翳る部屋

坂本梧朗

第1話


 それは恒雄が盆休みを取って妻の実家に帰っている時だった。夜、恒雄の母親の光江から電話がかかってきた。前日会ったばかりなのに何だろうと恒雄は不審に思った。

「あんた、明日は空いとるかね」

 受話器を通してくる光江の声は沈んでいた。

「うん、まぁ空いてるけど」

恒雄は嫌な予感がした。明日は休みの最後の日だから、ゆっくりしたいと思っているのだ。

「進おいちゃんが入院しとるんよ。」

「え、どこか悪いの」

 恒雄は少し驚いて訊き返した。光江は答えない。

「どうしたん。どこの病院に入院しとん」

 恒雄は問いを重ねた。

「日豊病院よ」

 光江はボソリと言った。

「にっぽう病院? ]

 馴染みのない名前だった。

「それ、どこにあるの」

 恒雄が訊くと、光江は一呼吸おいて、

「あんた知らんかね、精神病院よ」

 と答えた。

「えっ」

 恒雄は絶句した。何でそんなことに、という思いと、とうとうそこまで、という思いが一瞬脳裏を交錯した。

「おいちゃん、ずっと調子が良くなくてね。去年、役所をやめてから、そのことをずっと悔やんどってね。交通事故を起こしたことは話したやろ。あの時、車が燃え上がるちょっと前に中から出て助かったって言うたけど、本当はその時おいちゃんは、恵子おばちゃんにここで一緒に死のうと言って動かなかったらしいんよ。このことは誰にも言うたらいけんよ。弘おいちゃんとお母さんしか知らんことなんやから」

 恒雄は茫然としていた。脳裏に進叔父の顔が浮かび、敗亡の道をたどる叔父が憐れでならなかった。

「何で精神病院にいれたん」

「恵子さんが恐ろしがっとってね。一緒に暮らせんと言うしね。」

「しばらく別居させたらよかったんやないの、そんなら」

「うん、ここにおいちゃんを連れてきて、しばらくお母さんと一緒に暮らそうかとも思ったんやけど、やっぱし無理やけね」

「そんなことせんでも、おばちゃんがしばらく実家に帰っとって、おいちゃんを一人にしとったら、落着いてくるんやないかな」

 精神病院にまで入れる必要はないという感情のなかで、問題を漠然と夫婦間の気持の縺れと捉えた恒雄は、自分が叔父の立場だったらこうして欲しいだろうと思うことを言っていた。

「一人にはできんよ。自殺するかも知れんのやから」

 何を悠長なことを言っているんだという響きで光江が言った。ああ、叔父はそんなに悪い状態なのか、と恒雄は言葉を呑んだ。

「それでね、明日、弘おいちゃんと病院に行ってね、進おいちゃんを連れ出して、一緒にご飯を食べる予定なんよ。お盆やからね。それぐらいしてやらんとね。おいちゃんも大分落着いてきたからね」

 光江は少し涙声になった。

「いつごろ入院したん? 」

「四月やったからもう四カ月になるんよ」

「…」

「あんたも一緒に行かんかね」

「うん、それはいいよ」

 恒雄は進叔父のために行かなければいけないという気がした。母の光江も労ってやらなければならないような気がした。前日、亡父の墓参の後、訪ねた時には、光江はそんな話はしなかった。ためらいがあったのだなと恒雄は思った。

 光江から電話を受けて、恒雄には蘇ってくる出来事があった。それは二年ほど前のことだった。


 夕方、昼夜二交代制の昼の勤務を終えて帰ってきた恒雄は、ドタリと畳の上に仰向けに横たわった。水平に伸ばされた腰や背中がバリバリと音を立てるように痛い。後頭部がじーんと鳴って、意識が底に沈んでいくような気がする。疲れた、と自分の疲労を実感する。朝六時から午後三時まで、途中四十五分間の食事休憩を除いて、文字通り働き通しである。三角形のおむすびに似たロボットの腹にドアの基体を銜えさせ、五つの部品を補給すれば、ロボットは五十秒で一枚のドアを完成させる。この作業が一分一秒の隙間もなく反復される。煙草も吸えなければ雑談もできない。雑談しようにも周囲に人はいない。自動化率九十%の車体組立工場だ。一旦作業が始まればトイレさえ我慢しなければならない。ロボット相手に決まりきった動作を決まり切った手順で無限とも思える回数繰り返す。人間もそこでは一台のロボットにすぎない。ただ終了時間が来るのを待ち侘びながら手足を動かしている。こうして工場のラインの端からは、十二分に一台の割合で完成車が飛び出してくる。そんな職場から帰ってきたのだ。

