第2話


 光江からの電話を受けて、真っ先に恒雄を促えたのは進叔父に対する罪の意識だった。彼の気持のなかで、叔父の精神病院入院はエイズノイローゼとすぐに結び付いた。それまでも彼は、叔父に対する自分の言葉に自責の思いを反芻していたのだが、叔父のノイローゼが精神病院入院に結果するほどのものだったというのはショックだった。長引くだろうがやがて回復するだろうと思っていたのだ。そう思っていたからこそあんな言葉も言えたのである。光江の電話を受けて、叔父の状態はそんな余裕のあるものではなかったのだと恒雄は思った。すると、自分のあの時の言葉が一層申し訳のないものに思われるのだった。風呂に入った恒雄は浴槽に漬かりながら、結婚に躓き、職場ではうだつが上がらず、同僚からは疎んじられ、甥からも馬鹿にされ、遂に精神病院に入った叔父の人生を考えて、暗澹とした気持になった。

 翌日の十時、恒雄のアパートから真っ直ぐ下る道と国道の交差点で、弘叔父の軽自動車は恒雄を拾った。

 弘叔父は光江のすぐ下の弟で、三人兄弟の一番上だった。進叔父と同じ公務員だったが、こちらは光江を煩わすことなく勤め上げ、三年前に既に停年退職していた。そして今は区の公民館に再就職しているのだった。これはやはり光江の口ききによるものだった。

 恒雄は緊張した重苦しい気持で後部座席に座っていた。進叔父の入院に至る経過や現在の状態などを訊きたかったのだが、口に出すのが憚られた。運転する弘叔父も光江も寡黙だった。車は郊外の田園地帯に入って行き、やがて小高い丘の上にコンクリートの白い建物が見えてきた。

 壁面に靴箱が並んでいる裏口から入り、スリッパに履き替えて廊下に上がると、すぐ横に面会室らしき部屋があった。その入口の手前に長椅子が置いてあったので、恒雄はそれに腰を下ろした。光江と弘叔父は部屋の中に入って行ったが、恒雄は外で待つことにしたのだ。やがて光江が出てきて、その後から不意に進叔父が現れた。「恒雄も来たよ」と光江は進叔父に言った。名を呼ばれて恒雄は「あっ」と言って立ち上がり、進叔父の顔を見た。叔父は面変りしていた。筋肉の弛緩した顔は表情を失っていた。それは知能の遅れた人によく見られる顔容だった。痛ましさが恒雄の胸に来た。叔父はもうだめになってしまったのではないか、という思いが起きた。叔父は恒雄の顔を見ると、少し眉根を寄せるようにして無言のまま目を逸らした。自分に来てほしくなかったのかなと恒雄は思った。

 土間の踏み板の上で進叔父はパジャマの下をズボンと履き替えた。上は既に青い縞の入ったポロシャツを着ていた。叔父の妻である恵子叔母が折り目のきちんと付いたズボンを手渡し、体を支えた。叔父は二、三度よろけながらズボンに足を通した。恵子叔母は屈んで叔父に革靴を履かせた。よく磨かれた黒光りする靴だった。叔父は妻の肩に手を置いて靴を履いた。動作の合間に叔父は、光江の問いかけに答えて、あるいは妻に何かを要求して、短い言葉を発したが、呂律が回らなかった。それも叔父の変容を恒雄に印象づけた。後頭部の白髪も急に増えたように恒雄には思われた。

