秋の終わり。あるいは、冬の始まり。

 雲ひとつない秋晴れの空。透明な青の風に、紅の葉が舞っていた。

「十分経ったので休憩はおわりです。引き続きパート練習をやって、最後には合わせますよ」

 新しく吹奏楽部の指導員になった秋子あきこ先生のかけ声を聞いて、わたしは窓から離れ席に着く。

「休憩前と同じ百三十一小節目から。準備はいい?」

「はい!」

 八重樫先輩に頷いてフルートを構える。わたしは楽譜を見つめ、大きく息を吸った。


***


 八重樫先輩が吹奏楽部に入部したあの日。

「まったく。凛、待ちくたびれたよ」

「どうだか。ただいま、蛍」

 という二人の軽口や、

「……凛。おかえりなさい」

「梓。…………ごめん、待たせたね」

 といったやりとりの後で、先輩に代わって壇上に立った部長の下、文化祭公演の曲目を決めることになった。

「さて。部員も増えたところで、今度の合同公演で吹部うちが演奏する曲を決めましょうか。優海ゆみ、なにか案はある?」

「そうですね、使える時間にもよりますが……。小編成用の楽譜をいくつか探してみるのがいいかと」

 副部長の二年生、山里やまさと優海先輩が顎に手をあてながら返した。

「演奏時間の縛りは忘れていいから。とりあえずやってみたい曲を聞かせて」

 部長の言葉を聞いて、蛍先輩がはいはい! と手を挙げた。

「『ツァラトゥストラ』か『一八一二年』がいいな」

「『ツァラトゥストラはかく語りき』に『大序曲 一八一二年』ね。どちらもいい曲ではあるのだけれど、この人数だと厳しいわね。そもそも貴女、二人しかいないパーカッションで一体何種類の楽器を同時に演奏するつもり?」

「えー。縛りは忘れろって梓が言ったんじゃん」

 そう言って蛍先輩はふてくされたフリをした。

 蛍先輩が提案した二曲はどちらも壮大な楽曲で有名だ。けれど、部長の指摘通り今の吹部で演奏するには難しいのが現実だった。

「梓。私からの提案なんだけど、いい?」

 隣に座った八重樫先輩が背筋を伸ばして部長を見た。先ほどから彼女が少し悩んでいるような仕草をしていることにわたしは気づいていたが、蛍先輩の発言で覚悟を決めたようだった。

「ええ、もちろん」

「これはひとつの案として聞いてほしいんだけど……『美しく青きドナウ』なんてどうかな」

 彼女の発言を受けて、音楽室に息を呑む音がさざなみのように広がった。もちろん、わたしもごくりと呑んだうちのひとりだ。

「理由は?」

「うん。もちろん、もう一度、っていう意識がないわけじゃないんだけど、それは除くとして。文化祭まで練習時間もあまりないなかで、この曲なら三年の私たちがある程度アドバイスできるというのがひとつ」

「確かに。もうひとつは?」

「二年前に吹奏楽用の楽譜を探したときにこれくらいの人数用の楽譜も見かけた記憶があるというのがもうひとつ。……もちろん、みんなが嫌ならこの案は取り下げるから」

「妥当な案ね」

 部長がどこか満足げな表情で頷いた。

 この後も話し合いが続いて、最終的に多数決で八重樫先輩の提案した『美しく青きドナウ』の案で決まった。

 

 それから数日後の部長会を経て、今年の吹奏楽部は合同公演で『美しく青きドナウ』を演奏することが正式に決定した。

 そういえば、以前演奏枠を確保するのが難しいと言っていたのに、話し合いで部長が時間を気にしなくていいと表現したことについて蛍先輩に尋ねると、こんな回答が返ってきた。

「ああ、アレ? そもそも演奏時間の奪いあいなんて、ただの演技だよ。パフォーマンスみたいなもんさ」

「演技、ですか? でも一体誰のための?」

「吹部と弦部全員のため……と梓は言うだろうね」

「はっきりしない物言いですね。蛍先輩ならどう表現するんです?」

「僕? そうだね……今の吹部のことをあまりお気に召さないひとたちのため、かな」

「今の吹部のことを……」

 無関心じゃなくて、嫌い。その反対は好き。裏を返せば、昔の吹部は好きだったひとたち。二年前、二条部長のやりかたに異を唱えて吹部から去ったひとたち。……弦部の現三年生か。

「まずは弦部の部長が吹部の持ち時間をこれ見よがしに削る。演奏には人数が足りないとかなんとか言ってね。そうしてある一部の生徒たちの溜飲を下げる。その後、梓は新入部員を何人か見繕って、今の吹部でも演奏可能な小編成用の短い楽曲を選んで部長会に提出。それを聞いた弦部の部長は吹部に持ち時間の大部分を返して、残りの数分は自分たちの演奏時間に追加する。……こうすれば、弦部のメンツも立つし、吹部も演奏ができるようになる。おそらく、梓が見つけてきた新入部員も、弦部の部長があらかじめ目を付けてたんだろうね。そっちの部長なら、辞めそうな人物だってすぐわかるだろうし。彼女たちは弦部にとってみれば自分たちのやりかたについて来られなかった落ちこぼれで、吹部にとっては楽器経験者という即戦力だ。ま、プランAとでも言おうかね。――まったく、どっちの部長が考えたのにせよ、たいした茶番だよ」

 蛍先輩がやれやれという表情をした。

 確かに、先輩の話は筋が通っている。演奏枠の件で部長がそれほど焦っているように見えなかったことは事実だし、タイミングの良すぎる新入部員に対する説明もつく。……けれど、二条先輩が勝ち取った演奏枠は『美しく青きドナウ』を丸々奏でられる十数分だ。しかもそれを、部長会の前にも関わらず、楽曲決めのときにはまるで決定事項のように話していた。

「だったらなんで、部長はあの場で『演奏時間の縛りは忘れていい』とまで言えたんですか? 先輩の説明したプランAなら、時間を気にする必要がありますよね」

「うん。だから梓は用意されたプランAに加えて、独自のプランBを執ることにしたんだと思うよ。――ある予想外な出来事が起きてね」

「予想外の、出来事?」

「それは綾乃ちゃんが引き起こしたことだ」

「わたしが?」

 わたしがしたこと。二条部長にとって、予想外の出来事。それは……、

「わたしが八重樫先輩を吹奏楽部に連れてきたこと、ですか」

「正解」

 八重樫凛の吹奏楽部への再入部。それは、元吹奏楽部員からすればどう見えるのだろうか。天才の帰還? かつての名コンビの復活? 半壊したはずの吹部の再誕? いずれにしても、小手先だけのプランAのみでは不十分なことは確かだ。

「梓は八重樫凛という強力なカードを得た。それを行使する以上、傾いた天秤を無理にでも戻すとすれば――ある劇薬を使うしかない」

「それがプランB。劇薬の名は――『美しく青きドナウ』」

 それは、二年前の遺恨。特に弦部に所属する一部の先輩にとって、それはそれはとても強力な。

「まったく、偶然にせよ必然にせよ因果なものだね。二年前と人数は半分以下。それでも梓と凛が揃った吹奏楽部による『美しく青きドナウ』の演奏。……弦部は許可を出すしかない」

「それがわかっていたから、部長はああ言ったんですね」

「そういうこと。だから言ったでしょ? ――たいした茶番パフォーマンスだって、さ」

 口の端を上げて先輩は笑った。

「なるほど。部長がすごい人だっていうのはよくわかりました」

「そりゃあね。彼女はだてに吹部を二年も率いてないさ。……ああ、でも勘違いしてほしくはないんだけど、梓は凛をただのゲームの駒として見てるわけじゃないからね」

「あ、はい。それはわかります。今の話を聞いていて、八重樫先輩って、わたしが思ってる以上にすごいひとなんだなあって思ってました」

 彼女はその才能をわたし以外の人からも認められていて、大切に思われている。それは至極当たり前のことで、嬉しいことのはずなのに、心のどこかで唇を噛んでいる自分がいた。

 自分だけの宝物が、他の人からも大切にされている。妬く資格なんてないのに、少しだけ妬けた。

「すごいひと……そうだね。梓にとっても、もちろん僕にとっても、凛は天才だ。でも――」

 先輩は一度言葉を切ってわたしを見る。何もかもを見通すような、澄んだ瞳をしていた。

「だからって、綾乃ちゃんが見た、八重樫凛という輝きが色あせることはない。――その輝きは、きみだけのものだよ」

 わたしは息を呑んで、先輩の言葉を心のなかで繰り返す。……そうだ。胸の内に秘めている八重樫先輩への想いは、今も変わらずきらめいている。

「どう? 落ちた?」

「……一応聞きますけど、何にです?」

 自分を指差していたずらっぽく笑う先輩に、わたしはわざとらしく冷ややかな声で返した。

「恋に。僕に」

「残念でした。わたしの心は、二年前から八重樫先輩一筋ですから」

 そういうことを言わなければカッコいいのに、という言葉はかけないことにした。それは彼女もわかってるだろうし、きっと先輩もわざとこんなことを言ってるのだと思ったから。

「そりゃ残念。……さてと。そんなこんなで、今回の公演は絶対に失敗できないんだ。だから練習、しないとね」

「――はい!」

 わたしは元気よく返事をした。


  ***


「ちょっとストップ」

「え、あっはい」

 パート練の途中。八重樫先輩に言われて、わたしは吹くのを止めた。

「ここからここまで、ちょっと一人で吹いてくれる?」

「わかりました」

 頷いてフルートを構える。

 ちゃんと吹けてたと思うけど、どこかミスしてたのかな。

 気合いを入れ直して、わたしは息を吸った。

 八重樫先輩はわたしの演奏を目を閉じて聞いている。演奏が終わると、先輩は近くを通りがかった秋子先生に声をかけた。

 秋子先生は吹奏楽部の合同公演が決まってから、臨時で吹部の指導員を引き受けてくれた人物だ。元々学院で事務の仕事をしているひとだったが、音楽の教員免許を持っているらしく、空き時間を使って吹部の演奏指導を見てくれている。

 どうも、秋子先生が指導をしてくれるのは蛍先輩が彼女を口説き落としたかららしい……という噂を主に先輩本人が触れ回っていた。

 まあ、真偽の程はさておき。ともかく、彼女の指導は的確で、わたしたちはとても助かっていた。

「和泉さん。八重樫さんに合わせて、もう一回同じところを吹いてくれる?」

 秋子先生は手に持った楽譜を繰りながらわたしを見た。

「はい、わかりました」

 あれ? またわたし間違えた?

