プロローグ
終わる業の式を挙げよう
7月も末のこと、家の中には僕一人だった。
鳴き続ける蝉の声が空しく響いていた。
エアコンもろくについていない部屋で、夏服の白が嫌味のように目についた。
昼下がりであろうと関係なく猛暑が襲う日本の夏。
ただ、今日のうだるような暑さにについて、
数時間前から、暑さなんて感じていない。
今が夏だってことも忘れてしまいそうなほどに。
蝉の鳴き声も、風流を感じるには空しいだけだ。
延々と出続ける汗が、手の平や脇を濡らす。
形容するときは、”脂”を前につけたほうがいいかもしれない。
嫌な寒気がする。早鐘を打つような鼓動、割れそうな程の頭痛。かれこれ何時間こうして座っているのだろうか。
「ふう」
天井を仰ぎ見、一度気分をリセットする。
濡れた服や髪がやや重たげに感じた。
照明を点けていないのを今気づいた。
幾分楽になった頭が、ジトっと湿った不快感を感じた。顔だけでも洗って落ち着こう。
だいぶ冷静になれた。
リビングの机の椅子に座り直し、さっきまでと同じ体勢になる。
目の前の現実が変わることなく鎮座していた。
OK、折角冷静になれたんだ。一回感情抜きで現実を見よう。
言語化は大事、初めから言葉に直して整理しておく。
まあ、この時期にここまで冷や汗流しながら絶望しているということはどういう状況か、日本に住むほとんどの人には理解してもらえるだろう。
一学期の成績が悪かったです。
緑川一心、高校一年生の夏。
机の上には通知表が乗っている。
溢れ出す一学期の思い出。
毎日机に向かったあの頃。
外出中も手放さなかった単語帳。
休み時間も持ち続けたシャーペン。
どれだけ頑張っても定期テストで一桁の順位をとれなかった。
クラスの中にすら敵わないと思わざるを得ない相手がいる。
特別良い成績がつくとは期待していなかったものの、ここまでとは予想外だった。
終業式の後、通知表をもらってすぐ家に帰ってきた。
用意されていた昼食は半分も喉を通らなかった。
時計が午後五時を知らせるアラームを鳴らした。
通知表を再度よく見てみる。
十段階評価。
10一つ。
9それなり。
7,8多め。
6二つ。
5一つ。
絶望。終焉。嘆き。
あー、疲れた。
勿論、この成績が一般的には高いのはわかる。
クラスでも、4が五個以下でよかったとか、3多いけどまあいいやとかの声も上がっていた。
でもなあ、ダメなんだよなあ。
6がボーダーだった。そこまではまだとったことはある。
それでも、6がボーダーだった。
努力が結果に伴うとは限らない。
がんばりました。で通用するものはない。
小学生の頃から、毎日頑張って勉強していた。
五時間も暇な時間があったのにペンを握っていないのは、記憶にある限り初めてのことだった。
自分でもここまでショックを受けるとは、かなり驚きだった。
言い訳をしよう。
私は世界史が苦手でした。
高校に進学して、他の教科も難しくなり余裕がなかった。
担当の吉川先生は質問を喜んで受けるタイプじゃなかった。
定期テストでは暗記よりも、記述問題のほうが多かった。
言い訳にならなかった。
確かに、世界史の成績が他よりも低くなる理由は多かった。
残念ながら5をとる理由にはならない。
どんな理由も5をとる理由にはならない。
この時代に珍しくない、両親共働き。
二人とも帰ってくるのは八時より遅いだろう。
どう言って見せようか。
案外、僕が思っているよりも軽く受け止めてくれるかもしれない。
まあ頑張ったほうだよね、次はもっと上を目指そう、みたいな。
そんなことはどうでもいい。
人にどう見られるかよりも、自分がどう思われるかだ。
そういう意味では、通知表も嫌い。
自分を客観的に見直すためのツールとしては有効だとは思う。
でも、人生を大きく左右するギミックとしては他人本位すぎる。
言語化は大事だと思うけど、数値化は大嫌いだ。
リビングの壁に掛けられたアナログ時計の針が、長短そろって直線になった。
六時。さすがに汗も止まり、濡れた夏服が体を冷やした。今度は精神的なものではなく肉体的な寒気がする。
いい加減、着替えたり荷物を片づけたりしようとは思うけど、体に力が入らなかった。
顔を洗ってから、立つこともできていない。
自分のメンタルの弱さに本当に驚く。テストで自己最低点を更新したときも、高校に入って圧倒的に自分よりも賢い奴と出会った時も、全国模試で自分の位置を思い知った時も、これほどではなかった。
さっき言ったこととは矛盾するようだけど、僕の人生に挫折というものはなかったかもしれない。
失敗したこと自体は、先述のように数多い。その時々に絶望した。普段の努力が報われることは少ない。
それが挫折とは思わない。
6は取り続けていた、というべきか。
定められたボーダーを越えることはなかった。
最低限の結果は出していた。
挫折…、挫折なのかな?