 進叔父夫婦は弘叔父の車に乗り、光江と恒雄はタクシーで食べ物屋に向うことになった。

「進おいちゃんは何で役所を辞めたことを悔やみよったん」 

 恒雄はタクシーの中で光江に訊いた。

「何かね、年金の額が減って損したと言ってね。停年まで勤めればよかったと言うんよ。悔やむほどの金額やないんやけどね」

「辞めることは納得しとったんやないの」

「そうなんやけどね。…おいちゃん、エイズで苦しみよったやろ。あれがやっぱ一番いけんかったね。あれからおかしくなってしもうた」

 光江の話によれば、進叔父はエイズノイローゼで仕事ができない状態になっていたらしい。簡単な計算にもミスを繰り返すので、ついに係長は叔父に仕事をさせないようにしてしまった。叔父は役所に出ても何もすることがない日が続くことになった。叔父からその話を聞いた光江は、「仕事がなければ寝とればいいんよ」と叔父を元気づける一方、社協の会合で会った課長に、どうして仕事をさせないのかと文句を言ったが、本人が仕事ができない状態であればどうしようもなかった。国立大学を出て、三十年余り勤めていながら、平のまま頭の白くなった弟が、年下の係長の下で仕事も与えられずにいるーそんな晒し者のような状態でいるよりも、停年まで一年を残していたが、退職したほうがよいと光江は考え、進叔父に勧めた。叔父は姉の勧めに従って役所を辞めた。その時は辞めることを納得していたという。

 恒雄は光江の話を聞いて、叔父が悔やんでいたのは本当は年金の問題ではなくて、意地の問題ではなかったかと思った。三十数年の役所勤めのピリオドを、そんな惨めな状態で打ったことを悔やんでいたのではないか。叔父は自分を馬鹿にしてきた役所の連中をどこかで見返してやりたかったに違いない。それがせめて停年まで勤め上げるということだったのではないか。そう叔父の心事を忖度すると、恒雄には叔父が一層憐れに思われた。

「進おいちゃんは兄弟で一番頭がよかったんやけどね。頭がよくて正直やから、物事をまともに考えすぎるんよ」

 光江はそう言って、思いに沈むように車の窓の外に目をやった。

 「進叔父は頭がいい」は昔から恒雄がよく聞かされた言葉だった。敗戦後の物のない時代に、商売で忙しい親の代りに三人の弟達の面倒を見てきた光江は、今でも弟達の保護者の気持が強く、彼等になにかと指図した。弟達にもこの姉に頼り、言うことに従おうという雰囲気が濃く残っていた。光江はそんな弟達を恒雄などには誉めて話した。それぞれに誉め方があったが、進叔父の場合は「頭がいい」だった。国立大学を卒業した進叔父は確かに頭がよかったのだろうと、大学にいかなかった恒雄は思っていた。

 進叔父が精神病院に入れられた直接の原因は、酒に酔って暴れたためだった。これ以上は怖くて一緒に暮らせないと恵子叔母が光江に訴えたのだ。叔父はその時、一緒に死のうと妻の首を絞めたらしい。

 到着した食べ物屋は天麩羅と鰻を食べさせる店だった。既に予約がしてあり、五人は二階の一部屋に通された。足の運びがぎこちない進叔父は妻に付き添われて階段を上った。

 テーブルには天麩羅の実の串を盛った皿、刺身、鰻の蒲焼、型押しされた飯などが銘々の膳として置かれてあった。テーブルの中央には炉が切ってあり、深底で口がすぼんだ鋳鉄製の天麩羅鍋が掛けてあった。客が席に着くと、絣の着物姿のウェイトレスが電熱のスイッチを捻った。客は串刺しされた天麩羅の実に小麦粉やパン粉を付け、自分で揚げながら食べるのだつた。

 光江が回復してきたと言った進叔父だが、殆ど喋らず、下を向いて黙々と食べるだけだった。隣に座った弘叔父が話しかけても、「う」「ああ」と短く応ずるに止まった。 光江一人がよく喋った。民生委員として独居老人の訪問などをしている光江は、その経験や研修会などで接した市幹部とのやりとりなどを得意気に話した。弟達を前にすると威勢がよくなるのは光江の習性だった。、

「ホテルからその干し魚を局長に送ったんよ。帰ってからじゃなくてね。ただ今有意義な研修を受けております、という手紙を付けて。そして、市長さんにも分けてやってください、と書いといたわけよ。帰ったら市長から直接お礼の電話がかかってきたよ。何回も電話したんだって。やっと通じた、あんたいつもおらんね、と言っとったけど」