 焦りはひとまず落ち着けて、わたしはもう一度同じ場所を吹いた。

「あの、わたし、どこか間違えてますか……?」

 目の前で二、三言交わしている二人に、わたしはおずおずと訊ねた。

「いえ、そうじゃなくて……。私の前でもう一度、チューニングしてみてくれる? B♭で」

 ……チューニング?

 秋子先生の予想外な言葉に頭が一瞬フリーズするも、とりあえず頷いてみせた。

「え……あ、はい!」

 わたしはチューナーを取り出し、先輩の吹いたB♭に合わせて音を出す。秋子先生はこちらに近づいてわたしのチューナーを覗きこんだ。

「和泉さんの方だとズレてない。……けど、実際はちょっとズレてるわね」

「はい。こっちのチューナーでも少しだけズレがあります」

「えっと……」

 それって、どういうことなんだろう。わたしのチューナーだと合ってるけど、先輩のチューナーだと音がズレてるってこと?

「和泉さん。私の使ってもう一度やってみて」

 先輩から渡されたチューナーで吹くと、確かに少しだけズレがある。画面の針を見ながら、頭部管をほんの少し抜いて音を調節した。

「もう一回、B♭」

 目を瞑った先輩に音を聴かせる。……針は揺れていない。先輩も満足そうに頷いた。

「うん、合ってる」

 わたしはほっと一息ついた。

「和泉さん、これ貸してあげるわ」

「ありがとうございます!」

 秋子先生からチューナーを受け取って頭を下げる。音楽室の備品だから気にしないで、と笑顔を残して彼女は他のパートを見に行った。

「あの、わたしのチューナーが悪かったってことですよね」

 わたしは先輩に訊ねる。

「悪かったというか……ちょっとズレてただけ。電池がないのか、それとも本体がヘタってるのか。和泉さんのは年季が入ってそうだから、本体かな」

 先輩に指摘されて、わたしは自分のチューナーを譜面の下に隠した。

「あの、これは家にあったものを使ってるんです。だからちょっとだけ古くて……」

 ああ、恥ずかしい。わたしは訊かれてもいないことを口走っていた。

「家族の誰かが楽器を演奏するの?」

 けれど、先輩は別のところが気になったらしい。

「え、ええ。たしか、母が高校生のときに吹奏楽をやっていたらしくて、これはそのお下がりです」

「へえ、和泉さんのお母さんは今でも楽器をやってるの?」

「いえ、大学に入って触らなくなったって言ってました」

「ふうん」

「それにしても、先輩のチューナー、かっこいいですね」

 わたしの話から話題を変えたくて、思いついたことを口にする。わたしのとは違って、彼女のはデジタル式だった。

「今のはだいたいそうだと思うけど……」

 目を落とすと、先生から借りたチューナーもデジタルだ。でも、先輩の持っている方がしっかりとしていて、機能も多そうだった。

「そっちのボタンを押すとどうなるんですか?」

「これ? これはメトロノームにもなるんだ。便利だよ」

 そう言って先輩がチューナーを操作すると、規則正しい音が流れてくる。

「え、すごくないですかこれ!?」

「まあ、そうだね。高い買い物じゃないし、この際新しいチューナーに買い換えてみたら?」

「そうですね。先輩のこれ、いいなあ。同じのってまだ売ってます?」

「多分。……そんなに気に入った?」

 先輩のチューナーを物珍しそうに触っているわたしを見て、彼女は不思議そうに首をかしげた。

「はい! あの……先輩、これってどこで買ったんですか?」

「家の近くの楽器店だけど……よかったら今度、一緒に買いに行く?」

「――えっ! いいんですか!?」

「うん」

 今だ、と思った。次の言葉を発するのに理屈はいらなかった。ただ、口が、心が勝手に動いた。

「じゃあ先輩。今週の土日、どっちか空いてますか?」

 急だね、と呟いて先輩は頷いた。

「どっちも大丈夫」

「だったら日曜日の午後、わたしの買い物に付き合っていただけますか?」

「わかった。いいよ」

 さあ、そろそろ練習を再開しないと、と言って先輩がフルートを構える。わたしも今にも踊り出したい気持ちを抑えながら構え直した。

 その後、全体練習まで終えて片づけを始めた頃、一人冷静になったわたしは気づくのだった。

 あれ、もしかしてこれって……デート?



 どこまでも高い青空に飛行機雲が白く伸びていく。色彩豊かな木々の隙間を通り抜けた晩秋の風が、わたしの横顔をそっと撫でた。

「なに黄昏れてるの、綾乃」

 ベンチに座って空を仰ぐわたしの顔を藤花が覗きこんだ。彼女の眠そうな瞳のなかにわたしが映っていた。

「ねえ、あの雲って何に見える?」

 わたしは彼女の言葉を無視して空に指を立てる。藤花は面倒くさそうに空を見上げて目を細め、冷静にこう呟いた。

「雲にしか見えないけど」

「……わたしには八重樫先輩の横顔に見えるの」

 唇を尖らせてから、わたしは大きくため息をついた。

 ふぅんと興味なさげに返した藤花だったが、わたしの様子を見て少しは気の毒に思ったのか、そういえばと言葉を続けた、

「八重樫さんと出かける約束をしたの、明後日だっけ?」

「そう、そうなんだよ。それなのに……はぁ……」

「つい数日前までは真夏のセミ並みに元気だったのに。どうしたの」

 虫で例えるならせめて鈴虫あたりにしてほしい。……いや、虫で例えられること自体、色々と言いたいことがあるんだけど、ひとまずそれはおいといて。

「着ていく服で悩んでるの。ねえ藤花、わたしは何を着てけばいいと思う?」

「えぇ……なんでも良くない?」

「良くないの! ねぇとーか、真面目に答えてよ……」

「行くの私じゃないし」

 ふわぁ、と彼女は退屈そうにあくびをした。

「だって、デートだよ? しかも初デート。悩むに決まってるじゃん」

 そう言って詰め寄ったわたしに、藤花は不思議そうに訊ねる。

「そもそもデートなの、それ」

「え……。だって、憧れの先輩と休日に二人っきりなんだよ? デート以外の何物でもないじゃん」

「うわ、言い切った」

「そりゃわたしだってわかってるよ? ただの友だち、下手すれば同じパートの後輩くらいにしか見られてないだろうって。でも、夢見るくらいはいいじゃない……」

 自信満々だったはずの声は穴の空いた風船のように段々としぼんで、どんどん小さくなってしまう。

 そんなこと言われなくてもわかってた。きっと先輩と駅で別れて、一人になった帰りの電車でそっと悟るんだろうって。でも、それでも、せめて当日の帰り道までは、シャボン玉のような淡い夢に包まれていたかった。

「――ごめん、綾乃。ちょっと無神経だったかも」

 ばつの悪そうな表情をした藤花が手のひらを顔の前で合わせた。

「べつに、藤花が謝ることじゃない。舞い上がりすぎてたわたしが悪いんだから……」

「それでも、ごめん。綾乃の気持ちを沈ませたのは事実だから。……ね、もしよかったら、さ……」

 藤花が両手をぎゅっと握りしめるのが見えた。

「どんな服を着ていこうと思ってるのか、教えてよ。…………もう一度だけ、私にチャンスをちょうだい」

 後半の言葉は囁くように。あるいは、願うように、わたしの耳に届いた。

「……藤花」

 居心地が悪いのはわたしも一緒だった。友人に、親友に、そんな顔をさせた自分自身に対して自己嫌悪が止まらなかった。

 でも、それだけだと、前に進めないから。反省会は家に帰ったあとで、ひとりですればいいから。わたしは半ばむりやり口角を上げて笑顔を作った。

「ええっとね、今年の夏に買ってたんだけど着そびれてたTシャツに……あ、そういえば写真撮ってたような……」

 たしか……と携帯を操作する。ああ、これだこれだ。藤花に画像を見せながらわたしは続けた。

「これにデニムのミニスカートとヒールの入った靴で行こうかと思ってるんだけど、どう?」

 藤花は思案する風に少し黙って、それから口を開いた。

「意見、言っていいの?」

「もちろん。そのために話したんだから」

「辛口でも?」

「辛口でも」

 わたしは大きく頷いた。……もちろん、ちょっとは手加減してほしかったりするけど。

「そ。じゃあ言うけど……そもそもその格好、寒くない? いま何月だと思ってるの?」

「……夏と表現するにはちょっと無理がある、と思う」

 目を落とすと、ベンチの周りは色とりどりの落葉で敷きつめられていた。

「でも、オシャレのためなら少しくらい肌寒くたって、」

「だからって、季節感を無視する必要はないでしょう? もし私がこの格好で綾乃の前に現れたらどう思う?」

「……まあ、上にもう一枚着ればいいのにって思うかも」

「でしょう?」

 藤花がにっこりと笑った。

「あと、どこに行くんだっけ?」

「先輩の家の近くの楽器屋さん」

「楽器を売ってる場所なら靴音はあまり立てない方がいいんじゃない? 私は行ったことないからわからないけど」

「まあ、たしかにそのほうが無難かもしれない……」

 ああ、藤花に相談してよかった。そう思う一方で、落胆しているわたしがいた。

 全ボツかあ。覚悟はしてたけれど、ちょっとキツい。

 そんな様子に藤花は気づいたのか、彼女はベンチに座りなおしてわたしに語りかけた。

「そう難しく考えることないんじゃない? とりあえず、私と遊びに行くとしたらどんな格好で行くかを想像してさ、そこから考えればいいと思う。きっと、それが一番自然体な綾乃だろうから」

