第六章 邂逅(かいこう)
第三七話 偶然か必然か
しばしの間、里佳は口をあんぐり開けたまま
和登が何を言っているのか、里佳には分からない。
いや、ぼんやりとだが、本当はなんとなく分かったのだ。「力」というのが何を指しているのか。だが里佳は信じたくなかった。とりわけ、和登が里佳を誘拐したということについては。
「ええと……はは、よく分かんないなぁ……」
里佳は頭を掻いて笑う。ただ、正確に笑えているのかは分からない。とにかく里佳は気まずくてしかたがない、そう思った。
「ね、ねえ。和登君。お願いだから、顔を上げてよ……」
和登はすぐ視線を前に戻した。しかし里佳とは視線を合わせようとしないし、里佳もまた机の角と和登を交互に見ていて、なかなか視線を安定させない。
「あ……えーと。私ね、このお屋敷に来る直前のことだったと思うんだけど、急に腕を掴まれてぐいっと引き寄せられる感覚になったんだよね。……それってもしかして、和登君だったの?」
「……………………はい」
ものすごく長い沈黙ののち、和登が声を絞り出した。
里佳はふと、今日和登が手をとってくれたときのことを思い出した。ルーフバルコニーに登る際と、バイクの音に
何日も前に体験したあの手で引っ張られたとなると、それにトラウマを持っていても納得がいく。里佳は他人事のようにぼんやり考えた。
口を開かねば空気の重さが増していくことは分かりきっていたので、里佳は色々と聞いてみようと思った。
「だけど、力っていうのはさておき、どうしてそんなことを?」
あ、また沈黙だ――――里佳は和登を観察していて思った。よほど話しづらいことなのだろう。
「…………先生が、あなたの力を求めていたので」
「索田さんが? いや、というよりも……私の……力って」
里佳には分かっていた。ここでいう「力」とは、力を貸してほしいとかの「力」ではなく、かといって腕力のことでもなく、これはおそらくさっき言及された「力」と同じものだということを。
今度は和登が
「……? 覚えてないんですか?」
「覚えてないって、何が?」
里佳は腕を組んで考えはじめる。
「索田さんからは僕の
和登が顎に手をあてて首をかしげている。里佳だって首をかしげたい気持ちだ。
「
「え? 和登君、不死川さんを知ってるの? プリンケプス読んでるの?」
だとしても和登が一小説のキャラクターに「さん」付けするのには違和感があると里佳は思った。しかもアングラ的作品なのだ。読んでいるわけがないとも思った。
「プリンケプス?」
「すべて覚えてるって……すべて? なんのすべて??」
話が噛み合っていない。里佳も和登もそう思った。二人ともうんうん
「確認ですけど、不死川さんって、あの不死川さんですよね? 中年で明るくて神出鬼没の」
「そうそう。神出鬼没って言葉、ぴったりだと思う。そして私の推し」
あれ、これ噛み合っているのかな。二人はそう思った。また和登から別の質問を投げかける。
「里佳さんは不――
「ん? 和登君どうしたの?」
和登が言葉を切って少しだけテーブルに身を乗り出し、黙ってしまった。
「……人が近くにいる」
和登が声を押し殺しながら言う。里佳は特段気にしていなかったため、気づくことができなかった。
「索田さんが帰ってきたのかな?」
「いや、そんなはずないです。……ああ、よりによってこんなタイミングで」
里佳が音を確認しようと背中を丸めてひっそりしていると、何かよくないことを悟った和登がうなだれた。
「やっほーい」
どこからか和登でない男性の声がしたため、里佳は椅子から勢いよく立ち上がって、開けっ放しになっている廊下のほうを振り返った。
しかし誰もいない。和登はまだうなだれているので、急にこんなことを言ったとは、とうてい思えない。
「だはは! お嬢ちゃん、こっちこっち」
声の主はご機嫌そうだ。里佳も今かけられた声のおかげで、声の主の居場所が分かった。
「和登君! 食器棚の角に人がいる!」
「知ってます……」