 それは民生協議会の全国大会が熱海で行われた折の話だった。光江はそのイワシの丸干しを土産としてたくさん買って帰り、恒雄も一つをもらっていた。

 「それでいいんよ。大層なことする必要はないんよ。それで気持は通じるんやから。市長喜んどったわ」

 光江はそう言って愉快そうな笑顔を見せた。弘叔父はいつもの調子が始まったというようにニヤニヤしながら聞いていた。恒雄の表情には素直に話に乗っていけないものが浮かんでいた。恵子叔母だけが神妙な顔をして耳を傾けていた。本当の姑が亡くなっている今、彼女にとって夫やその兄達に指図する立場の光江は義姉というより姑に近い存在であるはずだった。

 しかし威勢のいい光江も悩みを抱えているのだった。同居している恒雄の弟夫婦との折合いが悪いのである。光江はもともと長男である恒雄に老後を見てもらいたかったのだが、恒雄は家業であるドライブインのレストランを好まなかった。それに比べて、中学生のころから店の手伝いをよくしていた弟の和雄は、高校を中退すると、そのまま店の調理場に入って働くようになった。高校を卒業した恒雄が自動車会社に就職すると、店は自動的に和雄が継ぐことになった。やがて和雄は結婚し、夫婦は店の裏にある自宅を少し増築して、両親と同居した。そしてお決まりの嫁姑の確執が始まった。それに加えて征雄が弱ってきてからは、和雄夫婦の仕事ぶりに対する光江の不満や批判などが両者の溝を深めていった。光江は恒雄にその愚痴をよく聞かせた。そんな時、「大体あんたは長男なのに」と恒雄を責めるのが常だった。恒雄は結婚すると家を出てアパートを借りたが、やがて家賃を節約するために妻の富子の実家に引っ越した。富子の実家は二階建てで部屋数が多く、その大きな家に富子の両親だけが住んでいたのだ。恒雄夫婦はその二階に入居した。光江はそれが気に入らず、養子にやったわけではないと恒雄を強く詰った。夫の征雄の病状が悪くなるにつれて、光江は気弱なことを口にするようになった。そこには恒雄に老後を見てほしいというほのめかしがあった。しかし恒雄は妻の実家から出なかった。富子の家は水田や畑を持つ兼業農家であり、家賃を節約できる他に食費も小額ですんだ。それはサラリーマンの家計にとっては強力な磁力だった。

 そんな恒雄にとって父親の征雄の死は衝撃だった。「もう長くない」「いつ死ぬかわからない」などと光江からは言われていたが、自分を呼び戻すためのオーバーな言葉だと考えていたのだ。征雄の初七日が終ると、恒雄は思い切って3DKのアパートを借りた。子供のいない恒雄夫婦には2DKで十分だったが、光江と同居する決意をしたのである。毎月の家賃やその他の出費を考えれば大きな痛手だったが、父親を亡くして、親孝行は親が生きている間しかできないことを痛感した恒雄のそれは決断だった。恒雄がその事を申し出ると、光江は嬉しそうな顔をして、いそいそと引き移ってきた。しかし狭苦しいアパートで、しかもきっちり枠のはめられたサラリーマンの家計の中で、息子夫婦に気を使いながら暮らすことは、商家育ちの光江の性に合わなかった。和雄夫婦に文句を言いながらでも、住み慣れた自分の家に居る方を選んだ光江は、三か月で元の古巣に戻っていった。戻っていった光江からその後聞く話には、相変らず和雄夫婦への不満や愚痴が混じった。今も決してうまく行ってはいないだろうと思いながら、恒雄は喋る光江を眺めていた。自分の実の親はもうこの人しかいないのだと思って、以前より小さく萎んだ感じの顔や眼光の弱まった目を見ていると、自分もその内にある人生というものに対して、どうにかならないものか、という焦燥のような思いを彼は抱くのだった。

