海底より

かおる

海底より


 空の青と海の青。透きとおっているのはどっちの青だろう。

 頬杖をついて窓の外を眺めつつ、そんなことを考える。

 空のずっと先には真っ暗な宇宙が広がっていて、海のずっと深いところは光すら射さない場所があるという。

 空と海の果て。きっと、そこにある色は同じ。

 何者にも染まらない完璧な黒。

 見上げた遙か彼方には黒があって、目を落としたずっと下にも黒がある。

 わたしたちはそんな、どうしようもない黒に挟まれている。

「次の問題を……清水」

 先生の声が聞こえて、わたしはゆっくりと目を開けた。

 目の前の風景が色を取り戻す。どうやら無意識で目を瞑っていたようだ。

「……わかりません」

 ひとつ前の席に座る清水くんが下を向いて答えた。

 それを聞いてわたしは微かに咳払いをする。

「じゃあ柏木。この答えがわかるか?」

 やっぱり当てられた。わたしは先生から目を逸らして小さく首を振る。

「わかりません」

 先生はその返事を予想していたかのようにわたしの後ろの席の人物を指す。当てられた女の子がはきはきと正答を言い当てると、先生は満足そうに頷いた。


 言葉は有限だ。

 そう初めて感じたのは何歳のときだったろう。

 見ているもの、触れたもの、感じたもの……その他いろいろ。

 世界から拾い上げたときはまだ生きていたはずなのに、言葉にした瞬間、それは死んでしまう。自由に飛び回る蝶が綺麗だと思っていたのに、その美しさを表現してしまうと、いつの間にか蝶は冷たい標本になっている。

 言葉は枷だ。

 無限なそれを搦め捕り、有限に堕す鎖だ。


 ホームルームが終わってわたしは席を立った。

 教室の後ろのドアから出ようとすると、すぐ近くでおしゃべりをしている数人の会話が耳に入ってしまった。

 くだらない話題。意味のない相槌。価値のない言葉たち。

 躰のなかに入りこんでしまいそうで、わたしは耳を塞いだまま走り抜けた。

 きたないものは嫌いだ。


 きれいなものは好きだ。

 うつくしいものは好きだ。

 きれいなもの。

 うつくしいもの。

 夜明けの空。

 鳩の声。

 道路の隅で揺れるコスモス。

 下駄箱に揃えられた靴。

 教室の窓から見える風景。

 よく削られた鉛筆の先。

 体操服の白。

 バットでボールを打つ音。

 夕日に照らされて伸びる影。

 道路に灯る街灯。

 夕立の匂い。

 浴槽からのぼる湯気。

 雲から覗く三日月。

 寝る直前のふわふわした感覚。

 ぜんぶ、ぜんぶきれいだ。

 でも、それを言葉にしてはいけない。

 口を閉じて、感じたままの思いを躰のなかで巡らせる。きれいなもの、うつくしいものにそっと手を伸ばし、水草についた気泡を吸い込むようにわずかに口を開ける。小さな泡が割れないように気をつけて、それで肺と胃袋と脳を、躰を満たす。言葉にできない、キラキラと輝くもので心をいっぱいにする。

