第三九話 ファーストフラッシュ
「里佳さん、お待たせしました」
ノック音と共に和登の声がした。
「あ……うん」
里佳は頭がぼうっとしていたが、それでも応答すると、ベッドから転がり落ちるようにしてドアまで向かう。鍵など掛かっていないため、単にドアノブを回して引いた。
すぐそこに、和登が長方形のトレイを持って立っていた。紅茶とクッキーが載っている。
「ありがとう。どうぞ、入って」
里佳はドアを限界まで開ききると、ドアストッパーで留めた。
和登は入り口から入ってつきあたりのテーブルにトレイを置き、紅茶の用意を始めた。里佳もドアを閉めるとふらふらと和登のもとへ行き、ソファに腰かける。
紅茶からはほんのりとやさしい香りがした。皿に盛られた八枚のクッキーには、それぞれ大粒のピスタチオが見え隠れしている。
和登は二つのカップに紅茶を注ぎ終えると、デスクの前にある椅子を里佳の正面まで引っ張ってきて、そこへ落ち着いた。
「……里佳さん」
和登は紅茶とクッキーを里佳に促すと、澄んだ目で里佳を見つめる。里佳はなんだか落ち着かない感じがして、紅茶に視線を落とした。そして、これだけはあらかじめ伝えておこうと思い、先手を打つ。
「あ、あの。私、転生系とかは信じてないから」
「はい?」
和登は聞き返したが、すぐに以前から流行っている小説の類いのことだと気づいた。
「里佳さん……ここは小説やアニメの世界じゃないんですよ」
「それは分かってるけど」
里佳は自分でも何を考えているのか、まとまらなくなってきた。
「そ、その、つまりね。不死川さんっていうのは小説のキャラクターなの」
「さっきから、何を言っているんですか」
和登が
転生系の作品だと、普通は自分が死んで、憧れていた作品の世界なり、ファンタジーの世界なりに引き込まれる。
もちろん楽しい作品がたくさんあるのはたしかだが、里佳はそういう展開には飽き飽きしていた。たいてい主人公が簡単にその世界に順応するし、強い力を持っていたり、魅力的なキャラクターの中心にいたりする。
「自分でもよく分かんないんだけど、とにかく、あくまで小説なんかではそういうことがあるっていう話であって。しかもベタだし」
「?」
和登こそ里佳の言いたいことがまったく分からない。彼はスポーツか家事しかしておらず、小説がどうとかアニメがどうとかには疎いのだ。転生という言葉だって、クラスメイトが話しているのを少し聞いた程度だ。
「それはそうと、不死川さんに会ったとき、何か感じましたか?」
和登は話を切り替えることにした。
「何かって、何が?」
「初めて会ったって本当ですか?」
「そりゃあ、そうだよ」
里佳は不死川を架空の人物だと言っているのに、和登は初対面かどうか聞いてくる。里佳は話がまったく噛み合っていないことを今度こそ確信した。和登は天を仰いで何か考えている。
「俺が力を使っても、何が起こったのか分かっていないように見えましたね」
里佳は転生系を断じて信じていないが、一つ尋ねるべきことはあった。
「そ、それなんだけど」
和登が里佳を見る。
「和登君、まさか
「はい、そうです。……そうか、正式名称でしか覚えていないんですね」
和登は即答すると、椅子の背にもたれかかり、妙に納得したような表情をした。
里佳は頭がくらくらしてきた。まだ頭の中を整理できていないため、続けて問う。
「えっと、覚えてないとかはほんっとよく分かんないんだけど、
和登は自分のカップを持ち上げて言う。
「一度順を追って話すので、とにかく聞いてください」
――――――――----‐‐
和登が言うには、里佳はこの世界の住人だった。不死川も当然実在する。
里佳が二週間前に姿を消したことで問題になっており、索田が力を使って所在をたしかめたところ、どこか別の世界へ行ってしまっているようだった。そこでは誰も
和登は所在が分かっている人やモノを引き寄せることができる
「里佳さん、俺には仕組みがよく分かりませんが、今大学生なんですよね?」
「そ、そうだよ」
里佳が紅茶を持つ手は小刻みに震える。頭に鈍い痛みを感じていた。和登が言う「大学生」という言葉の意味が、里佳の頭の中にあるものと同じ認識なのか分からなかった。
「兄がいるんですよね」
和登は試すように聞いてくる。これを里佳が話した覚えはない。
「兄……?」
里佳は頭を抱えた。
兄が誰なのか分からない。里佳にはむしろ、姉がいたような気さえしていた。
――――祖父母と父、それに姉
――――母は私を生んだときに死んだ
里佳には何か別の記憶が、脳裏に混ざってくるのが分かった。自分の名前は、何だっただろうか。里佳には分からなくなりつつある。
――――家族なんか嫌いだった
――――死んでしまえと願ったんだった
――――私の名前は……
――――私の願いは、
「里佳さん!」
和登に体を揺すられて、里佳ははっとした。
名前は櫛江里佳だったということを、忘れずにすんだ。
「あ、そうだった……私、里佳だ」
里佳は安堵した。目の前に紅茶があるのを見ると、カップを取って口へ近づける。たしか
「力の話が、なんだったっけ?」
和登は里佳のことを心配そうに見つめていたが、里佳が平然と紅茶を飲んでいるのを見ると、口を開く。
「続きを話すのは、また明日にしましょうか」
和登は眉を寄せてうつむいた。和登がなぜ悲しそうにしているのか、里佳には分からなかった。
「……? うん、分かった。この紅茶おいしいね」
「ダージリンです」
和登はぽつりとつぶやくと、立ち上がった。
「お疲れでしょうから、今日はもう休んでください」
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