「藤花……!」

 わたしは思わず彼女の手を握っていた。

「私だって、明後日のこと、一応気にしてるんだから。また相談したいことがあったら教えてよ。メールでもいいからさ」

 藤花は手を握り返し、それからぎこちなく笑った。



案内板を見失わないように少しだけ背伸びをしながら慎重に歩く。日曜日のお昼時。慣れない駅の構内は、わたしにとって一種の迷宮だった。

 人の群れから外れて、手首の内側に巻いた腕時計を覗いた。約束の十分前。待ち合わせの改札口にはまだたどり着けていない。癖で下唇を噛む直前に、そういえば今日は色つきのリップをしているんだったと思い出した。

 藤花のアドバイス通り、スニーカーを履いてきてよかった。小さく開けた口を軽く結んで、わたしは早足で待ち合わせ場所に向かった。

 大きな階段を上りきると、ようやく目当ての改札口が見えた。壁に書かれている文字を確認して、わたしはあたりを見渡す。ここは待ち合わせで人気の場所なのか、人であふれていた。

 先輩、もう来てるかな。ゆっくりと歩きながら先輩の姿を探す。

 きっと私服だろうから、ちゃんと顔を見ていかないと。

 そうしてきょろきょろ視線を動かしていると、ときおり他の待ち合わせの人の視線と交差するのがわかった。どの人もどこか不安そうな表情をしている。皆、特定の誰かを待っているんだ。そう思うと、どこか独特な感じがした。それは誰かにとって特別なひとで、けれどわたしにとってはただの他人。どれも同じように見えて、ぴたりと符合するピースは一つしかありえない。欠けたジグソーパズルの海を泳いでいるような、不思議な感覚だった。

 とんとん。優しく肩を叩かれて、わたしはびくりと反応した。

「――和泉さん」

 その声は、ざわついた駅のなかでもはっきりとわたしの耳に届いた。少し低くて、落ち着いているのに儚げで、どこか優しさを持った、先輩の声。

 一瞬でわかった。それがちょっとだけ嬉しくて、口元を緩めながら振り向く。

「八重樫先輩! こんにちは」

「こんにちは、和泉さん。ここまで来るのに迷わなかった?」

「実は、ちょっとだけ……」

「そっか。もしかして、この駅にあまり慣れてない?」

「いえ、時々降りたりはするんですけど、いつもと違う改札だったので少し混乱して、それで」

 待ち合わせをしたこの駅は、このあたりでは二番目くらいに大きな駅で、友だちと遊ぶときに使ったりもしていた。けれど、今日の待ち合わせ場所は駅のなかでも比較的小さな改札口で、いつもと同じ改札から出たら結構な距離を歩くことになってしまったのだった。

「たしかに、こっちにはあまり来ないかもね」

 先輩は納得したように呟いて、さらに続けた。

「じゃあ、さっそく楽器店に行くってことでいい?」

「はい!」

 先輩の提案に、わたしは大きく頷いた。


「先輩の家ってこの駅から近いんですか?」

「少し離れてるけれど、歩けない距離じゃないかな」

 先輩の案内に従ってわたしは彼女の隣を歩く。立ち並ぶお店を見る振りをしながら、わたしは先輩の横顔を見つめていた、心なしか、学校で見る彼女の表情よりも和らいでいるような気がした。

 先輩は細身のパンツに白のブラウスといった出で立ちで、胸元で結ばれた黒のリボンがシンプルながらも清廉な彼女によく似合っている。制服と違ってパンツスタイルのためか、彼女のスタイルの良さが際立っていた。

 一方、わたしは落ち着いた色のロングスカートに白のニットという格好だ。これは、昨夜遅くまで開催された藤花との服装会議の末、ようやく決まった組み合わせだった。

 こうして先輩の横に立って歩いてみると、彼女とわたしには結構な身長差があるのだと気づかされる。頭一つ分とまではいかないものの、先輩の視線に合わせようとすると、自然と目線が上を向くのがわかった。

「着いた。ここだよ」

 その店は、商店街を折れて一本路地に入った場所にひっそりとあった。二階建てくらいの落ち着いた店構えで、扉横のショーウィンドウには色鮮やかなエレキギターが並んでいる。手作りなのか、かわいらしい看板が扉に掛かっていた。


「うわぁ……すごい」

 店内に入ると、陳列された様々な楽器が目に飛び込んできた。ギターにベース、ヴァイオリンにチェロ。隅の方にはアンプばかりが並んでいるコーナーもあって、ただただこの風景に圧倒されていた。

「管楽器は地下にあるから」

 息を呑んで立ち尽くすわたしの横を、軽い足取りで先輩が通り抜ける。奥の階段をおりる先輩の後ろ姿を見て、我に返ったわたしは急いで彼女の後を追った。

 地下に降りると、そこは絶景だった。

 所狭しと置かれたガラスケースの中に、ピカピカに磨き抜かれた管楽器が壁一面に配置されていた。蛍光灯の明かりを受けて、木管・金管を問わず宝石のようにキラキラと眩い光を放っている。その輝きは、ここの楽器が丁寧に手入れされている何よりの証拠だった。

「おや、八重樫凛さん。いらっしゃいませ」

「どうも。ご無沙汰してます」

「本日はどういったご用件でしょう? 楽器のメンテナンスでしょうか」

「いや、今日は私じゃなくて彼女の――」

 そう言って振り返った先輩は、階段をおりてすぐの場所で立ち止まって目の前の風景に見惚れているわたしの姿に気づいたようだった。

「珍しい?」

 不意にすぐ隣から先輩の声が聞こえ、わたしは声を出さんばかりに驚く。声を上げそうになった瞬間、ここが店のなかであることを思い出して、慌てて両手を口に当てた。

「せ、先輩……。ごめんなさい、見入ってました」

「別にあやまることじゃない」

 先輩が不思議そうな顔をして呟いた。

「どうそ、お好きなだけ見ていただいてかまいませんから」

 店のご主人からも優しくそう言われて、わたしは顔から火が出そうになる。ええっと、あの、その……とせわしなく動かした視線の先に一際輝きの強いショーケースを見つけ、わたしは導かれるようにその棚の前に立った。

「フルートがこんなに……」

 わたしの目の前にフルートがずらりと並んでいた。よく見ると、わたしが聞いたことも無いようなメーカーのものもいくつかある。値段を確認せずとも、わたしが手にするには恐れ多いものばかりだということがわかった。

 見慣れたフルートやピッコロの隣に、見覚えのない楽器が置かれているのにわたしは気づく。それはよく見るフルートよりも太くて長く、頭部管がぐにゃりと曲がっていた。

「それはバスフルート。吹奏楽で使われることは珍しいから、あんまりメジャーじゃないかもね」

「バスフルート……」

 その姿をよく見ようと近づいたわたしの顔が楽器の表面に映った。

「バス、ってことは低いんですね? きっと、温厚で綺麗な音なんでしょうね……」

「一オクターブだったかな。そうだね。フルートとは違った音が出せる。慣れるまでちょっと時間がかかるけど」

「え、先輩ってバスフルートも吹けるんですか?」

 振り向いてそう訊ねたわたしに、先輩はうーんと迷うそぶりをしてから口を開いた。

「家にあったのを勝手に吹いたことがあるだけだから、他人に聴かせられるレベルじゃないけどね」

「家に……」

 そういえば、先輩のお母さんは有名なフルート奏者なんだっけ。きっと、家にはフルートが何本もあるんだろうな。

 そんな想像をしながら、わたしはこの楽器店に来た理由を忘れかけていることに気づく。ええっと、チューナーは……と周りを見渡すわたしを見て、先輩はレジの横を指差した。

「チューナーなら、そこに並んでる」

「あ、ありがとうございます」

 そう言って、わたしはレジの横に移動した。

 ……すごい。

 チューナーが陳列されているのを見て、わたしは心のなかでそう呟いた。チューナーなんて数種類しかないと思っていたのに、わたしの身長くらいの陳列棚一面に様々なチューナーが並んでいた。

「チューナーをお探しですか?」

 棚の前で途方に暮れているわたしに気づいたのか、ご主人が話しかけてきた。

「ええ、そうです」

「そうですか。何の楽器を演奏されるんですか?」

「フルートです」

「でしたら、ここから下にあるものならばどれでも使えますよ。ご予算や機能など、何か希望はございますか?」

「ええっと……」

 先輩の使っていたチューナーはどれだろう。どれも似たような形をしていて、見分けるのは難しそうだった。

「これと同じものって、まだ在庫ありますかね」

 わたしの横に立った先輩が胸ポケットから小さな紙を出してご主人に手渡した。型番を書いたメモか、この店のレシートだろうか。ご主人はそれを受け取ると、老眼鏡を外して紙を読みながら棚を探し始めた。