 呼吸のたびにその燦めきは薄れてしまう。

 だから、できるだけ言葉を発さないようにするのだ。

 言葉にするとその輝きは泡沫となって弾けてしまう。口に出した言葉は空気に触れて劣化する。伝わるはずの波紋はどこかでかき消されてしまう。

 限界がないはずの思いは言葉という額縁の内側に囲い込まれて、四角形の水槽の中でしか生きられなくなってしまう。

 もし、躰のなかのうつくしいものが全て消費されてしまったら。きれいなものが躰のどこにもなくなってしまったら。

 それは怖い。

 きっと、無意味なことばかり話す人間になってしまう。

 べらべらと無駄な言葉を並べるつまらない大人になってしまう。

 それは、怖い。

 だから言葉が溢れる海の底でひとり、わたしは孤独に耳と口を塞いで、自分の底を覗きこまないようにして生きている。


 教室で一番窓側の列の、後ろから三番目がわたしの席だ。

 春は校庭のはじっこに咲く桜を眺めて、夏は高く昇る入道雲ばかり見ていた。

 二学期の始業式。窓から見える木々の葉がまだ青々としていた頃。うちのクラスに男の子が転校してきた。

 名前は清水くんという。

 彼は自己紹介で一言、「海の町から引っ越してきました」と挨拶した。

 この街から海は見えない。彼はとても遠い場所からやって来たのだろう。

 一学期の途中で転校した女の子が座っていた席が清水くんに与えられた。偶然にもその場所はわたしが座る一つ手前の席だった。

 転校生という存在と海の町という響きは、クラスメイトたちに興味を持たせるのに十分だった。最初の三日間は自分の席がここにあるという状況を呪い、それからの一週間は物珍しさに集まるクラスメイトを心のなかで軽蔑し、次の一週間は根気よく話しかける一部の人々を追い払うかどうかを真剣に迷って、さらに二週間と少し。転校生という特別感はすっかり薄れて、わたしの席のまわりは平穏を取り戻した。

 清水くんは無口なひとだった。

 板書を写す様子はなく、授業中は窓を見てどこか遠くを見る目をしているか、ノートのすみっこに何かを書いていた。

 

 予鈴のチャイムが鳴った。

 窓の外で鮮やかな色に染まった木が揺れている。

 透明な窓ガラスを指でなぞる。その横顔を秋風が撫でた。

 同級生たちが廊下から戻ってきた。わたしのすぐ近くを通りがかる。そっと息を止めていると、近くの窓が微妙に閉まっていないことに気づいた。

 立ち上がって窓を閉めに行く。それから席に着こうとして、わたしの机の下に白い紙が落ちているのを発見する。

 わたしはそれを手に取った。

 さっき配られた歴史の授業のプリント。穴埋めのほとんどが空欄で、一番下に小さい字で清水くんの名前が書いてあった。

 窓の隙間から忍びこんだ風に吹かれて落ちてしまったのだろう。席のうえに返しておこうと何気なく紙を裏返した、わたしの手が止まる。

 プリントの裏には海が描かれていた。

 知らない風景。見たことのない海。

 それはどこかの港。コンクリートの堤防が無機質に横たわり、小さな灯台が背伸びをしている。さざなみ立つ波は消波ブロックにぶつかって砕け、空は晴れ晴れと広がっていた。

 A4のキャンパスにはシャープペンシルの黒と普通紙のくすんだ白しかないはずなのに、この絵には青があった。

 緻密な描きこみが現実を凌駕する感覚。この世界を瞬きひとつで塗り替えてしまいそうで思わず息を呑む。手にした海に溺れてしまわないように、わたしは目を瞑る。

 寄せては返す波の音が聞こえた。

 どこか生温かい風がわたしの髪を揺らす。鼻の奥に届く潮の香り。恐る恐る目を開けると、藍の海が白波立つ様が見えた。

 澄みわたる青空の下、灰色のコンクリート。誰もいない堤防にわたしはひとりで立っていた。

 陽射しが強い。手でひたしをつくり見渡してみると、近くに赤色の灯台が見えた。

 堤防の上で陽炎が立っている。ゆらゆらと揺れる風景はどこか幻想的で儚い。

 見たことのない景色をわたしは歩いている。それはとても美しい光景で、噤んだはずの口から音が漏れた。

「……きれい」

 そう呟いた瞬間にその世界は弾け飛んだ。

 耳の内側に残る波音を本鈴のチャイムが容赦なく拭い去る。照りつける太陽と揺れる青は跡形もなく消え失せて、わたしの目の前には無表情の清水くんが立っていた。

 あっ、その、と勝手に動きそうになった口を必死に両手で塞いで、わたしは清水くんにプリントを返してから謝罪の意をこめて深々と頭を下げる。彼はそれをつまらなそうに受け取って、小さく折りたたんで鞄に放りこんだ。

 めまいがした。わたしは崩れ落ちるように席に着く。

 言葉にしてしまったからだ。

 あの美しさを殺めたのは、わたしだ。


 夕日射す放課後の廊下。

 運動部の練習の声が遠くから聞こえた。

 先生からの頼まれ事を終えて、わたしは鞄を取りに教室へ向かっていた。

 美術室の前を通りがかって足を止める。クリーム色の壁に生徒が描いた絵がいくつか展示されていた。

 見ただけで描いてあるものがわかるものから、なにが描かれているのかよくわからないものまで、十作品ほどが掲示されている。上の方を見ると、小さく「美術部員の作品」と書かれていた。