 恒雄は帰宅するとヨガのポーズを五、六種するのを日課にしていた。せめてもの健康法である。何かしていなければ確実に病気になる予感がある。最初は「死体のポーズ」だ。仰向けに寝て、両腕は掌を上に向け体側に投げ出す。息をゆっくりと吐き出しながら、全身の力を抜いていく。蘇生していくような快さがある。

 その時、ピンポンと入口の呼び鈴が鳴った。せっかくのところを、と顔をしかめて恒雄は起き上がった。ドアを開けると進叔父がスウェット姿で立っていた。

「ああ、こんにちわ」

 恒雄は意外な来訪者に挨拶した。進叔父は肥満した腹を突き出すようにして上体をそらせると、「やぁ、元気かね」と言った。たるんだ頬肉がふるえ、眼鏡の奥の目が柔和に細められた。「まあまあですよ」と恒雄も微笑を返した。「姉さん居るかな」と進叔父は訊いた。姉さんとは光江のことである。その頃、光江は恒雄夫婦と同居していた。恒雄の父の征雄が肝硬変で亡くなって間がない頃である。光江は家業のレストランを継いだ恒雄の弟夫婦と一緒に住んでいたのだが、征雄が死ぬと一時的に恒雄のアパートに身を寄せたのだ。恒雄が帰ってきた時、光江の姿はなかった。婦人会かなにかの用事で出たのだろうと恒雄は思っていた。

「今出ているみたいやけど」

 恒雄が答えると、

「うーん、そうか。散歩の途中寄ったんやけど。一緒に歩かんかと思ってね。」

 と叔父は言い、なお立去り難い様子を示した。

「おいちゃんの家、この近くやったかね」

 恒雄が気がついたように尋ねると、

「うん、あの山の向こう側だ」

 と、恒雄のアパートがその麓に建っている山を指差した。

「まあ、どうぞ。そのうち帰ってくるかも知れないから」 

 恒雄はそう言って叔父を促した。叔父は「うん、そうしようかな」と言って、今度は少しためらう様子を見せたが、ドアの内側に入った。そしてぎこちない足取りで居間に通った。

 居間に入ると突っ立ったまま部屋の中を見回すようにした。ためらいがまだ続いているようだった。

「どうかね、仕事は」

 目は天井を見上げたまま叔父は言った。恒雄は「疲れますよ」と答えた。「そうかね」と叔父は言って、恒雄の顔に目を当て、にやりと笑った。その笑いに叔父らしい優しさを恒雄は感じた。叔父は部屋の隅にあるドレッサーの椅子に腰を下ろした。

 恒雄は進叔父と向き合って話をするのは久しぶりだった。職に就いてからは、会うのは法事の時ぐらいで、それも一対一で話すことは稀だった。進叔父は光江の一番下の弟で区役所に勤めていた。光江には三人の弟がいたが、恒雄が一番親しんだのはこの進叔父だった。小学生時代の夏休みには、まだ二十代の叔父に連れられて市民プールに通ったことがあるし、高校受験の時には家庭教師をしてもらった。恒雄が合格すると、お祝いに天麩羅屋でご馳走をしてくれた。そんな折々の思い出が断片的に浮かんでくる叔父だった。

 恒雄は座卓の前に座って叔父を見上げる形になった。叔父はまた思案気に部屋のあらぬ所に目をやっていたが、唐突に「あんた、ソープランドに行ったことある? 」と言った。恒雄は何の話を始めるのだろうと微笑しながら、「昔、行ったことあるけど、二、三回」と答えた。その頃はトルコ風呂と言っていた。恒雄は独身時代、金が入ると、よく夜の町に遊びに出ていた。