 もしかして、先輩は自分と同じチューナーが欲しいわたしのためを思って、紙を用意してくれたのだろうか。

 ううん。もしかして、じゃなくて、きっとわたしのためだ。

 先輩がわたしと会っていないときもわたしのことを考えて、行動してくれた。それは、先輩からしたらただの気遣いなんだろう。そのはずなのに、わたしの心はこんなにも簡単に揺れた。

 熱をもった心臓を鳴らしたまま、わたしは先輩の横顔をそっと覗く。なんでもないような顔をしている彼女の表情が、わたしの目を捉えて放さない。その思いやりを当然と考える彼女の心が、なによりも美しいと感じた。

「――同じ色のものはないけど、色違いならあるみたい……って、和泉さん? 聞こえてる?」

 先輩の唇がわたしの名前のかたちに動いたことを認識して、自分がぼうっとしていたことに気づいた。

「ごめんなさい。ちょっと考え込んでました」

「あそう」

 先輩は納得したように頷く。

 貴女のことを考えてました、とは口が裂けても言えず、わたしはご主人にもう一度お願いします、と謝った。

「はい。八重樫凛さんが購入された物とまったく同じ商品は残念ながらこの店では在庫がありませんが、同機種の色違いであればホワイトとブルーが今すぐお買い求めいただけます。同じ黒色で、という希望であれば、希望されている商品の後継機であるこちらならブラックが今すぐご用意できます。また、まったく同じものを、というご希望でしたら、一度メーカーの方に在庫を問い合わせる形にはなりますが、少々お時間をいただければご用意することも可能かと思います」

「丁寧にご説明ありがとうございます。そうですか……。なるほど、わかりました」

 つまり、色違いか、機種違いで同じ色か、少し待って同じ物を取り寄せるかの三択か。悩みどころだったが、いつまでも学校のチューナーを借りるのも悪いので、取り寄せという選択肢はわたしのなかでなかった。

「その後継機というのは、何か機能とかが追加されているんですか?」

「正直、ほとんど変わっていないですね。変化した部分は、少しばかり見た目が変更された点と、電池の持ちが多少良くなった点くらいでしょうか。こちらは新型ということもあってお値段も高くなっているので、学生さんでしたらこちらの方をおすすめしています」

 そう言って、ご主人は先輩の持っている機種を手で指した。

 なるほど。財布にも優しいのなら、旧型一択だ。

「では、このホワイトをいただけますか?」

 白を選んだ理由は直感だった。先輩が黒を持っているのならば、わたしは青より白かな、とぼんやり考えて決めた。

 レジが打たれる音を聞きながら財布を取り出そうとポシェットを探っていると、ふと台の上にあるかわいらしいキーホルダーが気になった。表面がつや消しされた金属製のもので、ヴァイオリンを模している。

「このキーホルダー、かわいいですね」

 レジの隅に様々な楽器をかたどったキーホルダーが下がっていた。値札がついているので、どうやら売り物のようだ。

「ありがとうございます。こちらはアクセサリー店をやっている娘の手作りなんですよ」

「へえ、ハンドメイドなんですね」

 そういえば、店の外にあった看板も金属製だったな、とわたしは思い出した。

 ヴァイオリンの他にもドラムやギター、サックスバージョンもあるようだ。もしかしたら、と指で探すと、フルートのキーホルダーがあるのを発見する。思わず手に取ると、つやつやとした感触が指の先に触れた。

「あの、これもください」

 ひとつだけレジ台に置いてから値段が思ったより安いことに気づいて、ついでにもうひとつ買うことにした。

「はい。わかりました。お会計は――」

 今度こそ、わたしはポシェットから財布を出した。


「今日はありがとうございました」

 喫茶店の席に座ったわたしはそう言って、対面にいる先輩に頭を下げた。

「うん。楽しかった?」

「はい!」

 楽器店を出てから、わたしと先輩は商店街をふたりで歩いた。とりとめない会話をしながら時々気になるお店を覗いたりしていると、いつのまにか夕方になっていた。最後に休憩も兼ねて、先輩の案内でこの喫茶店に入ったのだった。

 ウェイターの方がわたしたちの前に飲み物を置いた。

 わたしはカップを持って一口飲んだ。注がれた紅茶は宝石のルビーのような色をしていて、口に含むとふわりとやさしい香りが鼻を抜ける。紅茶や珈琲はあまり飲まないからと先輩と同じものにしてみたのがどうやら成功だったみたいだ。

