冬の終わり。あるいは、――。

 窓を打つ雨音でわたしは目を覚ました。

 外が少しだけ暗くなっている。微かな頭痛とともに躰を起こしたところで、隣に凛さんがいないことに気づいた。

 寝ぼけ眼であたりを見回す。アパートの小さなワンルーム。彼女がこの部屋にいないことはすぐわかった。

 出かけているのだろうか。

 あくびをひとつ、誰も見てないのに口を手で隠しながら、わたしはベッドから出た。

 さすがに裸では肌寒い。ベッドのすぐ下の畳んでおいた服を広げ、ブラウスを羽織ったわたしは時計を見る。

 寝てしまったのは二刻ばかりだろうか。止むだろうと思っていた雨もまだ降り続いていた。

 半覚醒した頭で部屋を歩いたところ、隅の方に置かれていたはずの凛さんの荷物がなくなっていることに気づく。

 なにか急用でもあったのだろうか。そう思って携帯に手を伸ばしたところで、呼び鈴が鳴らされる音がした。

 ……誰?

 この場所はわたしと凛さんしか知らないはず。訪問販売とかだろうか。

 無視しようと決めたところで二回目が鳴らされる。だるい躰で面倒くさいと思いつつ、わたしはこの服装のまま玄関まで歩いて行き、のぞき窓に目をあてた。

「……!?」

 ドアの向こうに立っていたのは二条部長。……なんで、この場所に部長が?

 不思議に思っていると、手にしたわたしの携帯に着信が来た。ハテナマークを浮かべながらその電話に出ると、部長の声が聞こえてくる。

「和泉さん。そこにいるわね?」

「え、あ、はい……?」

「話したいことがあるの。ちょっと出てきてもらえる?」

「はあ……、わかりました」

 意味がわからないまま電話を切り、とりあえずわたしは部屋に戻ってスカートを履くことにした。

 髪だけは梳かしてから、わたしは玄関のドアを開けた。

「部長……? あの、どうかされたんですか?」

 真剣な顔をした部長にわたしは首をかしげる。彼女は傘を差したままだったのでとりあえず部屋の中に入るように勧めてみたが、断られてしまった。

「凛は中にいる?」

「いいえ、今は多分出かけてると思います。……えーっと、ごめんなさい。ちょっと状況がわからないんですが、凛さ……先輩に言われてここにいらっしゃったんですか?」

 部長はわたしの質問には答えず、黙って腕を組んだ。

「そう。――八重樫凛はウィーンに行ったわよ。おそらくね」

「――えっ!?」

 いきなりそんなことを言われても意味がわからない。なにも、なにもわからない。

 混乱する頭のなかで、それでも真剣な眼差しでわたしを値踏みするように見ている部長の言っていることは真実なのだろうな、という直感があった。

「先輩が……、ウィーンに……?」

 腕を組んだ部長は一度だけ頷いた。

 薄着のわたしには外の風が冷たい。けれどそのおかげか、わたしは少しずつ頭が覚醒しつつあった。

「……どうして部長はそのことを知ってるんですか?」

「そんなこと、今はどうだっていいでしょう?」

「そんなこと、って! わたしには――」

 部長は大きな声を上げようとしたわたしに迫り、不機嫌そうに口を開いた。

「黙って聞いて。凛は今日午後のウィーン直行便に乗るつもりよ」

「……部長はなんで、それをわたしに?」

「いま追いかけたら間に合うかもしれないから。別にどうだっていいのだけれど、恋した女の尻尾くらい、つかまえてみなさいよ。……じゃあ、伝えたからね」

 部長は言いたいことだけ言って、わたしにくるりと背を向けた。

 ウィーン。凛さんが。わたしに何も言わずに?

 混乱した頭のまま、わたしはドアを閉めた。

 なんで? どうして部長が?

 薄暗い部屋に戻り、わたしはひとりで考えこむ。そういえば、今日は珍しくフルートをケースごと持ってきていたような……?

