第五章 和登孫市

第二九話 留守番

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男が気安く話しかけてきた


なぜ近寄ってくるのだ

なぜ話しかけてくるのだ

邪魔だ


こっちへ来るな……

嫌だ……もう、全部……

全部壊してやる………………


男は三歩手前で立ち止まった


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 里佳は飛び起きた。とてつもなく恐ろしいものが自分に迫ってきたような気がした。


 体を起こして目をこすると、時刻を確認した。六時五十分だった。

「久しぶりにちゃんとした時間帯に起きれたぁ」

 それは昨夜早く眠ったからなのだが、里佳にはとてつもない達成感があった。里佳は夢のことなど忘れ、手際よく朝の支度に取りかかる。


 支度といっても、服を着て多少の化粧を施すだけである。里佳は大きく伸びをすると、クローゼットの中からパステルイエローのカーディガンと、ぱりっとした緑色のワンピースを取り出した。

「靴下は白かな」


 里佳はいつも自分自身と相談しながらコーディネートを決める。半袖のワンピースを身にまとい、体の左側に沿うファスナーを上げていくと、頭痛が里佳を襲った。

「いたっ……」

 最近、里佳には悩みがあった。時々起こる頭痛である。


 なぜだろう、と健康体の里佳は首をかしげる。しかし里佳は、考えても分からないことを延々と考えるのが好きではなかった。

 部屋に備え付けられている冷蔵庫からペットボトルの水を出して一口飲み、流し台で顔を洗う。

 この部屋には一口のIHコンロと小さな流し台、そして冷蔵庫があるのだ。ブティックホテルというよりもマンスリーマンションに近いのかもしれない。

 本当なら部屋を出てすぐのパウダールームで洗顔と化粧をすべきだが、里佳は前日のうちに風呂に入った日などは、可能な限り自室で支度を済ませている。スキンケアなどは方法が分からないため、大したことをしていない。


 スリッパから靴に履き替え(さんざん悩んだ挙げ句、くるぶし丈の茶色い編み上げブーツにした)、廊下につながる扉を開ける。すると扉のそばに紙袋が置かれており、中には洗濯物が納まっていた。昨日の晩に和登がアイロンをかけて置いておいてくれたものだが、片づけるのがちょっと面倒で、里佳はそのままにしていたのだ。ブーツのひもをほどいて室内へ戻るのは面倒と感じたのか、里佳は今回も置いたままにすることにした。

 ルームウェアと、前日着ていた服を紙袋の隣にそっと置く。朝食が終わったら片づけます、里佳は心の中で自身と和登に約束した。


 螺旋階段ではないほうの階段から下りていくと、里佳の目には意外な姿が飛び込んできた。

「えっ。どうしたの、索田さん」


「……やあ、おはよう。里佳ちゃん」

 索田は裏口で靴べらを使って、黒の革靴を履き込んでいるところだった。濃い紫色のVネックセーターの中にカジュアルな白いシャツを合わせており、下にはグレーのスラックスを履いている。里佳が驚いたのは、索田の衣装がごくだという点だ。傍にボストンバッグを持った和登が控えていて、今にもジャケットを着せようとしているが、仮にそれを着たとしてもいたって普通だろう。昨日の時計どころか、ファイブロライトのピアスもつけていない。

「なんでそんなに普通なの? どこ行くの? ピアスはいいの?」

 里佳は自分のぼさぼさな後ろ髪をほぐしながらしつこく尋ねる。


「今日明日と実家に帰るんだよ。そういうときは、所持品や装飾品をあまり持って行かないんだ」

 索田は微笑を添えて答えた。和登がすかさず後方からジャケットを羽織らせる。

「実家……」

 里佳は索田に実家があるのが不自然に感じた。昨日ここが元別荘だということを知った里佳だったが、それでも今まさに実家へ帰ろうとしている索田を見ると、妙に現実感がないことに気づく。

 里佳はふと、昨日カフェで索田と交わしたやりとりを思い出し、索田を正面から見ることができなくなった。そうなんだ、と適当な返事をして、そそくさと食堂へ向かおうとする。


「というわけで、和登くん、里佳ちゃん。僕のいないあいだ屋敷を頼んだよ」

「承知しました」

「う、うん」

 里佳も和登に続いてぎこちなく返事をする。索田が出ていくのを見送ると、和登が里佳に向かって言う。

「朝食にしましょう」


 里佳に代わって、腹の音が和登に応じた。

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