和登は声がして間もないのに、すでに声の主に対して疲れを感じているようだ。そして和登からしたら背後なのに、気配の時点で気づいていたようだ。和登はきっと暗殺されなさそうだと里佳は思った。
「よお、元気だったかー? 坊主はかくれんぼに強いよなぁ」
声の主はそう言うと、和登の背後まで来て彼の頭をわしわしなでた。ただでさえぴょんぴょん跳ね散らかしている髪が、一瞬でひどい有り様になった。
里佳は男を見て身構えてしまった。あまりにもみすぼらしい身なりだからだ。
ベージュのチノパンには破れた箇所を無理やり縫った形跡があり、ヘンリーネックのロングTシャツなど、泥がついていてほとんど模様と化している。しかも、よせばいいのに無意味に着物のような羽織りを重ね着して、全体がアンバランスの極みになっていた。年の頃は四十前後。靴には泥がめいっぱいこびり付いている。
ごわごわしたこげ茶色の髪はだらしなく肩まで伸ばしっぱなしにされていて、ひげなどまばらに生えていた。気合いの入っていない言葉遣いまで、すべてがだらしなくて
「これはかくれんぼじゃなくて家宅侵入ですよ。何か食べますか?」
「あー、じゃあそのカレーくれよ。うまそう」
身構えていたものの、里佳は吹き出しそうになった。和登の面倒見のよさはどうにかならないものかと思ったからだ。冷たくあしらうわりには、ちゃんと客としてもてなそうとしている。
「
「いらっしゃいませんよ。今日、明日は索田家の会合ですから」
和登は立ち上がると、自分の食べ終わった食器をシンクに放り込んで、炊飯器のほうへ移動した。いつの間に食べきったのだ。里佳も慌てて残りを食べようとした。しかしあと半分ある。
スプーンを手に取った里佳に、男の視線が向けられた。里佳はどうしたらいいか分からなくなってうつむく。
「よっ」
男は手をあげて里佳に挨拶した。
「ど、どうも……」
里佳は椅子のなかで小さくなる。
気軽な挨拶にどう返したらよいのかまるで分からなかった。自分よりはるかに年が上の相手に対して、そのまま「よっ」と返すのはいささか失礼ではないかと考えたものの、「どうも」以外の表現を思いつかなかったのだ。
男は着物を脱いで和登の座っていた椅子の背もたれに適当に掛けると、その椅子に落ち着いた。
「この嬢ちゃん、どうしたんだ?」
男は体をねじって和登に問う。
「……櫛江里佳さんといって、行く当てがないので今はこの屋敷に滞在しています」
和登はカレーの皿を男の前に置いて答えた。
「は……はじめまして。櫛江里佳といいます」
里佳は男に一瞬だけ目線を向け、すぐさま自分の皿を見つめることにした。和登が名前を言ってくれたあとに、自ら同じことを言うのは不自然だっただろうか。里佳にはやはり、どうしても分からなかった。それに、勝手にその他の関係ないことを話しだしていいのかも判断できない。里佳はとりあえずカレーを見つめ、椅子にたたずむことにした。
「おー、それはそれは。こんばんは」
男はスプーンをくるくる回しながら言う。
里佳は少しほっとした。話しかたからも、人懐っこい雰囲気がにじみ出る壮年期の男性で、なんだか打ち解けられそうだと里佳は思った。それと同時に、時間帯に合った挨拶をすればよかったのだということも分かった。
男はカレーをてんこ盛りにすくって続ける。
「こんな山のなかじゃ、若い子には不便だろ」
「そ、そんなことないです。索田さんは親切にしてくれてますし、昨日だってカフェに連れて行ってくれましたし、それに、和登君の料理はすっごくおいしいので」
里佳は緊張すると普段より多く喋るタイプなどではない。しかしこの男を前にすると、知らない人のなかでも一番たくさん話せそうな気がしていた。男は里佳の話を聞きながら、自分を褒められたわけでもないのに得意げにしている。
「そーかそーか。おれは
「…………え」
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