 急に興味を失ったわたしが歩きだすと、美術準備室の扉が開いていることに気づいた。

 普段は施錠されているはずの扉。どんな部屋なんだろうと惹かれて、息をひそめたわたしはそっとなかを窺う。

 最初に感じたのは絵の具のにおい。窓は暗幕で締め切られて、その隙間から夕闇が洩れるように床を照らしている。暗い室内にいくつもある棚には無造作に美術道具が詰めこまれていた。

 わたしは一歩踏み出す。

 薄暗くて狭い部屋。中央に置かれた木製のイーゼル。そこに、一枚の絵が置かれていた。

 近くの椅子の上には絵の具が出されたままのパレットと筆。

 描き途中の水彩画。それを見て、わたしは目を見開いた。

 描かれているのは教室の窓から見た風景だ。手前に校庭があり、左端には旧校舎が、その先は街並みが広がり、奥の方にうっすらと山が見えている。そのどれもがどこまでも忠実に描かれていた。

 上手、なんてもんじゃない。これは……そう、わたしが教室の窓から毎日眺めている景色そのもの。この絵はわたしの席から撮った写真だと言われても見まがうくらい、恐ろしいほど写実的で正確だった。

 わたしが見ている世界。それが、こんなにも美しく。

 思わず息が止まりそうになる。

 言葉にしたら、形にしたら、美しさは鮮度を失ってしまうと。そう強く思っていたのに、これは。

 この絵は、美しさそのものだ。

 ここに描かれた美は死んでいない。見える景色を空気ごと、ボトルシップのように閉じこめて、それでも窮屈さは感じさせず、どこか生き生きとした印象があった。

 わたしは美と相対している。

 その凄まじさに手が震える。ごくりと唾を飲みこんだ瞬間、背後で物音がした。

 素早く振り返る。そこには、筆洗を片手にぶらさげた清水くんが立っていた。

 清水、くん。心のなかでそう呟いて、わたしは居心地悪さのまま立ち尽くす。

 彼は片眉を上げてわたしの姿を認め、なんでもないように近くの机に手にした筆洗を置いた。

 なにか……言わないと。口をぱくぱくさせるわたしを見て、清水くんは興味なさそうに筆を取った。

「つまらない絵、見せてわるかったな」

 そんな、こと。勢いのままわたしは口を開く。

「そんなこと……ない。上手だし、美しい」

 ぶくぶくと、わたしは無意味な泡を出す。

「……美しい?」

 清水くんの動きが止まる。乾いた声。

 わたしの発言が癇に障ったのだろうか。

 それは、そうだ。この美しさをわたしは言葉にしてしまった。

 歯を食いしばりわたしは自らの行いを反省する。

「こんなもの、美しくもなんとも――」

 わたしのすぐ近くに立つ清水くんが激情のままに筆を振りかぶる。ほとんど反射的に、彼の手を掴んだ。

 絵の具がついた筆。それが作品に振り下ろされる直前。わたしは清水くんの右腕を両手で押さえていた。

 邪魔するな、と言わんばかりに清水くんの腕に力がこめられる。わたしは離さない。もはやどっちも意地だ。

 それでもわたしの力が押し負けて、彼の腕が自由になる。筆が揺れた。あっと思った瞬間、筆の先の絵の具が水滴となって宙を舞う。いくつかの雫がわたしのセーラーの上に落ちて、白い布に深緑の染みがにじんだ。

「っ……ごめん」

 清水くんが気まずそうに目を逸らした。

 わたしはなにを言うべきか迷って、結局黙ってしまう。そんな様子を見かねたのか、清水くんは白い布を水に濡らして差し出した。

 ありがとう。それすら言えなくて、わたしは小さく頷いて受け取った。

「……俺の絵はよく写真みたいに上手だと褒められる。自分でもそう思う。まるで写真のようだって」

 少し離れて椅子に座る清水くんは描き途中の絵を見つめる。

「でも……だったら、俺の描く絵に価値なんてない。一説では人間の目の画素数は七百万。それをゆうに超える画素数のデジタルカメラも最近じゃ珍しくない。……俺の絵は写真に劣っているのさ」