「俺、ソープランド行ったんよ」

 叔父は世間話のような調子で話し始めた。恒雄は叔父からこんな話を聞くのは照れくさい気がしたし、叔父も照れくさいはずだと思いながら「ふん」と頷いた。同時に五十代半ばを過ぎた叔父にもそんな衝動があるのかと思った。

「いや、酒に酔っとったもんやからね。日頃はそんな所は行かんのやけど。役所にソープランドに行った奴がおって、そいつが色々話すんよ。若い女の子がおったとか、どうやったこうやったと。それで酒の勢いでふらっと行く気になったんやね。…博多までタクシー走らせてね」

「博多まで。へぇー、それでどうやった」

「うん、マットレスに寝かされて、何かわけわからんうちに終わったんやけどね」

 叔父の顔は少しも楽し気ではなかった。

「その翌日よ、しまった! と思ったのは。頭をガーンと叩かれたみたいやった。エイズに感染したかも知れんと思ってね。エイズが怖いからそんな所には行くまいと思っとったのに、何で行ったんかと思ってね。役所の奴にだまされたと思って。自分に腹がたって。役所に行く気がせんで二日休んだよ。」

 エイズか、と恒雄は思った。毎日の仕事と生活に疲れて、ソープランドなど頭に浮かんでもこない恒雄だが、そんな彼にとっても確かにエイズは意識の上で性的な遊興に対するブレーキとなっていた。

「生でしたの? ゴムは付けなかった? 」

「よく覚えてないんよ、酔ってて。生の方が気持がいいとか何とか、女から言われたような気がするんやけど。…で、その店に行ったんよ」

「そのソープランドに」

 恒雄は少し驚いた。

「うん。店長に会ったんやけどね。うちの女の子は検査してるから大丈夫だと言われたんよ。」

 よく店まで行ったなと恒雄は思った。かなり深刻だったんだな、とその時の叔父の気持を推察した。

「感染してるかどうか検査があるんやないの」

「うん。受けたけどね。陰性やった。三か月後にもう一回来てくれと言われてね。それで陰性やったら大丈夫やと」

「三か月後ていつなん? 」

「うん、それももう受けたんやけどね。陰性やった。」

「ああ、それはよかった。安心したやろ」

 これでこの話は終わったと思って恒雄は笑顔を浮かべた。しかし進叔父の顔は少しも晴れ晴れとしなかった。

「それがね、百%大丈夫とは言えないというんよ。九十九%までは大丈夫だけど、一%は感染している可能性が残るらしいんや」

「ふーん。しかし九十九%大丈夫なら、大丈夫と思っていいんやない。普通はそれで大丈夫、ということになるんやろ」

「しかし、絶対感染していないとは言えんのやけね」

 叔父はそこが問題だというように顔をしかめた。その表情を見て恒雄は、エイズに感染していれば間違いなく死を迎えるのだからな、と叔父の気持を思いやった。

「そればっかりが頭にあって、どうにもならんのよ」

 叔父は目をしばたたいて頭を振った。なるほど叔父はこの事に悩んで相談をもちかけているんだ、甥の俺に恥を忍んで、と恒雄は覚った。彼は心理的な負担を感じた。

「百%はっきりするような検査方法はないの」

「それがないち言うんやな。あちこち聞いてみたけど」

「エイズの日本で一番専門的な機関というとどこかね」

「東京の、国立予防衛生研究所のエイズ研究センターにも問合わせたんよ」

「ああ、ほんと」

 そこまでしたのかと恒雄は思った。叔父の悩みの深刻さがその事からも感じとれた。

「それならもう仕方ないね」

 実際、恒雄にはそう思えた。

「検査方法がそれしかないのならどうしようもないやん。九十九%大丈夫なんやからそれでいいやない。俺だったらそれで納得するけどね」

 恒雄は当事者に対しては冷たい言い方かなと思いながら言った。しかし自分が叔父の立場だったとしても、確かに不安は消えないだろうが、それで諦めるだろうと思った。悩んでみたところで仕方がないことではないか、と思うのだった。