「おいしいです、これ」

「そう? 私も紅茶は詳しくないけどね、ここに来るときは毎回これにしてる」

「へえ……。先輩はこのお店によく来られるんですか?」

「気分転換に時々ね。こう……頭のなかが音符でパンクしそうなときとか」

 カップを両手に包んで話す先輩の言葉にわたしはくすりと笑う。

「それは大変そうですね。……あの、失礼な質問に聞こえるかもしれないんですが、訊いてもいいですか?」

「ん、どうぞ」

 こちらを見て小首をかしげた先輩のかわいさに胸の高鳴りを感じながら、わたしは彼女の目を見て口を開く。

「先輩も演奏のこととかで悩んだりするんですか?」

「悩んでるよ、いつも。……よく、そんなに上手なのに悩むんだ、とか言われたりするけど」

 わたしがオブラートに包もうとした部分を先輩はそのままに軽く笑った。

「えっと、あの……はい。ごめんなさい。わたしも同じことを思いました」

「うん……そうだね。思ったとおりの音が出なかったり、練習中に何度も同じところで失敗したり……」

 私だってそんなものだよ、と小さく呟いて、先輩は肩をすくめた。

 彼女が語った言葉はわたしもよく考えていることで。正面に座った先輩のことが急に身近に感じられて。わたしは何も考えずに口を開く。

「よかった……先輩もわたしと一緒なんですね」

 手元を見ていた先輩が急にこちらに向いた。

 彼女のはっとした表情を見て、わたしは自分が失言したことに気づく。持ち上げていたカップを慌ててソーサーに戻し、急いで両手を合わせた。

「ご、ごめんなさい! 先輩とわたしじゃ全然違いますよね。それなのに……」

 そうだ。そんなはずない。経験も実力も、なにもかもが違う。わかっていたはずなのに、わたしは……。

 わたしの必死な顔を先輩は不思議そうに眺め、眩しいものを見るかのように目を細める。

「ふふ。……そうかもしれないね」

 夕日に照らされながら、先輩は今日一番の笑顔をみせた。


「駅まで送ってくれてありがとうございました、先輩」

 駅の改札の前で、わたしは先輩に頭を下げた。

「どうせ帰り道の途中だし。気にしないで」

「あの、先輩。これ……」

 わたしは鞄から小さな紙袋を出して先輩に渡す。彼女はきょとんとした顔でそれを受け取り、中を覗いた。

「……お昼に行った楽器店のストラップ?」

 先輩が銀色のストラップを掲げる。手のひらにおさまるくらいのサイズで、小さいながらもフルートのかたちをしている。

「はい。きょう一日、わたしを案内してくれたお礼です。本当にありがとうございました」

「いいのに、別に。……ああ、これかわいいね」

 キーホルダーをじっと見つめている先輩に、わたしは手のひらに隠したそれをそっと目の前に出した。

「実は……その、わたしも同じのを買ったんです。なので、それでもよければ……」

 ごにょごにょと言っているわたしを見て、何気なしに先輩は微笑んだ。

「そっか。だったらお揃いだね」

「――えっ!? あ、それはその……はい!」

 先輩の特に意味なんてないだろう一言に、わたしの心はわしづかみにされてしまう。

 彼女にとってはきっとありふれた言葉。それがこんなにも、わたしをあたたかくしてくれる……。

「じゃあ、またね、和泉さん。また学校で」

「はい! さようなら、先輩」

 人混みのなかに消えてしまうまで、わたしは先輩の後ろ姿を見つめていた。



「和泉さん、ちょっと来てもらえる?」

 部活が終わった直後、わたしは秋子先生に声をかけられた。

 なんとなく言われることを覚悟しながら、わたしは「はーい!」と返事をした。

「あの、なんですか……?」

 ピアノのそばで楽譜を持った秋子先生はわたしをちらりと見て口を開く。

「最近の合奏練習であまり和泉さんのフルートの音が聞こえてこないのだけれど、大丈夫?」

「……ごめんなさい」

 下を向こうとしたわたしに、秋子先生は笑顔のまま続ける。

「別に注意してるわけじゃないわ、だから安心して。私が聞いてる限りでは、和泉さんは音を外してたりはしてない。だからもう少しだけ自信をもって吹いてみたら?」

「はい……そうですよね」

 言われた内容は自分でもわかっていた。わたしは下唇を噛みそうになり、小さくため息をついた。

「もしかして、上手な八重樫さんが隣にいるから? それだったら試しに席を変えてみてもいいかもしれないけれど」

 話が予想外の方向にいきそうになり、わたしは焦って秋子先生の顔を見上げた。

「えっ!? ……い、いえ! わたしは先輩の隣で吹きたいです!」

 秋子先生は私の剣幕に目をぱちくりとさせ、それからゆっくりと微笑んだ。

「そう? だったら、今度の練習のときはもう少しだけ大きな音で。いいですね?」

「はい」

 秋子先生に礼をし、わたしは自分が合奏中に座っていた席へ戻った。

 楽譜台を片づけていると、楽器ケースを持った先輩がわたしを見ていた。

「どうかした?」

「その……わたしのフルートの音が小さいって言われまして」

 ははは、というわたしの乾いた笑いが気になったのか、先輩はケースを下ろして椅子に腰掛けた。

「ふうん」

 わたしの言葉の続きを待つように先輩はこちらを見上げている。わたしは片づけの手を止め、先輩の隣に座った。

「あの……先輩。どうやったら演奏に自信がもてますか?」

「自信……? 大きな音で吹くコツじゃないんだね」

 ああ、やっぱり先輩も気づいてたんだ。

 わたしは観念して大きく頷く。

「はい。その、多分自信があまりないのが原因だと思うので」

「そう。……和泉さんだったら答えはふたつかな。ひとつは練習を重ねて不安の種を減らすこと。もうひとつは『自分は大丈夫だ!』って思いこむこと。好きなのはどっち?」

「ええっと……練習する方、ですかね」

「なら頑張ってごらん。もしよければ練習方法とか教えようか? ちょうど土日を挟むし」

「それはありがたいんですけど……えっと、家で吹くと近所に迷惑がかかりそうで、あまり休日に練習できないんですよね」

「カラオケとかは?」

「たまに練習をしに行ったりはするんですけど、カラオケの狭い部屋でひとりで吹くのがちょっと苦手で……。わがままでごめんなさい」

「え? 別にいいんじゃない?」

 先輩が考えこむように顎に手をもっていき、それからわたしを見て軽く頷いた。

「ひとりは嫌なんだよね? だったら一緒に練習する?」

「え……?」

 先輩の予想外の言葉に、わたしは少しフリーズする。

「明日と明後日。私はどっちも空いてるけど、どうする?」

「え……あ、はい。わたしもどっちでもだいじょうぶです……?」

「そう。だったら明日の土曜日にしよう。狭い部屋が苦手なんだよね? もしよければ、私の家に防音室があるからそこで練習しようか」

「は……はい。じゃあ、それでおねがいします」

「ん。それじゃ、また明日ね」

「あ、はい。おつかれさまです」

 先輩が第二音楽室を出てからも、わたしの脳はしばらく止まったままだった。

「……あれ、綾乃ちゃん、ぼーっとしてる? おーい? 練習終わったよ?」

 目の前でいたずらっぽく手を振る蛍先輩を視界に映し、わたしは霧がかかったように朧気な意識をゆっくりと取り戻していく。

 明日。先輩の家で。一緒に練習。

 え……? ――――えっ!?



 ……次の日。

 前と同じ駅の改札で先輩と待ち合わせて、駅から乗ったバスを丘の上で降りる。

 それから彼女の案内で十分ほど歩くと、先輩の家に着いた。

 白く大きな家。高級住宅街に立ち並ぶ建物のなかでも一目で立派だとわかる外観。

 わたしは黙って「八重樫」という表札を見つめた。

 こうして立っているだけでも雲の上を歩いているみたいにふらふらする。わたしは昨日の帰り道からずっとこんな調子で、さっきバスの車内で先輩とした会話もろくに覚えていなかった。

 まるで夢のなかにいるかのよう。現実感が山の頂上で吸う空気みたいに薄かった。

「……和泉さん? 大丈夫?」

「あ……はい」

 ドアの近くで怪訝な顔をした先輩に続いてわたしは彼女の家に上がった。

 用意されたスリッパを履き、シャツから覗く先輩のうなじを眺めながら階段をおりる。先輩が重たそうな扉を押し開けると、そこにあったのは地下スタジオだった。

 部屋の大きさは普段部活で練習している第二音楽室くらいあるだろうか。広いからか、いかにも地下室っぽい閉塞感は皆無だ。

 棚にはCDやレコードがぎっしりと揃えられており、その近くには最新式のコンポから、アンティークながらもまだ現役そうな蓄音機が並んでいる。部屋の奥にはグランドピアノがあり、その向こうに見えるのはレコーディングルームに続く扉だろうか。

「すごい……!」

 まるでテレビのトップアーティスト特集でたまに見る自宅スタジオだ――そこまで考えて、先輩のお母さんはそのトップアーティストのひとりだということをわたしは思い出す。

「上から物を取ってくるからちょっと待ってて。そのあとすぐ練習でいいよね?」

「あ、はい。おねがいします」

 あまりの壮観にだらしなく口を開けながら、わたしは先輩に頷いた。


 結論から言おう。先輩の練習はわたしが思っていたより何倍もスパルタだった。

『違う。そうじゃなくて、ここの部分はもっと力強くなめらかに』

『指は追いついてる。意識するのは押さえる指の位置よりも息づかい。繊細に、でも弱々しくしないで』

『フォルテは乱暴に吹いていいって記号じゃない……』

『楽譜は見ていい。でも下を向かないで』

 先輩の落ち着いた声で、常時こんな感じのアドバイスが飛んでくる。わたしはそれを聞きながらなんとか言われたことは直そうとして、結果三つくらい前に注意された内容を忘れてもう一回指摘されたりしながらも、なんとか折り返し地点くらいまでは吹き終えた。

「うん。ちょっとだけ休憩しようか」

 優しい先輩の声に、わたしはここが先輩の家で、なおかつ彼女の前に居ることすら忘れてソファに背中から倒れこむ。フルートを持っていた両腕が痛い。きっと明日は筋肉痛だ。

 昨日から続いていた夢見心地はいつのまにか薄れていた。現実の先輩が休日に私服で、しかも彼女の家で私だけにレッスンをしてくれているのだ。夢なんて見ている暇はない。

 ソファーの上で両手を握ったり広げたりするわたしを見下ろして、先輩は申し訳なさそうに口を開いた。

「……ごめんね。和泉さんの演奏を少しでもよくしようとして、つい……」

「ああ、いえ。いいんです。先輩の教え方はやさしいですし、そのとおりにしたら本当にいい音が出せるので」

「そう? だったら少しだけ安心、かな」

 ふふふ、と笑った先輩がわたしのすぐ近くで腰を下ろす。彼女との距離は触れられそうなほど近い。先輩は起きあがったわたしを横目に、ストレッチするように腕を伸ばした。

 自宅ゆえか、先輩の格好はこの前見た私服よりもシンプルでラフだった。先輩が今着ている服は柔らかい素材のパンツにTシャツ一枚。フルートを吹きっぱなしで暑いのはわたしも同じで、こちらも結構前から服の袖を捲っている。

 シャツから覗く先輩の肩は華奢で、二の腕も指も白く細い。こんなすらりとした躰で汗ひとつ浮かべずに、誰よりもフルートを吹きこなせるのだからやっぱり先輩はすごい。

 そんなことを考えているというのを言い訳にわたしが薄着の先輩を見つめていると彼女と目が合った。

「どうかした?」

 彼女の無邪気な微笑みに、わたしは気になっていたことを訊ねる。

「先輩ってフルートがすごい上手じゃないですか。コンクールとかにも出たりしているんですか?」

 わたしの問いに先輩は少しだけ眉を上げ、困ったような仕草をした。

「出てないよ。……今はね」

 彼女の表情にわたしはそれ以上立ち入れないなにかを察知する。ちょっとだけ焦ったわたしが話題を変えようとすると、真横に座った先輩はクッションを抱えてこっちを見た。

「今はただ、フルートを楽しく吹いていたいから」

 コンクールに出るというのは色々と大変なことがあって、彼女はそれを経験したのだろう。住む世界が違うわたしには、その苦労を想像することすらできない。

 それでも、今の先輩がフルートを楽しんで吹いているということ。そしてその演奏をすぐそばで聴けるということが嬉しくて、わたしは胸があたたかくなった。

「和泉さんはどう? 楽しく演奏できてる?」

「はい。だって、先輩の近くで吹けてますから。わたしはそれだけで幸せです」

 わたしのストレートな物言いに先輩はまた困った顔をする。それでも、その表情は先ほどのそれよりもやわらかかった。

「……そう。それじゃ、練習の続きをしようか」

「はい!」


「――なっ!? もっ――もう一度、今の台詞をおっしゃっていただいてもよろしいですか……?」

「なんで敬語? まあいいけど。……だから、もし和泉さんがよければうちに泊まっていったら? って言ったんだけど」

 落ち着け。落ち着けわたし。まるでそれが最適解だというかのように告げた先輩の表情はあまりにも無防備だ。かわいい。かわいすぎる。……わたしはゆっくりと深呼吸をして、なんでこんな会話になったのかを思い出してみる。

 

 きっかけは練習を再開してからしばらく経ったときのことだ。

 先輩に言われて『美しく青きドナウ』の後半部をたどたどしくもわたしひとりで吹いてみたところ、それを聴いていた先輩の表情が曇った。理由はすぐわかった。わたしの高音が安定しないのだ。わたしはこれが練習不足からくるものだと思っていたが、どうやら事はそう単純じゃなかったらしい。

 しばらく先輩は考えこんで、一度基礎の基礎から練習し直したほうがいいかも、と言った。なんでも、わたしは高音をかなり無理して出しているそうだ。自分ではそれが普通だと思って吹いていたが、この吹き方だと躰に余計な負担をかけてしまうと説明された。

 吹部の楽器編成上、クライマックスにかけての主旋律は主にわたしたちフルートが担当する。そのため、少なくともここの部分は安定して吹かないといけないのだ。

 ふたりで話し合って、先輩に「……私、ひとりで吹こうか?」という提案もされたが、わたしは「いいえ。できるなら、わたしも先輩と一緒に吹きたいです」と力強く返した。

 幸いふたりとも明日の日曜日も予定がないということがわかった。だったら今日はもう夜になってしまったし、明日またこの地下スタジオで練習をしようということを決めて、ふたりはちょっとだけ遅い夕食をリビングで食べ始めた。……と、ここまでが振り返りだ。


