第十一話 豪邸とその主(あるじ)

 里佳はまぶたに明るさを感じた。


 遠くから鳥のさえずりが聞こえてきて目を開くと、窓からはめいっぱいに日が差し込んでいた。どれくらい眠っていたのかは分からなかったが、朝の日の差し方とは違っていたから、午後までぐっすりと眠ってしまっていたのだろう。おぼろげながら、里佳はそう考えた。

 結局のところ里佳は、索田邸にかれこれ三晩も滞在している。金曜日の夜中にここで目を覚まして以来、里佳にはありとあらゆる災難が降りかかっていた。


 まず、二日目は昼過ぎから天気が急変し、この季節では滅多に見ない大嵐となってしまった。ほとんど真横に降りつけていた雨は、無理やり外へ出ようとする里佳に容赦なく直撃した。びしょ濡れになった里佳は天気以上に陰鬱になった。

 ただし兄には連絡を入れてもらうことができた。車で少し行ったところにある学校から電話をかけてくれたらしい。「無事に過ごしているならよかった」と言っていたと聞き、里佳は大きく安堵あんどしたのだった。


 しかし、である。三日目、今度は朝にと和登に頼んで起こしてもらい、最低限の支度をして索田の車で山を進むと、途中の橋が落ちてしまっていた。

 索田はそのとき二つの予想を立てた。一つ、橋が土砂崩れに巻き込まれた。二つ、誰かが屋敷内に三人を閉じ込めた。二つ目は里佳には心当たりがなかったが、高い依頼料で仕事を請け負っている索田が「僕のことを恨む人間がいるのかもね」と言っていた。とにかく、橋はそう簡単に修理できるものでもないらしい。そういうわけで、里佳は渋々索田の屋敷へ戻ることになったのだ。


 里佳は姿勢を変えてベッドの中央に座り込んだ。何か夢を見ていたような気がしたが、思い出そうとする前にきしむドアに意識が向いた。


「やあ、おはよう里佳ちゃん。よく眠れた?」

 部屋の入口の壁にもたれかかって華やかな笑みを里佳に向けているのは、この家の主だ。里佳は体を傾けて索田を見る。

 里佳に与えられていた部屋は一人で過ごすには広すぎた。真ん中を横開きの戸で仕切られているこの部屋は、仕切りを取り払うと八十平米もある。半分ほどまで仕切りを閉めてあると、死角になってしまってベッドから索田の姿を捉えるのは困難だ。まるでブティックホテルのスイートルームである。


「索田さん……これからはドアを開ける前にノックしてほしいな。できれば今だってしてほしい」

「ごめんね、したつもりだった」

 絶対にしていないとばかりにニヤリと笑って壁を四回叩く索田の姿は、朝から里佳を疲れさせた。

「一緒に昼食でもどうだい? 君にとっては朝食だけど」

 朝食でも昼食でもなんでもよかったが、食べ物を連想した里佳のお腹はやる気のない鳴き声をあげた。初日に和登が作ってくれたハンバーグと野菜スープを思い出す。それ以降に出された食事までもが、走馬灯のように里佳の脳裏を駆け巡った。里佳は食欲にはあらがえないことを悟った。


「そんなに言うなら、食べようかな。でもまずは着替えるから見ないでね」

「ふふ、お腹が空いているというのに素直じゃないね。着替え終わったら廊下に出ておいで」

 索田は爽やかにそう言うと、執事のような一礼をして下がった。里佳は閉めてもらえなかったドアまでずんずんと歩き、ぱたりと閉めるとため息をつく。外から聞こえる索田のくすくす笑う声は起きたての里佳の耳にとって不快だったし、見ていた夢を忘れてしまったのも残念だった。


 里佳はこの四日で索田にすっかり慣れていた。それどころか、少し鬱陶しいとも思っていた。里佳は他人から急に距離を詰められるのが嫌いなのだ。

 それに、慣れてきたといっても索田が今までに見たこともないほどの美形であることには変わりがないので、里佳の心臓はいくつあっても。それなのに、これ見よがしに笑顔を振りまいてくる。


