第三話  コーカス・レース

「ただいま」


 そう言って帰宅した里佳は玄関のシューズボックスに手を置いて靴を脱いだ。すると、廊下の奥の扉が開く。

「おかえり、里佳」


「お兄ちゃん!」

 奥の部屋から出てきたのは兄の空野くうの海斗かいとだった。里佳はみるみるうちに笑顔になり、海斗のところまで駆けだした。

「今日は豚肉のしょうが焼きを作ってあるよ。余った肉で豚汁も」

「やったあ! うれしい!」


 里佳は兄のことが大好きだった。里佳が家族を認知しだしたときにはすでに兄しかいなかったということもあるが、海斗が里佳に愛情を注いで育ててくれ、よき話し相手も兼任してくれていたからという理由のほうが大きい。

 そんな海斗と血がつながっていないと知ったのは、里佳が先日二十歳の誕生日を迎えた日だった。海斗が自ら、里佳はもう大人だからと話してくれたのだ。それでも里佳が海斗のことを違和感なく慕っているのは、先の理由によるものだ。


 里佳は自室へ戻ると、着ていた黄色のカーディガンと白のワンピースを脱いで楽なジャージに着替えた。上下ともに緑色で、それぞれの両サイドに白い線が一本入っている男物のこれは、海斗が中学の頃のものだろうか。階下へ戻り、兄のいるダイニングへ向かう。


 海斗は豚汁に仕上げのねぎを入れているところだった。海斗は言う。

「大学は楽しかったか?」

「うん、今日は必修の憲法と地学と英語Ⅱと、あと選択必修の倫理学概論と、自由科目の天文学を受けてきたよ。でね、英語と倫理学では課題も出たから、ご飯を食べたらやらなきゃいけないの」

 里佳はダイニングの椅子に座りながら流ちょうに話した。海斗は里佳にいつも大学のことを聞いたし、里佳はいつもそれに答えた。食卓にご飯、しょうが焼き、豚汁、簡単なサラダが並び、海斗も席につく。

「そうか。楽しかったのならよかった」

 海斗は里佳に微笑む。海斗はさながら里佳の保護者だった。


「いただきます。でね、英語の課題は教材の第三章を丸々訳すことですごく大変そうなんだけど、来週休講だから先生がその分多く出したんだと思う。倫理学のほうはカントのページを読んでおけばいいみたい」

 里佳が夕食を食べながらも怒涛どとうのように話すことすべてを聞きながら、海斗はうなずいたり相づちを打ったりした。


 里佳の話し相手は海斗か詩音しかいない。詩音は就業時間が不規則な仕事をしているので、会えるときと会えないときとがあった。それに里佳は自分が話すより詩音が話すのを聞くほうが好きだった。きっと詩音は逆のことを言うだろう。一方の海斗はいつも家にいて、決まって話を聞いてくれる。だから里佳はその日あったことを兄に話すのが日課になっていた。


 ――――――――----‐‐


 食事を終えた里佳はリビングのテーブルに英語の教材を開き、うんうんうなっていた。


 リビングとダイニングを隔てるドアは開けたままになっており、向こう側に食器を洗っている海斗の姿が見える。里佳はちら、と海斗を見た。いつもは英語の相談をしているが、頼ってばかりではいけないと思い、今日は一人でやると言い張った。しかし英語は里佳のもっとも苦手な科目なのである。


 それでもまずは見てみよう、と里佳の闘いは始まった。


A Caucus-Race and a Long Tale


 あまりにも大きく書いてあったため、里佳にはこれが第三章のタイトルだということくらいは分かった。見ただけでもかゆくなってくるような自称英語アレルギーの里佳だったが、進展はあった。里佳は "Long Tale" が長いしっぽだということだけは知っていた。

 内容を見てみないことにはタイトルを和訳しようがない、などと言いながら、里佳は本文のほうに目をやる。


They were indeed a queer-looking party that assembled on the bank—the birds with draggled feathers, the animals with their fur clinging close to them, and all dripping wet, cross, and uncomfortable.


「我々は……鳥…………動物………………ウェット、クロス、アンド……」

 英語が苦手な人間はだいたいもれなくこのような感じだ。分かる単語だけ日本語で訳し、分からないが読める単語は口に出してみる。だがそれ以上は何も進まない。しかも、"they" は「我々」ではない。

「日本語の意味を……思い出そう……」


……


…………



「不思議の国のアリスか」


 里佳がまぶたの重みを感じ終わったそのとき、急に話しかけられてはっと目を開けた。海斗が里佳の隣に立って教材をのぞき込んでいる。

「このあいだも苦戦していたな」

「うう……私、英語の単語数に比例して睡魔が来る仕組みになってて……」

 里佳は目をこすった。それを見て海斗が笑う。


 英語Ⅱの講義では、ルイス・キャロルが著した『不思議の国のアリス』を題材として使っている。英語の担当教授によると、「みんなが知っている物語なら、英語の苦手な人でも抵抗感なく読めるから」とのことだった。現代ではもはやファンタジーの基本書といえる本作を、里佳は当然のように知っている。日本語のものならば。

 さらに、里佳は先日、教授がアリスを終えたらハリー・ポッターシリーズに入ると言っているのを聞いた。あんなにも造語のあふれる作品を英語で読むだなんて恐ろしいことだ、と里佳は思っている。


「教えようか?」

 海斗が助け舟を出す。里佳はその甘い誘惑に乗ってしまいたいと思ったが、

「大丈夫。私、自分でやるって決めたもん」

 と、なんとか断ることができた。海斗は里佳の頭をぽんぽんと軽く叩き「そっか。がんばれよ」と言うと、翌日の弁当を作りに再びキッチンへと行ってしまった。


「……まあ、これは明日でもいいよね」

 里佳は気持ちを切り替えるため、倫理学概論の課題に取り組む。


 イマヌエル・カントについて書かれている章は思いのほか長かった。しかし里佳は倫理学も哲学も趣味の読書によって基本をならっていたので、比較的スムーズに読むことができている。カントの定言命法ていげんめいほうが期末のレポートの課題に出たら説明するのが難しそうだな、と思いながら読み進めていると、風呂が沸いたと海斗が伝えに来た。


 風呂から出た里佳が英語の教材の表紙を見ただけで簡単に眠りに落ちてしまったのは、それから三十分後のことだった。


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