差し詰めここは極楽か。
死とノートは何か繋がりがあった気がする。
確か、何かのフィクションだったかな。
その話とこのノートは何も関係ないんだろうけど、ちょっとした共通項を見つけるとなんだか面白い。
まるで暗記法みたいだ。
はてさてこれからどうしてやろうかしら、と。
死後の世界だとすると、このノートに書いてあることは中々ブラックジョークが過ぎると思うが、それはもういいだろう。
ふと手元に残った文房具が目に入った。
その内の一つに消しゴムがあった。
何の気なしに手に取ってみる。
ノートの文字を消してやろうと、軽いジョーク返しのつもりで。
消しゴムは真新しいものだった。
ほとんどの部分は紙に覆われていて、上の少しだけ出ている感じ。
ここが草原である以上、足元にも草が茂っていた。
消しゴム自体も草に埋もれていた。
何か考えがあって手に取ったわけでもないから、乱雑に。
当然、消しゴムは周りの草に当たった。
当然、消しゴムに当たった草は消えた。
まあ、消しゴムってのは消すための道具なんだから、当然だよな。
なんでやねん。
小説同様、漫才というのにも縁遠い人生だったけど、思わず言ってしまった。
どういうことだ。
なんてことだ。
フー。
空を仰ぎ見る。
丘の方まで視線を送る。
足元を見つめる。
手元のノートを呆れたように観察する。
まあ、死後の世界でいいなら、異世界でダメな理由もないか。
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