 先輩の「泊まっていったら?」という発言をうけて、わたしは思わず箸を置いて姿勢を正した。

「よろしいんですか?」

 だからなんで敬語なの、と先輩は笑う。

「うん。部屋余ってるし、そっちのほうが和泉さんも楽でしょ?」

「えっと……はい。わたしもそっちのほうがいいというか、むしろ最高というか……。で、でも一つ屋根の下なんですよね!?」

「もしかして嫌だった? あまり使ってない離れにも客間はあったはずだけど」

「いいえ! そんなことはないです! どうか離れてないほうに泊まらせてください」

 しばらくそんな問答が続いて、わたしは先輩の家に泊まることになった。


 リビングで先輩ととりとめのない話をして、それからわたしはお風呂に入った。

 バスルームを使ったのはわたしが先だった。先輩のお家なんだから先輩がお先にどうぞと伝えたのだけれど、彼女はまだやることがあるからと一番を譲ってくれた。

 先輩へ「一緒に入りましょう」なんて冗談は口が裂けても言えず、再び浮き足立ちつつある気持ちをひとり、熱いシャワーで洗い流した。

 後になってわかったことだが、先輩の家にはバスルームが複数あったらしい。だからお先もなにも、そもそもわたしと先輩が使うお風呂は別だったのだ。……そのときのわたしが湯船に浸かりながら悶々と考えていた、ここにいつも先輩が入っているんだ……! という邪念は完全に杞憂だったのである。

 髪を乾かしたわたしは洗面所の鏡を見つめる。そこには見慣れない服を着た自分がしまりのない顔をして立っていた。

 リビングからふたりで上がってくるときに、わたしが今晩寝るためのゲストルームへ案内してもらった。本音を言えば先輩と一緒の部屋で、修学旅行みたいに寝てみたかったけれど、空いている部屋があるならしょうがない。

 客間にある物はどれも自由に使っていいからね、と伝えられていた。だから今わたしが着ているこの服も、あの部屋にあったものだ。お泊まりの用意なんてしていなかったため、正直とても助かっていた。

 バスルームを出たわたしは記憶を頼りに、帰るべきゲストルームを目指して歩き始める。

 今、この家にいるのはわたしと先輩のふたりだけらしい。先輩のお父さんは東京の事務所でお仕事、お母さんはどこかの国でコンサート――そう先輩が言っていた――をしているそうだ。

 ご両親がどちらも家を空けていることにわたしは驚いたが、先輩の話を聞くにいつもこんな感じで、ふたりとも家にはあまり帰ってこられないようだ。掃除などは週に二回ほど来るお手伝いさんにお任せしているそうで、そのひとが来られない日は先輩はひとりでこの家に居るのだという。

 ……こんな広い家で、先輩はひとりぼっち。

 彼女に寂しくないんですか? と訊くと、ちょっとだけ笑って「慣れたよ」と呟いた。

「……あれ?」

 わたしは壁に手をついて首をひねる。考え事をしながらだったからはっきりと覚えていないけれど、この廊下さっきも通ったような……?

 いや、そんなはずはない。いくらこの家が広くて立派だからといって、廊下を進めば必ず壁という行き止まりに辿り着くはず。どこかで曲がった記憶もない。だからこのデジャヴはきっと錯覚かなにかだ。

 わたしは頭のなかでメビウスの輪の立体を回転させながら、もうすこしだけこの廊下を進んでみることにした。


 勇気を出して歩き出したはいいものの、その道程は思っていたよりも短かった。

 廊下の終点にあったのは人間よりも背の高い観音開きの窓。そこから月あかりが床にさしている。わたしが近づくと、月光はぼんやりと影をつくった。

 何気なく触れた窓の窓枠が動く。鍵は開いていた。

 わたしはそっと窓を開け、なにかに導かれるようにその先のベランダへと足を踏み入れた。

 外に出ると、濃藍の星空が広がっていた。今日の空は澄んでいるのか小さな輝きもたくさん見えている。この綺麗な夜空を先輩と一緒に見上げてみたい。そんなことを考えながら、わたしはもう一歩足を進めた。

 ここを管理している人の趣味なのだろう、テラスには様々な花や背の低い木が植えられていた。

 上空には月と星々が、眼下には街の明かりが煌めいている。まるでここは、秘密の空中庭園のようだった。

 言葉を失うほどの美しさで心をいっぱいにしていると、向こうからなにやら人の声が聞こえた気がした。わたしはそちらに足を向ける。

「………………だから……」

 奥の方から漏れ聞こえてくる声。……これって!

 音を立てないように歩く。続いて感じたのは、街のにおいにまざったバニラの香り。

「…………別に私は……」

 これは先輩の声だ。誰かと話してるのだろうか、声の調子には、やや聞き慣れない響きが含まれていた。

「……だから、そっちに決めてもらうなんて誰も……」

 わたしは声の聞こえるすぐ近くまで近づき、植木のすきまからそっと向こうを覗いた。

 そこにいたのは予想通り先輩だ。彼女はテラスのフェンスに寄りかかり、こちらに背を向けた格好で立っている。左手は携帯電話を持っていて、これで誰かと通話しているようだ。

 一体、どんなひとと? いつも穏やかな先輩が、電話口の相手には結構強い口調を使っている。ご家族の方だろうか。

 そこまで考えて、今のわたしは先輩のプライベートを覗き見しているのだということに気づく。そんなことされたら良い気分にはならないだろうなと思い、そっと離れようとした先輩の右手の指が持っているものにわたしは釘付けになる。

 それは――。

「…………えっ!?」

 ――火のついた紙巻き煙草、だった。

 思わず出てしまった驚きの言葉にわたし自身がびっくりし、急いでこの場から立ち去ろうという焦った気持ちは、すぐ近くの植木をがさがさと音を立てさせるのに十分だった。

 ゆっくりと先輩が振り向く。わたしは一歩も動けなかった。

「あ……あの、その……」

 口をぱくぱくと動かすわたしをちらりと一瞥した先輩は冷静に電話を切った。

「……和泉さん? どうしたの、こんなところで」

 彼女は右手の煙草をテラスに置いた灰皿で消し、それからゆっくりとこちらに近づいてくる。

 言葉にならない音を呟いていたわたしの手を取り、先輩はにっこりと笑う。先輩に腕を引かれてわたしは木陰から月光の下に誘われ、まるでダンスを踊るかのように抱き寄せられた。

「あの、せんぱ……」

 わたしが開けた口を先輩は指を一本立てるだけで封じ、ずいと彼女の顔がこちらに迫ってくる。

 触れられるどころか、身動きひとつしたら触れてしまいそうな距離。かすかな月光を纏った表情の影が、前髪の奥で妖しげに細められた視線が、わたしと同じシャンプーの匂いにまじる煙草とバニラのにおいが、唇に当てられた先輩の細い指が、早鐘を打つ心臓を溶かしてしまいそうな冷たい笑みが、わたしを絡めとっていく。

「ひみつだよ」

 わたしの耳元に囁かれた声は星を落としてしまいそうなほど甘く、月を隠してしまいそうなほど強く響いた。その一言はどこまでも蠱惑的で、もう夜空なんてどうでもよかった。

 

 わたしは先輩のひみつを知ってしまった。



 熱っぽい息を吐いて、わたしは何度目かわからない寝返りを打った。

 おとなしく客間のベッドに入って寝ようと決めてから数時間。ようやく眠れたと思ったら夢に先輩が出てきて飛び起きるのを繰り返し、今は日付が変わって少し経った時刻だった。

 ……寝れない。

 ふわふわのベッドと柔らかい枕に躰を沈めても、右腕に残る先輩に掴まれた感触は消えそうになかった。

 わたしはのそりと起きあがる。

 たしか、キッチンの冷蔵庫にわたしが買ってきたお茶がまだ残っていたはずだ。リラックスするためにそれを飲みに行こう。

 冴えてしまった頭を振って、わたしは廊下に出た。

 階段で一階に降り、明かりの消えた廊下を歩く。

 今度こそ迷わずに辿り着いた。わたしは冷蔵庫を開け、ペットボトルを持って部屋に帰ろうとした。

 客間に戻るため階段に足をかけたところで、地下スタジオに続く階段の先が光っていることに気づく。

 電気の消し忘れだろうか? わたしは眉をひそめ、静かに階段をおりて確認する。すると、スタジオの中の電気が点いていて、そこの明かりが洩れているのがわかった。

 スチールの扉をゆっくりと押し開ける。誰もいないと思っていたのに、スタジオには先輩がいた。

 思わず息を呑む。どんな言葉を口にすればいいだろうと逡巡するも、よく見ると先輩はベッドに横になったまま動かない。どうやら、彼女は寝ているようだった。

 わたしは先輩を起こさないようにそっと中に入った。

 ソファの近くにある机に彼女のフルートと楽譜の束が置かれている。わたしはそこに近づき、何気なく楽譜を手に取った。

 それはわたしも見覚えのある、『美しく青きドナウ』のパート譜だった。

 わたしの楽譜と違うのは、その余白のほとんどが先輩の書いたメモで埋まっているというところだ。ブレスのタイミング。注意するところ。他のパートの様子。そんな文字でびっしりだった。