 ウォークインクローゼットにこもってしばらく悩んだのち、里佳は白のタンクトップを選んでジーンズを履くと、グレーの男物のパーカーを上から適当にかぶせて部屋を出た。


 ――――――――----‐‐


 索田の後ろを歩きながら、里佳は思った。

 こんなにも広い豪邸にテレビも新聞もネット環境もないわけがない。索田など明らかに「朝・眼鏡・コーヒー・新聞」がよく似合う。男女問わず誰かしらの服がクローゼットにあるのもおかしい。自由に屋敷内を歩かせてくれているのに、里佳には謎の窮屈さがつきまとっていた。


 事実、里佳が入れてもらえない部屋は多い。里佳がいる部屋の戸とまったく同じ形状のものが二階から三階にわたって六部屋分も取り付けられているのだが、里佳はそこへ入ることができない。二人から入ることを禁じられているのではなく、鍵がかけられているのだ。

 それらはブロンズのアンティークなドアノブで、扉自体はマホガニー色をしていた。内装も里佳のところと同じだと仮定すると、これらだけで最低でも二百四十平米である。それに、これらとは違った戸だってあるし、このフロア用のトイレもある。廊下は直線に伸びているが、端から端まで歩くのに三分かかることを里佳は確認している。

 もしかしたら本当に誰かが間借りしているのだろうか、と里佳は思う。昨日は退屈すぎて全ドアノブを五回ずつひねって回ったので、利用者がいるなら大変申し訳ないことをしたことになる。しかし、誰も暮らしていないのであれば完全なる宝の持ち腐れだ。それに、里佳にだってここがどこなのか、兄や友との連絡手段は本当にないのか、などを知る権利がある。だからドアノブを回したって構わないと勝手に判断しているのだ。


 一階の長い廊下にはまた別のタイプの戸があり、こちらはドアノブがゴールドで、扉全体は白く塗られていた。廊下に敷かれた赤いカーペットと象牙ぞうげ色の壁が戸を空間になじませている。男女別の風呂場(里佳にとっては古代ローマのテルマエかと思うくらい広い)、同じく男女別のシャワー室洗面所が一つずつ、さらに男女別のトイレが二つずつ、計八つがそれぞれほとんど同じ造りをしており、里佳はこのタイプの戸ならばすべて開けることができた。

 他にも似て非なるドアが八つある。一つはどうやっても開かない裏口の扉、二つが里佳には入ることのできない扉、他に食堂と厨房、残りの三つはそれぞれ掃除道具、ベッドやソファなどのシーツ類、消耗品のストックが入っている押入れだった。後者三つは里佳が自ら開けてみたから分かる。そのとき里佳はモップやら掃除機やらを勢いよく倒してしまって和登に怒られている。


 それらとはまた違ったドアもあった。応接間、屋敷の中央付近の扉二つ、裏口付近のよく分からない扉だ。これらは応接間以外、開けることができない。

 もう一つ、応接間からしか入れない執務室の入り口もあるが、これは「部屋 in 部屋」なので、里佳的にはカウントしない。


 一つ問題があるのは、男性用のシャワー室だけ床から百センチくらいまでが白い壁で、それより上がガラス張りになっているという点である。つまりうっかり誰かのシャワー中に女性用と間違って男性用の洗面所に入ると、当該人物の上半身が丸見えなのだ。

 ただでさえ似たような戸をしているのに間違えるなと言うほうがおかしい。里佳は実際、一昨日和登がいるときに開けてしまった。幸いにもただ清掃していただけだったが、これを設計した建築家はなぜこんな卑猥ひわいな造りを許したのだろう、と里佳は軽蔑した。

 だから里佳はいつもシャワー室を使わず風呂場を使用している。逆のケースがあってはならないからだ。和登もまた男性側の風呂を使っていたが、索田だけは里佳がここに来た日から「僕はシャワー派だから。上半身くらい好きに見てもいいよ」などと言い、鼻歌を歌いながらシャワー室へと入っていった。この人は中身はおじさんなのだ、と里佳は思った。索田は今のところ、日に最低でも二回はこの半分ガラス張りの個室へ入っていく。


 もちろん里佳はシャワー室を使用している索田を見ようなどと思わない。里佳は目鼻の整った顔立ちへの耐性があまりないし、なんとなく彼の思い通りにだけはなりたくないのだ。もちろんれたくもない。すべてを見透かされている気がする、里佳はそう思うのだった。

 それに、索田は別に里佳の好みではない。むしろ里佳は和登のほうが好感度が高いと思っている。


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