第二八話 忠告

「いいえ、そんなはずないと思うわ」


 和登は天を仰いだ。事情は二周話したはずなのに、村雨むらさめはまったく理解してくれない。女性は爪を研いでいるときに耳が遠くなるものなのだろうか。もう夕食を用意しなければならない時間だ。和登は思いのほか長く村雨の部屋に滞在している。


「でも、村雨さん。あなたが危険な目に遭うかもしれないんですよ」

 和登は三周目を覚悟した。

「だって、危険なことがあれば辰二郎しんじろうが守ってくれるに決まってるもの」

「いや、だから……っ」


 和登は同じ話を繰り返そうとして、はっとした。今、玄関の扉の音が聞こえた気がする。もう帰ってきてしまったのか。

「すみません、村雨さん。話は途中ですが、夕飯の準備がまだなので」

 和登は椅子から弾かれるように立ち上がると、一礼してそそくさと去っていった。


「なんだったのよ、もう」


 村雨は追いかけもせず独りごちた。まだ右の爪を磨いていない。


 ――――――――----‐‐ 


 和登は広い屋敷を全力で駆け抜けたため、応接間に着く頃には息が上がっていた。満を持さずに応接間の戸を開ける。

「あ、和登さん」

 最初に声をかけてきたのは里佳だった。いつもは寝間着同然の姿なのに、というよりむしろ和登が一番最近見たときには布団姿だったのに、今やドレスアップしている。


「……お帰りなさいませ」

 和登は息を整えて里佳と索田を迎える。索田は暖炉の前で上着を脱いでいるところだった。

「やあ、和登くん」

「ねえねえ、和登さん。今日の晩ご飯は何?」

 里佳は戸の近くで立ったままの和登に近寄ってくる。和登はばつが悪そうにうつむいた。

「……すみません、まだ準備していません。昨日里佳さんが作った豚汁が残っているので、和食にしようかとは思っています」

「あれ、索田さんが作ったんだよ」

 和登は目を丸くした。

「先生が、ですか」

「そうだよ。もうすっごく豚汁だった。普段から作ればいいのにね」


 和登には「すっごく豚汁」というものがなんなのかは分からなかったが、里佳が作ったのではないという点に驚いた。

「そういえば、さっき聞いたんだけど、和登さんってスポーツ万能なんだってね。特に何が好きなの?」

「えっと、サッカー、ですけど」

「ええ、すごい。走るのも速いの?」

「は、はい。人並みには」

 里佳がぐいぐいと距離と詰めるので、和登は思わず数歩下がった。ここまで話す人だっただろうか。索田がくすくす笑って里佳をたしなめる。

「里佳ちゃん。和登くんには夕げの準備があるのだよ」


 里佳はそうだった、と頭を掻き、和登に謝る。

「ごめん。久々に推しの話をしたからテンション上がっちゃった」

「推し……? ああ、オタクだったんですか」

「ち、違うよ!」

 和登があまりにも直球でカテゴライズしたため、里佳は勢いよく否定した。だがあながち間違いではない。ライトノベルも漫画もがっつり読むのだ。そしてその世界や登場人物に思いを馳せる。広義のオタクといえばオタクだ。和登には縁のない話だったがクラスメイトにそういった人種がいるため、「推し」、「尊い」程度なら分かる。

「別に偏見はないですよ。じゃあ俺は厨房に行ってきます。三十分後に食堂へお越しください」

 和登はなんのフォローにもならないことを言うと、きびすを返した。

「僕も行くよ。じゃあ里佳ちゃん、またあとで」


 索田は里佳に手を振ると、廊下との境にいる和登のほうへやってきた。和登が戸を開けて道を譲ると、索田は「ありがとう」と言い、和登を通り越す際に付け加える。


「女性ものの香水のかおりがするね」


 和登はしばらくその場に立ち尽くし、索田の背中を目で追っていた。

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