 叔父は沈黙して恒雄の目をみつめた。それは改まった真剣な眼差しだった。悩んでいるんだな、と思うと、恒雄は叔父が可哀相になった。

「大丈夫だって。陰性だったんやろ。心配したらきりがないよ」

 叔父を励ますように快活な調子で言った。「うーむ」と叔父は唸って恒雄の顔から視線を外した。

「ソープランドに行ってからどのくらいになるん」

「四か月くらいか」

「体、何ともないんやろ」

「うん。しかしエイズは潜伏期間が五、六年あるんよ」

「五、六年も」

 それは長い、と恒雄は思った。

「あれ以来がっくりきて、気持が萎えてしもうて、どうしようもないっちゃ」

 叔父はそう言って顔に苦笑を浮かばせた。

「あれこれ悩むほうが損やない。そのソープランドのことをぺらぺらしゃべっとった役所の人はどうしよるん。エイズのこと心配しよるね」

「別に」

「そうやろ。そんなもんよ」

 恒雄は我が意を得たりというように頷いた。

「その人に訊いてみたらいいやない。エイズは怖くないんかち」

「そいつはエイズになっても構わんと言うんよ」

「ほう、そんな人もおるんやけね」

 恒雄は、どうだ、というように叔父の顔を覗いた。

「気にしたってしょうがないよ。一%がどうなるか、誰もわからんのやから」

 しかし叔父はなお考え込むようであった。

「生殺しにされているような気がするよ」

 叔父が喘ぐようにいった。

「うーん、何も気にせん人もおるんやけど、おいちゃんは違うというわけか。…しかし、はっきりするのは五、六年先やろ。五、六年の間悩み続けるというわけにもいかんのやないの。その方がエイズに罹るより苦しいかも知れんよ」

 恒雄は自分でもそうだと納得する思いで言った。叔父は「そうやね」と呟くように答えたが、表情は明るくならなかった。恒雄は疲労を覚えた。こんなことをやっている時間はないんだという意識が浮かんだ。職場から持ち帰ったままの疲労が蘇ってきた。ヨガは中途になっている。ヨガの後、いつも少し眠るのだ。そうしなければ疲れは取れない。しかし、恒雄はその後も叔父の気持をひきたてるような言葉を探しながらしゃべった。が、効果はないようだった。光江は帰ってこず、叔父はしばらくして暗い表情のまま去って行った。

 夜になって帰ってきた光江に恒雄がそのことを話すと、「あんたに話したかね」と驚いたような顔をした。光江の話によると、進叔父はこのところずっとエイズ感染の不安でノイローゼ気味になっているらしかった。不安を訴える電話がかかかつてきて、光江は何度か叔父の家に行って話をしたらしい。光江も恒雄と同じようなことを言うのだが効果がないらしかった。

 その二、三日後にも進叔父は来た。やはり散歩の途中ということでスウェット姿だった。その時は光江は居たのだが、叔父は光江と少し話をしただけで、恒雄のいる部屋にやってきた。恒雄は何を言ったものか、と少し困ったが、話しているうちに、むしろ逆の方向から切りこんだ方がいいかも知れないと思って、五、六年後には発病すると覚悟して生きていったらどうか、と言ってみた。今を与えられた、残された時間だと思って精一杯生きるほうが、不安に苛まれて生きるよりどれだけ充実しているかわからないだろうと話した。恒雄がいつまでも諦めのつかない叔父の態度に不快を感じ始めていたのは確かだった。叔父は「そうか」とも言わず、目に時折反発するような光を浮かべながら、黙って聞いているだけだった。