 部屋をぐるぐると歩きながら考えていると、先輩の荷物があった場所になにかが落ちているのが見えた。

 ――まさか、これって……!

 それは初めて凛さんと出かけたとき、わたしが彼女にプレゼントしたフルートのキーホルダー。チェーンが切れたわけではなく、表面が見えるように、まるで意図的に置かれている――。

 それを見て、わたしはすべてを理解する。凛さんが浅い眠りにつきながら涙を流していた理由。起きたら先輩の荷物がなくなっていた理由。このキーホルダーを残していった理由。

「凛さん――」

 彼女は、わたしに何も言わずにウィーンに行くつもりだ!

 急いで時計を確認する。部長と話してから約十分。残り時間はどれくらい? どうする? どうすればいい? ……ああ、もう!

 考えがまとまらない。とにかく、頭だけじゃなくて足も動かさないと!

 最低限の荷物だけを入れたバッグを手に、わたしはアパートから飛びだした。



 冷たい雨が降っていた。

 もう冬も終わりだというのに、今日の雨はまるでつららのようにわたしの肌を突き刺してくる。

 急いでいるからと傘を持ってこなかったのは失敗だった。走り始めて数分後、震えだした躰を抱えたわたしはそう悟る。

 濡れた地面に滑りそうになりながら、白い息を吐いて交差点を曲がった。

 目指すは駅。そこから電車に乗るか、タクシーを拾うか。

 とにかく駅に行かないと始まらない。普通に歩いたら二十分くらい。走ったら――あと十分で着くはず!

 通行人の奇異の目なんて気にせずに、わたしは全速力で走る。

 スニーカーを履いてきてよかった。水を吸って重くなっているけれど、ヒールよりはましだ。

 赤信号。ドリフトするように横断歩道の前で止まり、わたしは膝に手をあてて、少しでも呼吸を整える。

 息なんかとっくに切れていた。服が濡れて肌に貼りついている。さっきから悪寒が止まらない。――でも!

 顔を上げると、やけに寒いわけがわかった。ああ……。

「……ゆき、だ」

 雨はいつしか雪に変わっていた。

 そう認識した途端、今まで耐えれていたはずの寒気も急に増したように感じられて、震える両脚はこれ以上一歩も進めなくなってしまう。

 青信号が灯った。

 わたしはもう動けない。しゃがみこむことも忘れて、ただ灰色の空を仰ぐ。

 この空から、凛さんは飛んで行ってしまうのだ。

 雪。小さな頃は嬉しかったはずなのに、今はただ、この白が憎い。

「――綾乃ちゃん!」

 誰かの声が聞こえた。凛さんのものじゃない。

「ちょっ――綾乃ちゃん!? こんなところに立ってたら風邪ひいちゃうって!」

 誰かが車から降りて、わたしに傘をさした。肩を揺すられて、わたしはその人物を見る。

「あ……、けい……せんぱい?」

 どうしてこんなところにいるんだろう。

 蛍先輩は手にしたタオルでわたしの躰を拭き、それから手を引っ張ってわたしを車の中に押しこむ。抵抗する気は起きなかった。

 車内は暖房が効いていて暖かかった。

「大丈夫、和泉さん?」

 運転席に座った女性が振り返ってわたしに微笑みかけた。

「え……? 秋子先生……?」

 どうしてふたりがこの車に?

