番外編
別れのエチュード
貴女はいつだって突然で、私の心を簡単に乱してくる。
久しぶりに来た貴女からのメールを開き、私は小さくため息をついた。
梓へ
これからウィーンに行ってきます。色々とごめんなさい。
これほどシンプルな文面なのに、貴女の顔がすぐに浮かんだ。
楽しそうに笑った顔。悲しそうに泣いた顔。悔しそうに下を向いた顔。
そんな貴女は、このメールをどんな表情で打ったのだろう。
大好きな貴女。
今は遠く、ただ懐かしいだけの日々。
あのときのことを、彼女はまだ覚えているだろうか。
未練というには熱をもちすぎているこの想い。
届かなかった想い。
それを貴女は、こんな一行のメールだけで終わらせようとしている。
その冷たさが、私はいまでも愛しい。
はあ、とため息をついて、窓の外の風景を眺める。
細かい雨で曖昧になった街。
貴女と出会った街。
貴女と一緒になれなかった街。
私は携帯を操作し、優海に電話をかける。
「……梓先輩?」
「ごめんなさい優海。ちょっと調べてもらいたいことがあるのだけれど」
「はい。なんですか?」
「今日のウィーン行きの飛行機の出発時間を」
つくづく私は甘い。貴女のことを好きな女のために行動するのだから。
これが惚れた弱みなのかしらと笑みをつくって、私はクローゼットを開けた。
貴女と初めて出逢ったのは、春の桜の下だった。
あの頃の貴女はもっと暗くて、もっと鋭かった。
自信の無さそうな顔で吹いたフルート。
その一音で、私は貴女の虜になった。
昔から天才だと言われ続けてきた私が唯一、貴女にだけは勝てないと思い知らされた。
貴女の演奏がどうしても聴きたかった。吹奏楽部内を引っかき回してまで、私は貴女がフルートを吹くために動いた。
いつかの夜。私に背を向けた貴女から、以前はウィーンでフルートを習っていたことを聞いた。
誰かとトラブルになったのか。音楽と喧嘩をしたのか。
それで貴女は、逃げるように世間から離れた花菱に来た。
詳しいことは聞いていない。ただ、いつも決まって同じ銘柄の煙草に火を着けて、吸おうともせずに、そのにおいに溺れながら遠い目をしている姿を見て、過去になにかあったのだと私は悟った。
「私が貴女のために最高の舞台を用意してあげる」
そう私が言い放って参加したコンクールが原因で、貴女は私から離れた。
それでも、私は貴女が戻ってくる場所として、人数の減ってしまった吹奏楽部を守っていた。
そんなとき、あの子が貴女を連れてきた。
あの子を見る貴女の目を見て、私はすべてを理解した。
私が辿り着けなかった、貴女の隣という居場所。
そこにあの子がいた。
悔しいなんて言ってあげない。憎いなんて言ってあげない。
ただ、あれだけ私を拒んだ貴女があの子に笑いかけている姿だけは、私の心を揺さぶってきた。
私の心を乱すのは、いつだって貴女だけだ。
「わかったわ。優海、ありがとう」
優海が調べてくれた飛行機の便をメモに書いて、私はお礼を言った。
「いえ、先輩のためですから」
「そう」
「先輩、ウィーンに行かれるんですか?」
「私じゃないわ。凛よ」
「八重樫先輩が!? あの……先輩、」
声の調子が変わったのを聞いて、私は遮るように言葉を告げる。
「急ぐから切るわね」
電話を切って、私はすぐに貴女に電話をする。
……でない。
出られないのか、無視をしているのか。続いてあの子に電話をかけるも、こちらも繋がらなかった。
貴女の性格は嫌というほど知っている。貴女はあの子にウィーンへ行くことを告げてない。
顎に指を当てて考えこもうとすると、携帯が震えた。
「はい」
「こんにちはー。二条さん」
間延びした声。電話をかけてきたのは貴女でもあの子でもなく、管弦楽部部長の西御門さんだった。
「西御門さん。なにか?」
「いえいえー。ちょっと気になることがありましてー」
「はい?」
「さっき、私が駅である人を見かけたんですけどー」
ゆったりとした話し方。それでいて私と同じくらい切れ者の
「八重樫さんみたいな人が、まるで海外旅行に行くくらいたくさんの荷物を持ってましてー」
私は一瞬息を止め、それからどの駅で見たのかを訊いた。……なるほど、あのアパートの最寄り駅ね。
丁寧なお礼を言って電話を切った。
私は外套を羽織り、下の階にいるメイドに車を回してもらうように頼んだ。
車の後部座席に腰かけ、私は窓の外をぼんやりと見ていた。
優海が調べてくれた飛行機は全部で四便。東京まで行ってそこからウィーンに行く二便、ここから別の空港を挟んでウィーンに行く乗り継ぎ便と直通便が一便ずつ。
面倒なことが嫌いな貴女が選ぶのは近くの空港から飛んでいる直通便だ。
それくらい、すぐにわかる。