 進叔父の来訪を二度受けると、今日も叔父がくるのではないかという思いが、会社からの帰途、恒雄の頭をよぎるようになった。それは重苦しさを伴っていた。叔父の三度目の来訪があったのはそんな予感がした日だった。その日は職場のQC(品質管理)サークルの発表を翌週に控えて、恒雄は心理的に追われていた。家に帰ってから発表項目を紙に書いて整理し、想定される質問に対する答え方も検討しておこうと思っていた。QCの発表は年に四回、四つのテーマの下に行われ、各サークルは毎回、少なくとも三つのテーマに発表しなければならないことになっていた。恒雄のサークルは八人のメンバーだから、各人に年に二回弱、発表の割当てが回ってくる計算だった。恒雄が取り組むテーマは「生産効率向上のための作業内容改善」だった。自分の職場の作業過程を検討し、少しでも無駄をなくし、効率的に生産が行われるような提案をしなければならないのだ。もう少し作業量を減らして、ゆとりをもって仕事ができるようにしてほしいとか、作業途中に五分間でいいから休憩時間を設けてほしいとか、そんな提案ならいくらでも思い浮かぶのだが、会社が求めているような「創意工夫」はよほど知恵を絞らなければ出てこなかった。しかも苦労して出したそんな提案は、労働者にとっては自分で自分の首を絞める結果をもたらす場合が多いのだった。しかしQCの発表は業務の一つとなっており、その内容は発表者の考課にストレートに影響する。それだけでなく、うまくやらないとそのサークルの班長が責任を問われることにもなった。恒雄は出世したいとは思わなかったが、班長や他のメンバーに迷惑をかけたくはなかった。

 アパートに帰って、光江の部屋に進叔父が来ているのを見た時、〈ああ、まただ〉と恒雄は気持が重くなった。〈今日はそんな暇はないんだが〉と思いながら叔父に挨拶して居間に入った。しばらくしてやはり叔父は恒雄の所にやってきた。叔父の様子は相変らずだった。恒雄はしばらく相手をしたが、埒の明かない話に苛立ちが昂じてきて、「おいちゃんも人の迷惑を考えんといけんよ。俺も疲れて帰ってきとるんだし、これからしなければならない仕事もあるんだ」と言ってしまった。叔父はびっくりしたように恒雄の顔を見つめた。そして、「そうか」と溜め息をつくように言うと立ち上がった。

 進叔父は地元の国立大学を卒業して役所に入ったのだが、結婚に失敗した。それが躓きとなったのか、性格が内向きになり、職場での人間関係がうまくいかなくなった。普段は言うべきことも言えないほどおとなしいのに、酒が入ると日頃の鬱憤が口に出てトラブルを起こすのだった。叔父は職場が面白くなくなると、姉の光江に配置転換を頼んだ。光江は町内の婦人会活動などを通じて区長や市長に顔が効いたからである。それで叔父は他の職員よりも頻繁に部署を変わってきた。そんな話を光江から聞かされた恒雄は、甘えてるな、と感じた。叔父のためにもまずいなと思った。光江が助け船を出さなければ、叔父は職場に適応するための努力を自分なりにするだろうと思われた。姉に頼んで部署を変えてもらうという解決策があるためにその努力をしなくなっているのではないか。それでは人間関係はできず、味方は勿論生まれない。また、上部と特別なコネがあって、部署をコロコロと変わるような人間は同僚から敬遠される。部署を変わる度に叔父の孤立は深まるばかりだろう、と自分の会社勤めの経験から恒雄は思った。光江の弟への思いやりは、却って弟の自立の足場を崩していると思われるのだった。恒雄が進叔父に対して「人の迷惑云々」と言った背景には、そんな甘やかされている叔父というイメージがあったのである。

 三度目の来訪以後、進叔父は恒雄の前に姿を現すことはなかった。その後しばらくして同居していた光江が狭苦しいアパート生活にやはり馴染めず、恒雄の弟夫婦のいる元の家に戻ったのも原因の一つだった。叔父が恒雄のアパートを訪ねる理由がなくなったのだ。光江が居なくなると、光江を介しての叔父に関する情報も恒雄には入りにくくなった。叔父が停年まで一年を残して役所を辞めたことを恒雄が光江から聞いたのは、それから三か月ほど後のことだった。

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