 そんなことを考えていると、びしょ濡れのまま車のシートに座ってしまっていることに気づき、わたしは慌てて腰を浮かす。

「あ、あの、ごめんなさい! わたし――」

「大丈夫。落ち着いて綾乃ちゃん。ね、どうしたの?」

 わたしの髪を拭きながら、蛍先輩はやさしい声色で語りかけてくる。

「あの……その……」

「うん」

 彼女のやわらかな瞳を見て、わたしは重い口を開く。

「なんか……凛さ、……八重樫先輩がこれからウィーンに行っちゃうみたいで、けどわたしはそれを知らなくて、すごく嫌で、それで……」

「ウィーン……ってことは飛行機かな?」

「は……はい。それで、どうしても空港に行きたくて……」

「うん、うん。そっか。――秋子さん?」

「はいはい。空港でいいのね?」

「え……? あ、はい」

 わたしが頷くと、秋子先生の運転する車が動き出した。

「あ、あの……?」

 この車はどこに向かっているんだろう。そう思って蛍先輩の顔を見ると、彼女はこちらを安心させるように、にっこりと笑った。

「何時発の便なのか知ってる?」

「……いいえ。あ、でも、直行便って……」

「そっか。秋子さん、空港って――」

こっちのが速いわ」

 短い言葉で委細が伝わったのか、車のスピードがぐんと上がる。

「あの……蛍先輩?」

「伝えたいことがあるなら、伝えられるうちに、ね。……そうしないと、いつか絶対に後悔するから」

 それきり蛍先輩は黙ってしまった。



 空港の、ターミナルに一番近い停車場。

 わたしはふたりにお礼を言って車を降りる。どこに行けばいいかなんてわからないまま、とりあえず目の前の建物に入った。

 人の流れに沿って早足で進むと、広いロビーで大きな電光掲示板を発見する。

 出発便の案内が一覧で表示されている。そのなかで、わたしは「ウィーン」の四文字を探す。…………あった!

 搭乗口の番号を覚えて、わたしはそちらに歩き出そうと――。

 人でいっぱいのロビー。その端を、早足で横切っている女性の後ろ姿にわたしは釘付けになる。

「凛さんっ!」

 見えたのは一瞬。名前を呼ばれてびくりとした背中。それだけでわかった。

 わたしは走って彼女に駆け寄る。荒い息のまま、もう一度声をかけた。

「凛さん!」

 どこか決まりの悪そうな表情の先輩が、振り返ってわたしを見た。

「……綾乃」

 目をそらした凛さんの顔を見て、わたしは何も言わずに彼女を抱きしめた。

 服が濡れてるのは覚えていた。それでも、ほんの少しの抗議と、わたしの冷えた肌を凛さんの体温で温めてほしいというわがままをこめて、そのまま抱きつく。

「ちょっ、と……」

 わたしを離そうとする先輩の抵抗はすぐに消えて、彼女はそっとわたしの頭を撫でた。

 凛さんの右手についた煙草のにおいがいつもより強い。きっと何本も火を着けたのだろう。

「どうして……」

「どうしてはこっちの台詞です!」

 頬を膨らませて、わたしは凛さんから離れた。

「その…………ごめん」

 また、先輩は目をそらす。

「……どうして貴女は、何も言わずに去ろうとしたんですか? そんなことできないって、きっとわかってたはずなのに」

「それは……」

「ひどいです。だったらなんで、部長には飛行機でウィーンに行くって伝えたんですか? 誰にも言わなかったら、先輩が今日、日本を離れるってわからなかったのに。そしたらきっとわたしだって、帰ってくるはずもない先輩をあの部屋で待ち続けていたはずなのに。……こうして追いかけてくることだって、なかったはずなのに」

「そうしないと、綾乃が寂しがると思ったから……」

「遠回しに別の人に伝えて。わかりやすく思い出の物を置き去りにして。こんなの……こんなの、追いかけてほしいって言ってるようなものじゃないですか」

「私は……これ以上綾乃を、傷つけたくなくて……」

「そんなの……ずるいです。どうせなら、わたしの心をずたずたに引き裂いてくれればよかったのに。そしたら辛い記憶として、切ない恋の思い出として終わらせられたのに。それすらもゆるしてくれないなんて。……でも、」