 しかもこれは、普段先輩が使っている楽譜とは別のものだ。メモ用としてもう一部用意しているのだろうかと考えて、わたしのページをめくる手が止まる。

 これ、もしかして……。

 急いで最後まで目を通す。……うん。間違っていない。これは、ここに書かれたメモは、全部わたしにアドバイスするためのものだった。

 どこを気をつけたらいいのか。何に気を配ればいいのか。

 ここに書かれている文字はすべて、すべてわたしのために書かれていた。

 先輩の金のフルートの横には先の丸まった鉛筆が何本も置かれている。きっと先輩はついさっきまで、この鉛筆でメモをしていたのだろう。

 先輩は、寝る時間を削ってわたしのために……。

 その献身にわたしの心は切ないほどしめつけられる。

 わたしはソファで寝ている先輩を見つめた。

 端正な顔立ちに無垢な少女の色が差したような相貌。そんな彼女が無防備な寝顔をさらしていた。

 紅い唇に視線は釘付けになり、わたしは胸の前で手を握る。耳の奥からは心臓が高鳴る音しか聞こえてこない。まばたきすることすら忘れて、わたしはゆっくりと息をもらした。

 突然、スタジオに耳慣れない電子音が響いた。

 わたしは素早くあたりを確認する。オルゴール調の『トルコ行進曲』。それは、机上に置かれた先輩の携帯電話から流れる着信音だった。

 こんな大きな音がしたら先輩が起きてしまう。わたしは彼女の携帯を手に取り、画面を見た。

 そこに表示されていた名前は〝梓〟 。

 その一文字を見た瞬間、わたしの心がざわめいて、気づいたら電話を切っていた。

 どうして先輩は二条部長を下の名前で登録しているんだろう。なんでこんな時間に電話をかけてきたのだろう。そしてなぜ、わたしはこの電話を切ってしまったのだろう。そんな疑問が浮かぶたび、わたしの鼓動は速くなっていく。

 携帯を置いて、わたしは先輩の様子を確認する。……大丈夫。先輩は気づかなかったようだ。

 先輩の穏やかな表情を見て、わたしはゆっくり深呼吸をした。

 ひとつだけ、気づいたことがある。

 電話を切ったのは、幸せそうな先輩を独り占めしたかったからだ。

 赤く染めた頬のまま、わたしは小さく笑う。

 年月が育てた憧憬でも、一瞬の燦めきでもない。まさか他の人を意識して、それで誰にも渡したくないという想いを自覚するなんて。

 祈るように両手を組んで、星の光すら見ていない場所でただひとり、貴女に向けてわたしは口を開く。


「――わたしはせんぱいが、すきです」



 先輩の家でのお泊まりから少し経った日の昼休み。

 ベンチに座って葉がほとんど落ちた木々を眺めていると、背後から聞き慣れた声がした。

「お、綾乃だ。元気?」

 挨拶代わりに手をひらひらと揺らし、藤花がわたしの隣に座る。

「うん。藤花は?」

「まあ、そこそこ。……ねえ、ほんとに元気?」

 冬制服の黒いワンピースを着た藤花が心配そうな顔でこちらを見つめてきた。

 季節はすっかり秋。夏のなごりはいつの間にか秋風が拭い去って、朝夕は静かな冬の気配を感じられる頃になっていた。

「元気だよ? なんで?」

 わたしはなんでもないような仕草で首をかしげる。

「だって……なんか最近の綾乃、ずっと考えごとしてる気がするから」

「そう?」

「うん。……もしかして、あの高辻って先輩になにかされたりした?」

 藤花は神妙な表情でそんなことを言った。

 思わぬタイミングで出てきた蛍先輩の名前に吹き出して、わたしは笑いながら首を横に振る。

「蛍先輩に? ううん、なにもされてないけど、どうして?」

「だって危険そうだから。なにもないのならそれでいいけど……」

「蛍先輩はいつもあんな感じだけど、中身はちゃんとしてるひとだよ」

「そうかなあ」

 何故か納得いっていない様子の藤花を見て、わたしはふふふと小さく笑った。

「……だったら、八重樫さんとのことで悩んでる?」

 髪を耳にかけようとしたわたしの手は藤花の一言でフリーズする。努めて冷静な風を装って、わたしは口を開く。

「……どうして?」

「どうして、って……。最近、綾乃が彼女のこと全然話さないから」

 わたしは藤花に気づかれないように、ゆっくりと息を吐いた。

 あのお泊まりで得たふたつのたからもの。先輩のひみつとわたしの想い。そのどちらも、今は心のなかの引き出しにしまいこんでいた。

 いつかはきっと向き合わないといけない、大事な大事なたからもの。

 でもそれは今じゃなくてもいいはずだ。

 それまではわたしひとりで鍵をかけて、心の奥底に隠しておこう。

 少なくとも文化祭公演が終わるまでは。

 そう、決めていたから。

「パート練習でソロを吹く先輩がかっこよかったって、昨日だって話したじゃない」

「そうだけど。なんか、最近の綾乃がする彼女の話はどれもエッジが効いてないというか」

「なにそれ。というか、わたしの話ってそんなに鋭利だった? 結構マイルドなつもりだったんだけど」

「……いやいや」

 藤花は何言ってるの? という表情で首を横に振った。

 ……その反応、ちょっとだけ傷つくなあ。いやわたしも悪かったとは思っているけど。

 なんにせよ、この話題が続くとわたしが苦しい。わざとらしく咳払いをひとつ、指を立てて片目を瞑った。

「そんなことより、文化祭は今週の土日だよ? 藤花も部活でなにかするんでしょう? そっちこそ大丈夫なの?」

 藤花の所属する科学部は文化祭で自由研究の発表と簡単な実験をするのだと聞いていた。彼女はそっちの準備が忙しいらしく、こうして昼休みに顔を合わせて話すのも最近は週に一、二回くらいの頻度になっていた。

「うーん。私は実験をまとめたりはしないからまあなんとかなると思う。綾乃がいる吹部の方は?」

「練習と特訓をきっちりとやったおかげで、こっちもようやくかたちになりそう。わたしもほとんど間違わないで吹けるようになってきたし」

 秋子先生と二条部長、それから八重樫先輩を中心とした練習。それから休日に有志で集まって苦手を克服する特訓。このふたつをやり続けていたところ、最近の吹部の演奏はわたしでもわかるくらいに良くなっていた。本番まであと数日。つい昨日の部活では蛍先輩が「これなら弦部に勝てるね」なんて軽口をたたいていた。

「そっか。合同公演は日曜日だったよね。楽しみにしてる」

「うん。ぜひ聴きにきてよ」

 藤花はもぐもぐとコッペパンを食べていたが、突然なにかを思い出したかのように手を叩いた。

「そうだ。ねえ綾乃、後夜祭のことって知ってる?」

「後夜祭? たしか誰かがそんなこと言ってた気がするけど……どうして?」

「部活の先輩から聞いたんだけど、後夜祭は私服オッケーのパーティなんだって」

「ふうん、そうなんだ。パーティかあ」

「なんか、舞踏会みたいなパーティらしいよ」

 そう聞いて、わたしはドラマで見るような、セレブの人たちが集まる社交パーティを想像する。この花菱ならそれもありえそうだと思えるのが、この学校のすごいところだ。

「それは……すごそうだね」

「先輩のひとりはドレスを着るって言ってた。ねえ、綾乃も着飾って行く?」

「後夜祭は日曜日なんだよね? だったらわたしは制服のままだと思うよ。吹部の演奏はこの服で揃える、って決まってるから。藤花は?」

「私もこの服にしようかなあと思ってたんだけどちょっと迷ってて。文化祭終わった後でお色直しの時間もあるらしいし。でも、この制服だって結構かわいいんだよね」

 藤花の話を聞きながら、わたしは八重樫先輩がパーティでもし着飾るとするなら、どんな服が似合うだろうかと想像してみる。落ち着いた色のパーティドレスはぴったりだろうし、カジュアルなワンピースでも、すらっとしたパンツスタイルでも彼女は着こなすだろう。ああでも、ドレスなら結婚式に着ていくようなイブニングドレスでも……。

「――綾乃、聞いてる?」

 藤花の声にわたしは我に返る。いけない。妄想の世界に入りこみそうになっていた。

「ごめん。聞いてなかった」

「もう。……ね、少しは元気出た?」

 にっこりと笑った藤花に、わたしは微笑んで返す。

「うん。ありがとね」

 まずは後夜祭よりも文化祭の合同公演だ。文化祭までもう少し。わたしは気合いを入れ直すため、ゆっくりと深呼吸をした。



 夢を見ていた。

 見上げると、星のようなライトがわたしを照らしている。

 まぶしい。

 ゆっくりと視線を下ろすと、指揮者が指揮棒タクトを構えていた。

 ここはステージの上。目を動かすと、観客席に座るたくさんのお客さんがわたしたちをじっと見つめていた。

 わたしの隣には八重樫先輩。金色のフルートを構えた彼女はわたしの視線に気づき、唇だけで微笑んだ。

 演奏が始まった。

 吹くのは『美しく青きドナウ』。二条部長や蛍先輩の旋律に合わせながら、わたしは八重樫先輩さながらの指使いで演奏をリードしていく。

 先輩の出す音とわたしの音が重なり合い、ユニゾンを奏でる。どこまでも高く、はるか先まで届かせるように。

 転調。

 ちらりと客席を見た、その瞬間わたしの息は止まる。

 二階席に座っていた人物。それは、中学生のわたしだった。

 彼女は隣にいる先輩を心奪われたように見ていた。

 これは、夢。

 中学二年生の秋。吹奏楽コンクールの地区大会。

 わたしが初めて先輩を見た、あの記憶だ。

 あのとき思った願い。

 ――このひとと、いつか一緒に吹いてみたい。

 その夢を叶えるために。

 昨日までの夢を、今日現実にするために。

 午前六時半。文化祭二日目の朝。

 わたしはゆっくりと目を開けた。



 