 清水くんが寂しそうに笑った。

 なにか、なにか言わないと。

 ゆっくりと息を吐いて、わたしは自分の躰に語りかける。

 大丈夫。わたしはあの絵を見た。きれいなもの、うつくしいものを受け取った。……だから。

 わたしは赤いスカーフを掴んだ。

「それでも。この絵は……この絵も、美しい。わたしはそう、思ったから」

 この手に握りしめたのは勇気。たとえ腐り落ちてしまうとしても。嘘になってしまうとしても。

 美しいと感じたものを穢してしまうかもしれない。それは嫌だ。でも――美しいと思ったこと、そのものを否定する方が、もっと嫌だ。

「この絵、も? ああそうか、この前。ええっと……」

 清水くんがこちらを見て首をかしげた。

「柏木。柏木みなも」

「柏木はあの絵を見たんだったな」

「あの絵も、きれいだった」

 先手を奪うようにわたしは呟く。

「あれは……ただの海だ。俺の絵は写真の紛い物。この絵が美しいと思えるのは何度も教室からこの風景を見ているからで、その思い出が重なってそう錯覚しているだけだ。あの落書きも柏木が以前海に行った経験があるからこそ綺麗に見えた。そんなもんだ」

 わたしは首を横に振る。

「海に行ったこと、ない」

「だったらドラマや映画で綺麗な海を見たんだ。芸術が自然の先に立つはずがない。……少なくとも俺の作品ではそんなこと、絶対にありえない。あの絵に描いたのも、ただの堤防だしな」

「でも、」

 あの絵を褒める適切な形容詞が見つからないので、とりあえずきれいだと繰り返そうとしたところ、清水くんは片手を上げてそれを遮った。

「あー、わかった。だったらきっと、柏木はあの海を綺麗だと感じたんだ」

 わたしは納得いかないという風にふくれる。そんなわたしの顔を見たのか、清水くんはもどかしそうに頭をかいた。

「なら……見に行ってみるか?」

「……え?」

「あいにくと馴染みの場所だ。ここからもそんなに遠くない。そんなに言うんだったら、今度連れてってやる」

 ぽかんと口を開けたわたしに、彼はそう告げた。


 日曜日。わたしは清水くんに誘われて、彼と二人で電車に乗っていた。

 待ち合わせの駅から何本も乗り継いで数時間。乗り換えるたびに電車の長さが短くなって、車窓から見える風景も今ではすっかり緑一色だ。乗っているお客さんもわたしたちを除けば数人で、運転手さんもひとりだけ。レールを踏む音だけが単調に響いていた。

 わたしの目の前には清水くん。向かい合わせの席に座って、彼は教室にいるときとおなじように、つまらなそうな視線を窓の外に向けている。わたしも彼と話すような話題を持っていなかったので、この電車に乗ってからは一度も会話をしていない。けれどその沈黙は耐えがたいものではなく、どこか心地よさを感じていた。

 時刻は午後一時半。これが最後の乗り換えだと聞いていたので、目的地まではもう少しのはずだった。

 わたしたちが向かっている先は、以前清水くんが描いていた海の絵とモデルになった場所だ。なにもない所だとは聞かされていたが、わたしとしてはあの海とその風景に興味があったので特に気にしてなかった。