取り返すことは可能だろう。テストの勝手も分かったから二学期からは点も取れるだろうし。
気障な言い方をするのなら、過去は変わらなくても未来は変えられる、みたいな。
机の上に置かれた変わらない過去を眺めながら、現実逃避。
未来の可能性に頼るのは、逃げるよりも悪い気がするけど。
六時間以上ほとんど何もしていなかったとはいえ、夏の昼は暑かった。感じないけど。
喉の渇きがごまかせない。汗もかなり流したし当然。
流石に命の危機もあるから、何か飲みたいけど立ち方を忘れた。
ホントに足に力が入らない。精神的なものもあるけど、座りすぎて体がおかしくなっているかもしれない。
精神の不調には波がある。
消化しきれたはずの悲しみが、後になってまた大きくなるように。
克服したはずのトラウマが、ふとした瞬間にぶり返すように。
今まさにそれだった。
ちょっとした茶番のように立てない立てないと言っていたけど、ふと目を落とすと5の数字が踊っていた。
さっきまではちょっと茶化すような気分だったけど、それも雲散霧消した。
あーーーーー、何やってんだろ。
もう上半身すら立てていられなくなって、机の上に倒れこんだ。
息が苦しいから、顔だけ左に向ける。
普通のペースを取り戻していた心臓が、また狂い始めた。
胸のあたりがもやもやして苦しい。
辛い。辛い。辛い。
目を閉じて、一度落ち着こうと深呼吸をする。
五分後、目を開けた。
気分爽快というほどではないけど、波のピークは越えた。
どっと疲れた。しんどい。
家に帰ってきてから随分時間がたったのにこれだ。
学校ではどうだっただろうか。
この調子だと自分で思っていたよりも痴態を晒してそうだけど。
まあ、関係ないか。
部活にも入らず、行事でも目立たない。教室の隅でいつも教科書と向き合っている。
僕に興味を持つクラスメートなんて皆無だった。”彼女”はともかく。
直線だった長針と短針が、間の角を十五度にしていた。
カーテンを閉めていない窓からは赤い光が流れ込んできた。
薄っぺらい紙が、苦々しくも赤く照らされていた。
もう何もやる気が起きなかった。
疲れた。
疲れてもいいよね。
これ以上見たくなかった。
努力はした。
普通の人よりもはるかに。
才能がないんです。
天才と呼ばれるにはとても。
身の程弁えてたつもりだったんだけどなあ。
トップは狙わず、あくまでトップクラス。
無理せず、諦めず。
何度見ても5だった。
どれだけ足掻いてもだった。
5、ご、五、GO
さあ手を上げよう。
手には通知表を持って。
両端をつまんで。
右手を手前に、左手を奥に。
力が足りないよ、もっとしっかり。
ピリッ。
快感だった。
ほんの少し破いただけだけど、すごく気持ちよかった。
例えるなら、この世の快楽だけを詰め込んだパンドラの箱を開けたような。
難しい数学の問題が解けた時の何倍も脳が痺れた。
さらに力を込める。こんなんじゃ足りない。もっともっと。
通知表といってもただの紙。やってしまえば簡単に破けた。
ピリピリピリ
ビリッ
ピッピピピビリ
ビリビリビリ
あははは、お先真っ暗。
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