 わたしはそんな、凛さんの不器用なやさしさが――。

 涙をたたえた瞳でわたしは先輩を見上げた

 先輩がその先の言葉を言われたくないのはわかっていた。それでも、今日のわたしは少しだけわがままだ。

「綾乃……ごめん、そろそろ時間が……」

 わたしは凛さんの腕を両手で掴む。

 この数ヶ月で、どれだけの時間を一緒に過ごしたと思ってるんだ。何度肌を重ねたと思ってるんだ。貴女の考えていることくらい、言葉にされなくたってわかってる。

「……綾乃」

《ただいま降雪による天候不順の影響で、すべての出発便の離陸ならびに到着便の着陸を一時見合わせております。影響をうける便をお知らせいたします――》

 慌ただしいアナウンスをうけて、わたしは先輩をじっと見つめる。

 今度こそ、目はそらされなかった。

「手……いたい」

「あっ、ごめんなさい……」

 そっと手を離した。

「別に……いいけど」

 凛さんがそっけなく呟く。その表情は、どこか決意に満ちていた。

 それはきっと、あの日に置いてきてしまった言葉を受けとめる覚悟。自分勝手にそう解釈して、わたしは深呼吸をする。

「凛さん。わたしの話、聞いてくれますか?」

「……うん」

 先輩が微かに笑う。その顔を見れただけで、今のわたしは無敵だった。

「八重樫凛さん。わたしは貴女が好きです」

 ロビーの喧騒も、繰り返されるアナウンスも、わたしの耳にはもう届かなくなっていた。

「貴女に初めて恋をしたのは二年前。先輩の綺麗な演奏に惹かれてフルートを吹くようになって、花菱にも先輩にもう一度会いたいが為に入学しました。憧れの上級生。天才のフルート吹き。クールでミステリアスで、でもちょっとだけかわいい年上の女性。ずっとそんな風に思っていました」

 そこで言葉を切り、ストレートに褒められて頬を染めている凛さんの姿を見つめる。でも、わたしが好きなところは、他にもあって――。

「そんなわたしの凛さん像が変わったのは、先輩の家に初めて泊まりに行ったときのことです。あの日の深夜、先輩が翌日の練習のためにわたしのことをずっと考えてくれていたのを偶然知りました。多分、あそこで気づかなければ、わたしは先輩が裏で頑張っていることはわからなかったと思います。そんな、気づかれなくても他者のためになにかしようとする精神。外見や才能のような先輩を構成する要素ではなくて、人間性みたいな、もっと深いところにあるなにか。わたしはそれがとても魅力的だと思いました。普段は隠そうとしているけれど、ふとした瞬間にのぞく、胸の内に秘めた宝石。そんな貴女の美しさを知って、わたしは凛さんを他の誰にも渡したくないと感じました。……その瞬間、わたしは貴女を好きになりました」

 大丈夫。凛さんはわたしの話を聞いてくれている。そう信じられるからこそ、ゆっくりと言葉を紡ぐことができる。

「後夜祭を抜け出したチャペルで、わたしは先輩に告白しようと思いました。でも、それはできなかった。先輩に触れた瞬間、貴女がそういう相手を望んでいないことがわかったんです。それでもわたしは貴女のためになりたかった。それでいいと思ってた。でも――先輩がウィーンに行ってしまうと知って、気づいたんです。このまま別れるのは嫌だって。だからもう一度、わたしは先輩に伝えます。凛さん。わたしは貴女のことが好きです」

 凛さんは何度も頷き、それから目を閉じて一回だけ、自戒するように首を横に振った。

「うん。……知ってた。綾乃が私を好きなこと。知ってて私は、その好意を見なかったことにした。手を伸ばせば、綾乃がわたしを抱きしめてくれるから。その温かさに甘えて、私はずるずると今日まで過ごしてきた。……私は最低だ」

「そんなこと言わないでください。そんな風に笑わないでください。……わたしは知ってました。凛さんがわたしを抱きしめるたびに、悲しそうな顔をしてたことを。曖昧な関係を続けるのを迷っていたことを。それでもわたしは、そのままを選んだんです。ぬるいしあわせに浸かっていることを選んだんです。……もし先輩がわたしの気持ちに向き合うことを決めたなら、わたしも先輩と向き合わないといけない。でも、その勇気がなかった。コンクールに出なくなった理由。嫌なことやつらいことがあったときに、火の着いた煙草を指に挟んでぼうっとしてる理由。貴女の触れられたくない過去にうっかり踏みこんで、先輩との関係が変わってしまいそうなのが、一番怖かった」