 下げられた窓から吹く風がわたしの頬を撫でる。秋晴れの暖かい日だったが、外からの風と、電車の天井で回っている小さな扇風機だけでじゅうぶん涼しかった。

 不明瞭な車内アナウンスが流れた。

 清水くんが立ち上がり、網棚から自分のデイパックを下ろす。

 彼は座り直し、短く「次だ」と告げた。

 つぎ。でも、窓から海なんて全然。そう思っていると、突然手前の森が途切れ、すぐ近くにキラキラと輝く海が目の前に広がった。

 ……わあ。

 わたしはその風景に釘付けになる。

 これが……海。

 近づいていないのに海面が揺れているのがわかった。それはまるで、生きているみたいだった。

 電車のスピードが落ちる。小さな港町が見えて、列車は簡素なつくりのホームへと滑りこんだ。


 清水くんの案内で海のそばまで来た。

 そこには堤防があって、近くに赤い灯台が見えて、足下で波が揺れていた。

「なにもない場所だろう? ……引っ越すまでこの小さな町に住んでたんだ」

 それはつまり、清水くんが毎日見ていた海。

 わたしが見た、あの絵。そこに描かれていた、海。

 その場所に、わたしはいる。

 天の青はどこまでも空高く、蒼い海も負けじと遙か遠くまで広がっている。

 ああそうか、とわたしは手をかざす。

 空の色は薄く伸ばした青で、海の色は塗り重ねた青。

 きっと、使ってる絵の具は一緒なんだ。

 小さく笑う。

 潮騒が気持ちいい。目を閉じると、全身が海に包まれているような心地がした。

「わたし、ここが好き」

 波にのせて、わたしは呟く。

 ここだったら、きっと。太陽の輝きが反射する、ここなら。

「手を伸ばしても腐らない。口にしても壊れない。触れる。言葉にできる。ここは、美しさが生きている!」

 わたしは大きな口を開けて叫んだ。

 空は丸く、海は平たく。ふたつの青が重なり、水平線をつくる。

 空のすみには白い雲、かすれるように浮かび、海のはじには白波、溶けるように消えて。

 堤防は両の青を分かつように延び、赤の灯台は空に手を伸ばすように。

 そらの空気とうみの匂い。

 波の音と潮の味。

 いっぱいに、この場所を満たして。

 見て、触れて、嗅いで、聞いて、味わって。

 ここは、美が生まれる場所。

 ここは、美が死ぬところ。

 起源と終焉。

 根源と果て。

 その渦の中心に、わたしは立っていた。

「柏木はここが好きなんだな」

「清水くんも、でしょう?」

「俺は……別に」

「でも、この海を選んで描いた」

「意味なんてない。ただ、この風景をよく見てたから描いただけだ。俺の絵は写真だ。別に選んでるわけじゃない」

「ううん。選んだの。写真も絵も同じ。撮りたいなと思うから撮る。描きたいなと思うから描く。それは心が、動かされたから」

 わたしの話を聞いて、清水くんが微かに笑った。

「ともかく、柏木がこれだけ喜んでいるのならよかった。写真のような俺の絵だが、本物の美しさへの水先案内くらいならこなせるんだと自信になった」

「それは、違うよ」

 振り返って彼の顔を見つめた。

「あの絵も、この場所も、そのほかのものも。どれも美しくて、綺麗。そこに差はないの」

 わたしはにこりと笑う。

「わたしが美しいと思ったの。それ以外に、理由なんていらない」


 清水くんと近くの駅で別れて。小さな冒険を終えて、夜。

 自分の部屋。電気を消したベッドの上。

 わたしは清水くんから貰った、小さく折りたたまれた紙を広げる。

 月明かりにかざす。

 それは、海。あの海の絵。

 あの堤防で、わたしは美を前にした言葉の無力さについて、思っていることを清水くんに話した。

 きっと、あの場所だから、あの瞬間だから言えた。

 清水くんは黙ってわたしの話を聞いていた。そして、別れる寸前。彼はわたしにこの絵を渡してくれたのだ。

『あの海を、この絵を美しいと感じるのなら。これはきみに』

 そっと紙を置いた。

『それと、海の音が好きなら……』

 わたしは両手を広げる。

『手のひらで両耳をふさぐように押さえる。それから目を閉じて、ゆっくり深呼吸。これをできるだけ静かな、暗い場所でするんだ』

 目を瞑り、耳に手をあてる。それから、ゆっくり深呼吸。

『そうすれば――』

 海の音が、聞こえる。

「深海の、音……」

 光の届かない、青を重ねた闇で聞こえる、音。

 美しさの果てにあって、人間が到達できないはずの場所。

 海底に、わたしはいた。

 水のなかのはずなのに呼吸ができる。

 海のなかのはずなのに言葉が使える。

 ああ、ここは……。

「なんて、きれいな場所……」

 美しさが溢れるうなそこにてひとり、わたしは耳を塞いで、自分の底を満たすように生きている。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海底より かおる @ka0ru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