第三八話 力の天秤

 里佳が唖然としているのを、和登が流し台の前に立って見つめている。

 今名乗った男はというと、周囲の様子など特に気にすることなくカレーをどんどん口へ放り込んでいく。里佳と和登のいる地点だけ、時が止まったかのようにひっそりと静まりかえった。


「ん? どうした、嬢ちゃん」

 当分して、ようやく静けさに気づいた男が顔をあげる。


 里佳はそれでもしばらく黙り込んでいたが、ついに弾かれたように立ち上がった。


「……不死川ふしかわさん?」

 里佳の行動そのものは勢いづいていたが、絞り出された声には慎重さがあった。

「おう」

 不死川と名乗る男はカレーを詰め込んでぱんぱんになった顔で答える。

「ふ、不死川さん……?」

 里佳は、今度は流し台にいる和登に向かって問いかける。疑問文と平叙文の中間くらいの発音だった。

「……はい。不死川はじめさんです」


 和登も答える。そしてカレーを詰め込んだ顔の男は二度、縦に首を振る。里佳は顔を真っ青にして、何度か身震いした。

「そ、そんなわけない! だって、不死川さんって架空の人物だもん」

 和登からは不死川で間違いないとのお墨付きを得たのだが、里佳は信じようとしない。

「わはは、おれが架空の人物だって?」

 不死川と名乗る男は、さも愉快そうに笑う。口の中の米がテーブルに飛んだのを見て、和登が顔をしかめた。

「いやいや、おれは幽霊じゃないぜ」

 不死川と名乗る男は里佳を覗き込んで言った。里佳にとても興味をもったようだ。

「ゆ、幽霊とかじゃなくて、ですね……」

 里佳は頭が痛くなり、めまいまでしてきた。


 そこから不死川と名乗る男が立ち去るまでのことを、里佳はほとんど覚えていない。索田に早いところ会わねば、というようなことを話していた。

 カレーをひとしきり食べたその男は、また夜が更けたら来ると言って去っていった。


 ――――――――----‐‐


 里佳は今、自室へ戻ってベッドに足を上げている。和登が家事を一通りやるから待っていてくれと言っていたため、一人になっていた。カーテンの外から見える庭は闇に包まれていて、詳細を確認できない。


「不死川さん……?」

 里佳は天井を見つめ、三度目の言葉をつぶやいた。


 たしかに特徴は、『プリンケプス』の不死川と一致しているようにも思えた。みすぼらしい身なり、三十代後半あたり。

 しかしこれは小説なので、実際のところの風貌は作者にしか分からない。SNSでコミカライズされたものもあるが、それだって完全に正しいとはいえない。ただ、そういったことを差し引いてみても、里佳からしたら先ほどの人物はだった。それに、初対面の人に対する挨拶にも不死川らしさがあった。


 里佳はふと、サイドテーブルに置かれている本に目を留めた。今朝和登がくれたものだ。日中は自主的に外へ出ることを優先したし、さっきから色々あって、結局まだ読むことができていない。

 里佳は本を手に持って、表紙を見つめた。まじまじと見るのは初めてだ。


=====

 『力の天秤てんびん

       索田 辰二郎

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 里佳は目を疑う。索田は作家だったのだろうか。

 ひっくり返して裏表紙を持ち上げ、カバーの折り返された部分を見ると、著者紹介がされている。


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● 著者プロフィール

索田 辰二郎(さくた しんじろう)

特殊技量の名門一族に生まれ、米L.A.A大学院にて特殊技量技能学を修了。当時書いた博士論文がのちに国内外から評価を受け、至上最年少で紫綬褒章を授かる。29歳の頃私的に始めた塾が大成し、2016年に学校法人長月学園を創設。現在も特殊技量のコントロールを不得手とする子どもを中心に、積極的に生徒を受け入れている。

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特殊技量アビリティ!?」


 里佳は文字通りひっくり返って、本を落としてしまった。


 特殊技量アビリティとは、『プリンケプス』の世界において人間が必ず持ち合わせている力のことをいう。古くは単に「技量」、「力」、「能力」などと言っていたが、西洋化が進むにつれ、「特殊」な「技量」と書いて「アビリティ」と読ませるのが一般的になった。しかし民間人が口語で使うのは、今でも「力」がほとんどのようだ。


「和登君が言ってた、力って……」

 里佳には自分の心臓の音がはっきりと聞こえてきていた。


 中世頃から、強力すぎる特殊技量アビリティを持つ人々が現れはじめるが、それまでであればたいていは持ち物を軽量化できたり、楽器とあらばなんでも演奏できたりするような、言ってしまえば生活上ちょっぴり得する力のようなものだった。現代だって、そういう特殊技量アビリティの者のほうが多い。

 ただし強力な特殊技量アビリティを持つ者や、複数の力を有する者(複数特殊技量マルチアビリティ)は話が別である。彼らの中には、今でいうところのテロ行為に手を染める者が多く、各国が頭を抱える課題の一つとなっている。


「もし、本当にそうだとすると、和登君は『強き者プリオリ』とか……?」

 里佳は首を振る。

「いや、違う。架空の世界と混同しちゃだめだ。ここは私の頭の中じゃない」


 里佳はひたすらに首を振り続ける。頭痛を感じはじめたその頃、里佳の思考を遮るものが訪れた。

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