春のさかり。

 浅い眠りから目覚めると、円い窓から澄んだ青空が見えた。

 淡い青色の絵の具をたっぷりの水で薄く伸ばしたような空。

 わたしはあくびを手で隠し、時刻を確認するために携帯を開いた。

 画面には寝る前に確認した、藤花からのメールが表示されている。改行の少ない文字だけの文面。それを読んで、わたしは小さく笑う。

 まったく。藤花は心配性なんだから……。

 携帯をしまい、わたしはバッグから手紙の束を出した。

 何度も読み返した凛さんからのエアメール。彼女から届いた一通目の手紙の冒頭には、こう書いてある。

  綾乃へ

   こんにちは。私は今、ウィーンにいます。

 凛さんからの初めての手紙には、ウィーン国立音楽大学に入学したという報告が簡単に書かれていた。

 これが届いたのは高二の秋。ウィーン音大は秋入学らしいので、彼女は向こうに渡って最初の入学試験で合格したことになる。

 世界最高レベルの音楽大学。凛さんはそこに、半年ばかりの練習で入学したのだ。

 天才。そんな平凡な二文字で片づけられないほどの彼女の才能の片鱗をみせつけられた。

 空港で彼女を見送ったあの雪の日。

 あれから、二年の時が流れていた。

《当機はまもなくウィーン国際空港に着陸いたします――》

 わたしは手紙をバッグの中に戻してシートベルトをしめる。

 高校三年生の春休み。親に何度もお願いして手に入れた三日間。

 約束通り、わたしは凛さんに逢いに来た。



 空港から電車に乗り、ウィーン市内のとある駅で降りる。

 日本から持ってきた地図を頼りに橋を渡ると、大きな公園が見えた。

 目的地はここだった。

 静かな公園をわたしは歩く。緑豊かな木々のすきまから古い街並みが覗く、雰囲気の佳い場所に感じられた。

 少し歩くと人が集まっている場所がある。なんだろうと遠くから目を細めると、ピンク色の花が咲いた木が見えた。

 どこか馴染みのある景色。不思議に思って近づくと、それは満開の桜だった。

 まさか、ウィーンで桜を見ることになるなんて。

 予想外の出来事にわたしは笑みをこぼす。

 やさしい風が吹いて、桜の花びらが空に舞った。

 凛さんとチャペルで再会したあの日。あのときはすでに桜は散っていた。

 それから一年を過ごして、空港で別れたのが冬の終わり。思えば、凛さんと一緒の春はこれが初めてということになる。

 ウィーンの市内にある公園。ウィーン音大からも歩いてこれるこの場所で、凛さんはよくフルートの練習をしているという。

 川に沿ってのんびり歩いていると、ふいに白い岩でできた彫刻が見えてくる。

 その中央には、黄金に輝く人の像。ヴァイオリンを弾いているその人物はわたしにもなじみのある大音楽家。名前はヨハン・シュトラウス二世。――『美しく青きドナウ』の作曲者だ。

 その像の近くのベンチにひとりの女性が座っていた。

 すらりとした細身の後ろ姿。肩にかからないくらいの長さの黒髪。そこからうなじを覗かせて、白のブラウスにジーンズの彼女は金色のフルートを横に構えている。

 少し髪が伸びただろうか。最後に聴いたときより何倍も磨かれた透きとおった高音が聞こえてきて、わたしは思わず走りだした。

 キーを押さえる細い指。音を楽しむように動く躰。

 愛しい貴女を後ろから抱きしめて、わたしは大きく息を吸った。


 ――わたしたちの春は、ここからはじまる。







     美しく青き 了

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