 きっとわたしたちは似たもの同士。他人思いの自分勝手だ。

「相手から傷つけてもらいたくて、でも自分は傷つきたくなかった。そんな都合のいいことばかり考えてました」

 半歩だけ、わたしは凛さんに近づく。ゆっくりと手を伸ばして、わたしたちは指を絡めあう。

「わたしには勇気がないんです。まだ、足りないんです。だから先輩、わたしのわがままをどうか聞いてください」

 わたしのことを見つめる大きな瞳。その色は、いつだって澄んでいて綺麗だ。

「凛さん。わたしに時間をください。告白の返事を聞くまでの時間をください。先輩が今日、ウィーンに行った後で、その次にわたしと逢う日。どうかそのときにお返事を聞かせてください」

「でも……それだと、綾乃が辛いだけじゃ……」

 先輩はそうやって心配な顔を覗かせる。そうだ。そんなところがわたしは好きなんだ。

 わたしはポケットに入れたあのキーホルダーを手に、もう片方の手の指を絡ませた。少しだけ慣れた背伸びをして、わたしは先輩と同じ目線の高さになる。

「だったら、もうひとつだけ、わたしのわがままを聞いてください」

 ゆっくりと目を閉じて、わたしは凛さんに顔を近づける。

「ちょっ……ちょっと、ここは他のひともいるし――」

「なら、わたしだけを見ててください」

 それ以上の言葉を拒むように、わたしは凛さんにキスをした。

 何年経ってもわたしが思い出せるように。何年経っても凛さんが覚えてくれてるように。

 互いの存在を確かめるみたいに。自身の存在を刻みつけるみたいに。

 相手のことばかり見ているわたしたちは、この瞬間だけ、自分のことで頭がいっぱいになる。

 長い沈黙があって、わたしたちは離れた。

「綾乃……変わったね」

「凛さんが変えたんです。――青いだけの少女じゃ、いつまで経っても貴女に追いつけませんから」

「……そう」

 凛さんが安心したように笑う。その表情を見て、わたしも微笑んだ。


 広いロビーに発着陸再開のアナウンスが流れた。

 寄り添うようにして座っていたわたしたちは名残惜しみながらも立ち上がる。先輩が大事そうに肩に掛けた楽器ケースには、わたしがもう一度渡した、あの日のキーホルダーがぶら下がっていた。

「綾乃。わたしはウィーンの音大に入学するために日本を出るんだ。あの日、綾乃がまた吹奏楽部に誘ってくれたから。フルートを吹く楽しさを思い出させてくれたから。それでわたしはウィーンに行くことを決めたんだ」

「なっ……そ、そうなんですか!?」

 一時間くらい身を寄せ合って話をしていたのに、この話を聞いたのは今が初めてだった。

「ごめん。本当は言うつもりじゃなかったんだけど。……私は練習をずっと怠けていたから、音大にいつ合格できるかもわからない。でも、それでももう一度だけ。綾乃がそう思わせてくれたから。だから……私が日本に帰ってこれるのはいつになるかわからない。それだけは伝えておこうと思って」

 なんだ、そんなこと。わたしはなんてことないという風に笑って、口を開く。

「わたしは地区大会で一目見た貴女を追いかけて同じ高校に入ったんですよ? 心の準備ができたら、そのときはまたわたしから先輩に逢いに行きますから」

「そう。……ふふ、そうだったね」

 ゆっくりと、わたしたちは絡めた指をほどいていく。もうそろそろ搭乗の時間だった。

「凛さん。どうか素敵なフルート奏者になれますように」

「綾乃もどうか元気で。また逢える日を、楽しみにしてるから」

 わたしたちは「またね」と手を振って別れた。

 段々と小さくなっていく先輩の背中。それを見届けて、わたしも背を向けた。

 


 淡く、青い恋はどうかそのままに。

 美しい思い出に変えるのは、もう少しだけ先でも、きっと遅くない。

 残響のような余韻に、今はまだ。

 あなたと一緒にいたいから。

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