腕時計を見る。タイムリミットまであと数時間。私は少し考えて、蛍に電話した。
「もしもし。蛍?」
「梓? どうしたの?」
電話の奥から車のエンジンのような音が聞こえていた。私は眉をひそめ、口を開く。
「車に乗ってるの?」
「ああ。実は愛の逃避行中なんだ」
そういえば、自動車の免許をついこの間取得したと蛍が言っていた。完全に校則を無視した行動だったが、今はそれが好都合だ。
「ドライブデート中にごめんなさい。ひとり、送り届けて欲しい人がいるのだけれど」
「いいよ。どこで拾えばいい?」
私は場所を伝えた。
「はいはい。ちなみに誰を乗せれば?」
私はあの子の名前を言わずに、貴女がウィーンに行くことを伝えた。
「凛が!? ってことは綾乃ちゃんか……」
電話の向こうからした、秋子先生の「八重樫さんが?」という声は聞かなかったことにする。蛍の手が早いのは今に始まったことじゃない。
蛍の反応からして、彼女もウィーン行きを知らなかったのだろう。そうなると、やはり私だけに伝えてくれたのか。
自然と綻ぶ唇を、わたしはぎゅっと結んだ。
「頼んだわ」
「ひとつだけ余計なことを聞くよ。なんで梓が逢いに行かないの?」
「……私には資格がないから」
「まさか。きみは資格があるのに、行使してないだけだ。……いい女になったね、梓」
優しい声をつくった蛍に私は薄く笑う。
まったく。この猫なで声に何人の女子が犠牲になったんだか。
「寂しそうな女性にそんな声を聞かせる貴女も、十分いい女よ」
「わお。これは藪蛇。……うん、わかった。梓、つらいことがあったらまた電話してきていいからね」
「ええ、さようなら」
電話を切ると、ちょうどあのアパートに着いた。
このアパートは貴女のお母さんが一時的に泊まる部屋として使っていたと聞いた。
今でも鮮明に覚えている、あのベッドだけの空間を思い出しながら、私はインターホンを押した。
その部屋に、今はあの子が泊まっている。
見せる相手もいないのに肩をすくめて、あの子の携帯に電話をかけた。
しばらく待って出てきたあの子は、貴女の煙草のにおいがした。
……そう。貴女はあのことまで、この子に話したのね。
私だけが知っている貴女のことを、目の前のこの子はどこまで知っているのだろう。
そう訊いてみたい気持ちを必死に押し殺して、私は用件だけ告げて背を向けた。
アパートの階段の下に寄りかかり、私はあの部屋から聞こえる慌ただしい足音に耳をすませた。
『なんで梓が逢いに行かないの?』
私だってそうしたかったわよ、と叫んでみたくなる。
この雨だ。大声で叫んでも、貴女には届きそうにない。
それでも、私は貴女の笑顔のために全力をだしてみせる。
コンクールの後で、貴女の涙を見たときに、私はそう誓ったから。
傘も持たないで走っていくあの子を見届けて帰ろうとしたとき、携帯が震えた。
「梓先輩。……今大丈夫ですか?」
優海だ。さっきより決意の固い声の調子。私は少し迷い、唇を上げて返答した。
「……ええ。どうしたの?」
「先輩がこの前、行きたがっていた洋菓子店にこれから行きませんか?」
「これから? 突然の誘いにしてはずいぶん具体的ね」
「えっと……その、さっき予約したので……」
「そう。行くわ。何時に待ち合わせましょうか?」
「一時間半後に駅でどうでしょう」
それくらい後だったら、この顔も少しはましになってるだろう。後輩にそこまで計算させた自分に少しだけ嫌気がさした。
「わかったわ。その時間で。……優海、ありがとうね」
「いえ。先輩のためですから」
それから少しだけ話して、私は電話を切った。
顔を上げると、雨は雪に変わっていた。
残念。思いっきり雨に打たれたい気分だったのに、天はそれすらゆるしてくれないなんて。
私はアパートの階段をのぼり、あの部屋の扉の前に来た。
ポケットで握りしめた、この部屋の合鍵を出す。
いつか使うかもと思ってとっておいた、私だけの宝物。
あの子のあんな顔を見たら、これを持っているのが急に馬鹿らしくなってしまった。
私にはもう、いらなくなってしまったから。
貴女へ最高の笑顔をつくって、鍵を扉についた郵便受けに返した。
私は二度と来ることはないあの部屋に背を向けて、空を仰ぐ。
貴女はいつだって突然で、私の心を簡単に乱してくる。
そんな貴女が、私は今でも大好きだ。
過去形になんてしてあげない。
だからさっさと、勝手に幸せになりなさい。
精一杯の虚勢を張りながら、私は雪の中を歩き出した。
了
――梓弓(あずさ ゆみ)引けど引かねど昔より
心は君によりにしものを
(伊勢物語・24段より)
美しく青き かおる @ka0ru
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