第一章 櫛江里佳

第一話  ちいさな幸せ

 櫛江くしえ里佳りかは特筆すべき点のない、いたって普通の女子大生である。両親がいないことを除けば。


「……では今日の講義はここまで。出席シートを配るので、表に名前を書いて、裏にはあなたが思う倫理学について簡潔でいいので書くように。書いたら前に持ってきてください。そうしたら帰ってよいです。来週までの課題は今から黒板に書いておきます」

 ここは愛知女子大学車道くるまみちキャンパスのなかで一番広い講堂。里佳がその一番後ろの席に座って受けていた二年生の選択必修科目『倫理学概論』の講義は、チャイムが鳴ったところでおしまいとなった。


「あ、出席シートが……」

 最前列の席から回された小さな紙きれの束は、里佳の前の学生のところで終わってしまったようだ。里佳は自分に回ってくる紙が一枚もないことを確認すると、ペンを持って席を立ち、教卓のところまで歩いていくことにした。


 この部屋は映画館やコンサートホールにあるようなつくりで、後ろの席に向かって緩い勾配こうばいをなしている。この設計のおかげで、後ろのほうの席でも黒板やプロジェクターで映すスクリーンなどが見やすくなっている。ふつうに歩く分には特段困難といえないが、ヒールが九センチのパンプスにとっては一大ミッションだ。おまけにフローリングの床はつるつる滑るものだから、履きならしてヒールのかかとが削れてしまっている里佳のパンプスでは、雪道を下るようなものだった。


 教授は腰に手をあてて黒板を消していた。里佳は聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声で「いただきます」と言って、余った出席シートを教卓から一枚はぎ取ってその場で記名し、裏にはこのように書いた。

 『倫理学とは宗教と似ていて、各国ごとに違うものだと思います』

 これを皆が書いては置いてかさばった紙の山にしのばせ、バッグを取りにもとの席へと小走りで戻っていく。彼女には今日急いで帰らねばならない用事があるのだ。


 里佳はトートバッグに筆記用具や山ほどの参考文献をなんとか詰め込むと、講義室を出て二階の廊下をいそいそ歩いていく。教授はガイダンスで参考文献を五冊提示し、そのうちのどれか一冊でよいから自分で買って熟読するようにと言っていたのだが、里佳はそれらを全て買い、いつも全部を持ってきていた。


 本の虫、とは里佳のためにあるような言葉だ。里佳は人づきあいが苦手だった。両親がいないため年上の人に対して何を話したらよいか分からないし、下の兄弟がいないので子どもとの接し方も分からない。いつも本ばかり読んでいるせいで、YouTubeの動画も知らなければテレビに出ているお笑い芸人のことも知らない。そのため、同級生との接し方が分からないままでいた。唯一の家族である兄や一人だけいる友達とであれば悩みから何気ないことまで話せるのに、なぜだか他の人には話しかけられないのだ。


 ところで、この大学は二つの意味で風通しのよい学校である。まず、どの講義でも決まって教授に学生の考えていることを伝えられるという点。すべての講義でアンケートなり出席シートなりが配られ、学生はそこに思っていることや分からないことを書く。すると次回の講義でその一部が取り上げられたり、大学のサイト『AJD-portal』で教授からの回答が得られたりする。このサイトは保護者でも部外者でも誰でも見ることができ、学生の主張や疑問を通して大学教育を受けたことのない人も教授の回答を見たり、過去の卒業論文を読んで自分なりに考えたりできるというものだった。

 もう一つは、キャンパスには木々が植えられ、全ての通路をこまめに設置された柱だけが支えており、その隙間から文字通り風が通ってくるという点がある。里佳はこのキャンパスが好きだった。ひとたび講義室を出ると緑のにおいや、日によっては雨のにおいに包まれて、息を吸い込むと生きているという実感を得られた。暴風雨のときだけはうんざりするが。


 里佳は柱を横切って階段を下り、またいくつかの柱を通り過ぎ、休講情報がないか掲示板をたしかめ、植物に囲まれた薄暗い石畳を駆けて立派な石造りの正門までたどり着くと、腕時計を見る。午後六時十分。足が悲鳴をあげはじめたその時、背後の建物からチャイムが鳴り響いた。集合時間ぴったりだ。

「里佳ー!」

 西側の駅方面から、里佳のことを呼ぶ声が聞こえた。

詩音しおん

 里佳は詩音のところまで軽快に走る。


 福井詩音が里佳のただ一人の友達だ。

 つり目で派手な顔立ちの詩音は、里佳より背が高く、自立した女性といった雰囲気を出している。ボーイッシュなショートカットがそのまま詩音を表しているかのようにさっぱりとした性格をしており、いつも身を包むパンキッシュスタイルがとても似合っていた。

 詩音はいつも里佳の悩みを聞いては適切なアドバイスをしてくれるし、里佳が明るく話せるようになったのは詩音のおかげにほかならない。里佳はそんな詩音のことを自分の姉のように思っているが、年は同じだ。

 里佳は彼女のようになりたくて、いつも自分のたれ目をアイラインでぴんと跳ねさせ、つり目のように見せかけているのだった。

「やー、ちょっとぎりぎりになっちゃった。待たせて悪いね」

 詩音は片手を目の前で立て、謝るポーズをした。

「私も今ちょうど教室から出れたとこだから気にしないで」

「オッケー、それならよかったな。じゃ、どこ行こっか?」

「うーん……」


 里佳と詩音は今日、里佳の大学前で落ち合って一緒に遊ぶ約束をしている。遊ぶといっても、彼女らのように二十歳にもなれば、たいていはお茶をしたりご飯を食べに行ったりすることをいう。時折そのあとゲームセンターに行って詩音がぬいぐるみを取ってみせたり、カラオケで歌ったりすることもある。

 里佳は優柔不断だった。ほとんどいつも詩音に、その日することを決めてもらっている。それでも里佳は、詩音の誘いがたいてい面白いことだと知っていた。あるいは、詩音といること自体が里佳にとって楽しいことなのかもしれない。だがこの日ばかりは、詩音のほうから「今日は里佳が決めてみなよ」と言ってきたのだ。


 里佳は手を顎にあて、しばし思案した。詩音がよく一人でもすると話してくれたことについて考えてた。映画、ゲーム、釣り、バッティングセンター、スポーツジム……

「おい里佳ー、今あたしがしたいことはなんだろうなって考えてただろ」

「え、なんで分かるの?」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている里佳を見て、詩音はケラケラと笑う。

「里佳の考えてることは分かりやすいんだよ。でもいつまでもあたしで考えてちゃダメだって。なんかしたいことはないの?」

 そう言われても、と里佳はまた考えはじめた。


 詩音がいつも言っていることのうちのひとつに、自分のしたいことと他人のしたいことが一致しないからといって、自分がしたいことを諦める道理はない、というのがある。それに、「したいことというのは難しいことばかりとは限らない」とも言っていた。おしゃべりしたい、一緒に帰りたい、そういうことも全て「したいこと」なのだという。それならば、と里佳は詩音を見る。


「私、詩音とクレープの食べ歩きをしながら帰りたい」

 言ってから里佳は単純すぎて馬鹿げた「したいこと」なのではないかと恥ずかしくなった。なぜそれがしてみたいのかも分からない。しかし詩音は里佳の言うことを笑わなかった。

「いいね、それ。じゃあ早速クレープ屋へ行こう!」

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