 光江の話が一段落すると、弘叔父が後を承けて話し始めた。公民館の仕事の気楽さ、健康法、趣味の謡と話は展開していった。恒雄は従弟の結婚式でこの叔父が「高砂」を謡ったことを思い出した。弘叔父の話しぶりも光江に似て、自分の生活の充実ぶりを強調するものだった。それは、話しかけられると表情のない顔で一音節か二音節の言葉を発するだけの進叔父の存在から、ともすれば広がりそうになる暗い雰囲気に抗するかのようだった。弘叔父は時々進叔父の天麩羅を揚げてやった。実に小麦粉を付けて油の中に入れ、進叔父が油の中に入れたまま放置しているものを取り出した。進叔父は礼も言わず、それを黙々と食べた。「進さん、おいしいかね」と光江が訊くと、「おいしいな」と答えてニコリとした。それはその日進叔父が見せた唯一の笑顔だった。恒雄は俯いた進叔父のたるんだ頬や肉の厚い耳朶が咀嚼によって動くのを眺めながら、敗亡に終った一人の男の生涯を眼前にしているような気がしていた。

 明日から仕事だ、と恒雄は思った。単身赴任の一人暮らしがまた始まる。恒雄が博多にある会社の系列の自動車販売会社に出向したのは四月だった。妻の富子は実家に住むことにしてアパートを引き払い、恒雄は会社の寮にはいった。それから四か月間、慣れないセールス活動をしてきた。明日からまた暑い中を、車の買い手を求めて動き回らなければならない。見ず知らずの他人に次々に会って、話をしなければならない。相手をその気にさせるようにうまく話さなければならない。所長に怒鳴られないように、赤い棒グラフを伸ばさなければならない。そんな思いが次々と恒雄の頭に浮かんだ。自然と溜め息が洩れた。彼は近頃、客と対面することに圧迫感を感じるようになっていた。毎日、毎日、いろいろな人間と会う。「こんにちは、さようなら」で終れたらどんなにいいだろう、と思うがそうはいかない。車を買わせるという至上命令の重圧の下で相手と向き合わなければならないのだ。常に気を緩めず、相手の状況を早く的確につかんで、話を進めなければならない。自動車の組立工場で、口をきかないロボットを相手に働いてきた恒雄にとって、それは大きな心理的負担となった。期日に迫られて、どうしても成約を得なければならない飛び込み訪問などでは、ドアを叩く時から緊張して窒息感さえ覚えた。客と話をしていて、不安と緊張のために自分が何を話しているか分からなくなる瞬間もあった。そんな時はわっと叫んで、その場所から飛び出したくなるのだった。五年前、恒雄が組立工場のコンベアラインで働いていた時、突然奇声を発して走りだし、高いプレス機の上によじ登って、そこから飛び降りて死んだ男がいた。その男は疲労の激しい徹夜勤務に備えて、昼間は眠っておかなければならないのに、生まれたばかりの子供が泣き続けて眠れず、ノイローゼ状態になっていたらしかった。恒雄もコンベア労働の機械的な、しかも神経を磨り減らす反復作業に、叫びだしたい衝動を覚えたことは何度かあった。しかしそれはどうにか乗り越えてきた。だが、これからはどうだろうか。俺は既にノイローゼに罹りつつある、と彼は思った。出向は三年間だ。持ち堪えられるだろうか。途中で逃げ出せば、契約不履行で、解雇される恐れもある。と言って、もし仕事のストレスに耐えられなければ、自分も進叔父のようになってしまうのだろうか。

 恒雄は不吉な思いを振り払うように顔を上げ、窓の外に目をやった。下に見える駐車場のコンクリートが夏の日射しを照り返し、駐車している白のセダンが銀板のように光っていた。恒雄は目を細めた。すると、雲が通過するのか、不意に日が翳った。染みが広がるように駐車場が端から暗くなっていった。恒雄は不吉なものを見たように室内に目を転じた。部屋の中も薄暗くなっていて、人々の姿が色彩を失って見えた。その時、食べる物もなくなって、恒雄の方を見ていた進叔父の問いかけるような目と、恒雄の目が合った。

                        了。



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翳る部屋 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

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