第二話  文字の世界

 実のところ、里佳はクレープを初めて注文する。


 地下鉄に乗っているとき、詩音は「注文する前に何があるかここで見れるんだ」と言って里佳にスマートフォンを見せてやった。そこには最寄りのクレープ屋のウェブページが表示されており、商品の画像がたくさん並んでいた。里佳はそのページをもうスクロールできないというところまで見てみたが、結局のところ一番上まで戻り、「おすすめ」「人気No.1」という二つのタグが付いたバナナチョコクレープを注文すると決めた。

「普通すぎんでしょ」

 詩音は吹き出して笑っていたが、普通という言葉を里佳は嫌いじゃなかった。むしろ普通に生活して、好きなだけ本を読めて、なんでも話せる友達や兄弟がいて、普通に人生を終えられたらいい、そう考えている。


 地下鉄の六番出口の階段を一列になって上ると、夕日の気配が大分少なくなっていることが分かった。詩音は軽快に最後の一段を上りきって振り返ると、里佳に言う。


「そういえば里佳、結局あれ見てみたのか?」


 里佳も最後の一段を越え、地上に出ると答えた。

「うん、小説のほう。昨日なんか一気にあと三話ってとこまで読んじゃったよ」

「へえ。あたしは漫画しか読まないけど、あれ原作のほうが結構進んでんだろ」

 

 詩音と里佳が言っているのは、インターネット上に投稿されているウェブ小説『プリンケプス』のことである。一般人が投稿している作品で、知名度もなければネット界でうわさされているわけでもない、人知れず更新されている小説だ。だがニッチな好みの人々の目には留まったようで、SNS上で作者承諾のもとコミカライズされている。

 その『プリンケプス』の世界観の説明欄には、こう書かれている。


===

 世界中の人々が全員特殊技量アビリティを持っている世界。それが地球である。最初は平均的な人間よりやや優れている程度のものだったそれは、中世以降、強力な特殊技量アビリティを持つ者(「強き者プリオリ」と総称される)や、複数の能力を一人で持つ者(複数特殊技量マルチアビリティ)が現れはじめた。そういった者たちはたいてい攻撃に特化した力を宿しており、それぞれの国で戦争の時代を切り拓く第一人者となっていた。だが、世界情勢が落ち着いている現代社会……とくに先進国においては、こうした者たちが重宝されることはほとんどなくなっている。

 「強き者プリオリ」や複数特殊技量マルチアビリティの持ち主は居場所を求めて原理主義的思想へ染まり、国内で犯罪行為やテロ行為を起こしはじめる。一方で特殊技量アビリティを使った個々の犯罪も後を絶たない。どの国も世界が平和になった後にかえって国内が荒んでいくという現象に悩まされるのだった。

===

引用:httt://xxx.princeps.willbewritten/introduction



「あたしは小難しい感じの原作より漫画のがいいけど。世界観のとこ読むだけでまじ頭痛くなる」

 詩音はがしがしと頭をいて、苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた。それを見た里佳は困り顔で笑う。

「そうかな。私はコミカライズされてるものだと端折はしょられたりしてるのがちょっと苦手」


「里佳はオリジナルが漫画とかゲームだとしても、小説版のが好きだもんなー」

 詩音は腕を組み、感心したかのようにため息を漏らした。

「うん。小説だと登場人物の姿を想像するしかないし、全部丸々私の世界にできるみたいで自由があって好き。でもコミカライズ版だって自分の想像を答え合わせするのにちょうどいいよね」

 里佳は言葉に熱を込める。詩音は吹き出した。

「哲学的だな」


 想像力を働かせることができる小説という存在は、里佳にとって最高の娯楽だった。


 里佳は先週詩音から『プリンケプス』を紹介され、昨夜までに相当な話数を読みきっていた。

 里佳はその直後にスマートフォンからSNSを起動させ、プロフィールに「ROM専」と書かれた自身のアカウントで『プリンケプス』とキーワード検索した。だが出てきたのは作者による更新通知とコミカライズした投稿と、残りは十件程度の感想だったため、里佳は想像以上に人気がない作品であることにがっかりしていたのだ。詩音が話題にしてくれたことに感謝しよう、里佳はそう思った。


「で、プリンケプスのもしたんだろ。あれ作者のキャラデザが反映されてるらしいし」

「したよ」

「どうだった?」


 里佳は少しうつむいた。地面の白いタイルだけ踏まないよう避けながら答える。

「なんか……ちょっとキャラデザが予想外だった。不死川ふしかわさん」

「ああ、あの小汚いやつね」

「小汚くないよ!」

 里佳は詩音をきっ、とにらんだ。二人は目を合わせると、くすくす笑う。

「はいはい。推し、なわけね」

 里佳が「そう」と言うのを聞くと、詩音は両手を頭の後ろで組んで体を反らして適当なことを言う。

「まあ、かわいそうな子だよね。あの子」


「……そうだね」

 詩音に答えようとした里佳は言葉を飲んだ。詩音はコミカライズ版しか読んでいないというのだ。話したいけど我慢するのだ……ネタバレは信条に反する。里佳は自身にそう言い聞かせた。


 そうこうしているうちにクレープ屋まで着いた。レジまで行き、迎えてくれたスタッフにそれぞれの注文を伝える。詩音はツナマヨサラダというメニューにしたらしい。「三食これでもいい」とまで言っている。

 レジの左で待つよう促されたため横にずれると、別のスタッフが二人分のクレープを作る様子を見学できた。里佳にはどうしてあんなに薄く生地を引くことができるのか分からなかったが、どうやらスタッフが手に持つ器材に秘密があるらしい。それを鉄板に少し垂らした生地にあててくるくる回すと、生地は薄く伸び、透ける程度の大きな円形の生地に早変わりしたのだ。

 手渡しで受け取ったクレープは、里佳の手にほんのりとした温かさを伝えた。しばらくすると詩音の分もできあがったので、二人は食べながら歩を進めることにした。



 ――――――――----‐‐



「大学どう?」


 あたりはすっかり暗闇に包まれ、里佳と詩音は街灯に照らされることでようやく姿を保っている。帰路につく途中の二人はしばらくのあいだクレープの話題しか出さなかったが、里佳の家にそろそろ着くという頃合いで詩音が唐突に疑問を投げかけた。


「楽しいよ。本で読んだことのない知識があったり、私の知らない本がたくさんあったりするのを見ると、私の世界って狭いんだなーって感じられる」


 詩音はやはり吹き出した。里佳が独特の表現をすると、詩音はたいてい「哲学的だ」「難しいことは分からん」と笑いだす。

「世界が狭いのって、楽しいのかよ!」

 詩音は今回も里佳の言うことが面白いようだった。しかし詩音は馬鹿にしているのではなく、里佳の存在を楽しんでいるように見える。二人はすでに里佳の家の前に着いていた。


「うん、楽しい。何でも簡単に自分の手でつかめる世界なんかより、想像を膨らませることができたり、一生かかっても手の届かなかったりする世界のほうが楽しいだろうなって、私は思うんだ」

 少し考えてから、里佳は自分の言葉ではっきりと主張した。詩音がほとんど暗闇に浸かりかけている里佳の左半身を見て言う。


「里佳の世界が楽しいのは、あんたに当たり前のことを楽しむ心があるからだよ」


 詩音は里佳に向かって歯を見せて笑うと、それじゃあ、とクレープを持った手を振って颯爽さっそうと歩き去っていった。その指先には、里佳が真似している黒と赤のネイルがわずかだがたしかに見えた。


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