 記念講堂の舞台裏。吹奏楽部の面々はそこに集まっていた。

 今は合同公演の本番直前。吹部のひとつ前の発表団体である管弦楽部の演奏が始まったところだった。

「弦部の演奏時間は十七分。この次が私たちの順番ですからね」

 わたしたちの服の色と同じ黒の衣装を着た秋子先生はそう告げた。

 次。……もう次かあ。

 息が詰まるような思いで両手を握りしめていると、横にいた八重樫先輩がわたしを見た。

「緊張してる?」

「は……はい」

「大丈夫。和泉さん、練習頑張ってたから」

 ね? と先輩が微笑む。その笑顔だけで、わたしの張りつめた心の弦はほぐれていく。

「ありがとうございます、先輩」

 八重樫先輩が頷く横で、いつもの調子の蛍先輩が一年生の部員に話しかけていた。

「ほらほら、大丈夫だって。昨日のリハも完璧だったじゃない。へいきへいきー」

 小声で互いを元気づけていると、実行委員の人が近づいてきて指示を出した。それに頷き、副部長の山里先輩が部員たちに声をかける。

「時間です。落ち着いて舞台袖まで移動しましょう」

 その声にわたしたちが反応したとき、管弦楽部の三曲目が流れてくる。

 弾むようなスネアドラムの音。打楽器の音に合わせ、勇ましい演奏が聞こえてきた。

「――『ラデツキー行進曲』。プログラムにシークレットの曲があると思ってたけどこれとはね。演出がすぎるよ、まったく」

「演出?」

 やれやれと首を振った蛍先輩にわたしが訊ねると、かわりに隣を歩く八重樫先輩が答えた。

「作曲者はヨハン・シュトラウス1世。彼は『美しく青きドナウ』をつくったヨハン・シュトラウス2世の父親」

「なるほど……」

「加えて『ラデツキー行進曲』は戦勝を祝した曲です。一方、『美しく青きドナウ』はとある敗戦で意気消沈した市民たちの心を癒やしたと言われています」

 最後尾の山里副部長がした解説にわたしは納得する。

 演奏に合わせて聞こえてくる観客の手拍子。わくわくするような曲の調子は、会場を盛り上げていることだろう。

「でしたら彼女らには私たちのためのつなぎになってもらいましょう。真打は誰なのかを魅せるチャンスです」

 前で立ち止まった二条部長が不敵な笑みを浮かべた。

 舞台裏、楽器の準備ができたわたしたちは円を描くようにして集まり、互いの顔を見合わせる。

「凛、一言挨拶を」

 そう言われて八重樫先輩が口を開く。

「練習は十分に重ねてきました。今の吹奏楽部にできる最高の『美しく青きドナウ』を奏でましょう」

「ええ。響かせましょう――私たちの吹奏楽を」

 ちょうど管弦楽部の演奏が終わり、拍手が聞こえるなか、部長の言葉にわたしたちは力強く頷いた。


 幕が、上がった。

 指揮台に立つ指揮者の秋子先生が代表して礼をする。

 黒のワンピースで身を包んだわたしたちは大きな拍手で迎えられた。講堂は満席。奥には立ち見している生徒もいるくらいだ。

 奥の方の客席に藤花が座ってるのを発見する。急いで来てくれたのか、部活の白衣を着たままだった。

 秋子先生がこちらを向き、わたしたちを見渡してから指揮棒を構える。

 瞬間、講堂の空気が変わった。

 期待のまじった沈黙を肌で感じる。それに身を任せるように、わたしは大きく息を吸った。

 ゆっくりと振り下ろされる指揮棒。まずは部長のサックスが音を出し、続けてわたしたちフルートが演奏に加わる。

 静かに。そして優雅に。ドナウ川の水面のように。

『あの、先輩はいつもどんなことを考えて曲を吹いているんですか?』

 先輩の家での特訓のとき、わたしはそんなことを訊いた。

 先輩は少し考えて、フルートを構えたままこちらを見た。

『そうだね。私はよく、曲のイメージを考えながら吹いてるかな』

『イメージ?』

『自分が楽譜から感じたこと。タイトルから思ったこと。あるいは作曲者はこう考えたんだろうな、っていう想像。なんでもいい』

『だったら……今練習してるこの曲なら、川の流れとかですか?』

『和泉さんがそう感じたなら、それを想像して吹けばいい。そこに正解はないけれど、それが演奏者の〝色〟になる』

『色、ですか』

『楽譜をどう解釈し、音をどうやって繋げるか。それを表現するのが演奏。さらにそれらを束ねて織りなすのが合奏。……大丈夫。和泉さんにもできるよ』

 わたしはイメージする。雄大に流れる大河を。

 わたしが吹く音は一滴の雫。それは人知れず滴り落ちる源泉の雫。紡ぐように手繰り寄せ、流れるような調べを奏でる。

 やがて小さな流れは岩をも削る激流となり、合流を繰り返して一本のうねりとなり、海にそそぐ川面は空を映す水龍の背となる。

 転調。わたしは息を吸った。

 ブレスのタイミングが隣の先輩とぴったり合っている。ふたつの音色は混ざり、ひとつの清流として響かせる。

 背後から追いかけてくる蛍先輩のシンバルの音。

 舞うように。流れるように。

 部員十八人の演奏をひとつに合わせ奏でる。

 前を向く。胸を張る。

 わたしたちはひとつの大河。美しく青き大河。

 ラストは激しく。包みこむように。圧倒するように。

 最後の一音を吹き終わり、指揮棒を下ろした秋子先生が満足そうな顔で大きく頷くのが見えた。

 一瞬の静寂に包まれた講堂。それが拍手喝采へと変わり、わたしたちは賞賛の嵐を浴びた。

 秋子先生が壇上から降り、深く礼をする。さらに大きくなる拍手。座ったまま頭を下げるわたしがちらりと横を覗くと、先輩は全て出し切った表情をしていた。

 彼女の満ち足りた顔を見て、わたしは胸に手をあてて微笑む。

 あの日、先輩がみせた悔しげな表情。それをようやく――笑顔にすることができた。

 ゆっくりと幕が下りる。その最後の瞬間まで、拍手の音が止むことはなかった。

 吹奏楽部の文化祭合同公演。『美しく青きドナウ』の演奏は、こうして大成功に終わった。



 文化祭がつつがなく終了し、完全招待制のお客さんたちが帰った後。

 まっしろな月が夜空にのぼる頃、本校舎と旧校舎の中間にある大ホールは静かな熱気に包まれていた。

 非日常な雰囲気のなかで会話に花を咲かせる少女たち。ステージで出し物をする人々。彼女らの間を縫って給仕役を務める実行委員。主催者側・参加者側ともに花菱女学院の生徒だけで構成された後夜祭。二日間の文化祭を締めくくる最後のイベントが今、ここ――大ホールで開かれていた。

「うわあ……帰りたくなってきた」

 人の多さに思わず入口でUターンしようとした藤花を掴まえて、わたしたちはホールに足を踏み入れた。

「すごい……!」

 会場内は藤花が言ったとおり人であふれている。立食パーティー形式で、あちこちに人の輪ができていた。

「お金持ちが開いた結婚式の披露宴みたい……いや、行ったことないけど」

「ああ、なんとなくわかるかも」

 そう同意してわたしは笑う。

 ぐるりと見回してみると、わたしたちのように制服の黒ワンピースを着ているのは半分くらい。残りは少しだけ気をつかった私服からパーティに身につけていくようなドレス、正装に近い格好で着物を着こなしているひとまで多種多様だ。

 黒百合の花畑から花弁を覗かせる、色とりどりの一輪花たち。上から見たら、きっと花束みたいで綺麗だろう。

 ウェイターさんから色鮮やかなドリンクをもらい、ふたりで形だけの乾杯をする。壁側に移動してから細いグラスを傾けると、それは甘いノンアルコールカクテルだった。

「綾乃、今日は演奏おつかれさま。私は上手い下手とかはわからないけれど、さっきの演奏はすごくよかったと思う」

「うん、ありがとう。客席にいる藤花のこと、ちゃんと見えたよ。白衣着てた」

「ああ……うん。なんか、フルートを吹いてるときの綾乃、すごくかっこよかった」

「えへへ、そっかあ。ありがとう。プラネタリウムで解説をする藤花もかっこよかったよ」

 事前に藤花から告知されていた時間に科学部の部屋に行くと、ちょうどプラネタリウムが上映されるタイミングだった。案内されるまま科学棟の普段行かない部屋に入ると、そこには藤花がいて、彼女はプラネタリウムを上映しながら二十人くらいの前で冬の星座について話してくれたのだ。

 親友が普段見せない頑張っている姿。クールな彼女の熱をもった一面を発見できたような気がして、わたしはそれが嬉しかった。

「……そう。ありがとう」

 照れ隠しのためか、藤花は明後日の方向を見た。

 わたしが肩をすくめてステージに目をやると、なにやらシルクハットを被った生徒がトランプを周囲の人たちに見せている。なんだろう。カードを使ったマジックだろうか?

 気になるので藤花を誘って近くに行こうとすると、誰かがわたしの肩を叩いた。

「……はい?」

 振り返ると、男性もののスーツを着た蛍先輩が片手を上げて立っていた。

「やあ、綾乃ちゃん、藤花ちゃん。楽しんでる?」

 黒のタイ以外は白いスーツの上下。細身のパンツが蛍先輩のすらりと伸びた脚に合っている。キメすぎているようでちゃんと着こなしている、いかにも彼女らしい格好だった。

「蛍先輩! こんばんは。あれ、さっきから居ました?」

「いやあ、愛しの子猫キティがなかなか離してくれなくてね。ついさっき来たところ」

「……? はあ」

 ドリンクを受け取るついでに軽くスタッフをナンパしつつ、蛍先輩はわたしの目線にグラスを掲げて笑った。

「どう? このパーティ、初めての一年生は面食らったんじゃない?」

「ええ。なんか……〝社交界〟って感じがしますね」

「たしかに」

 ふふふ、と蛍先輩は唇を上げて遠くを見た。

「この学院がもっと御嬢様学校だった頃。この後夜祭は一年で一回だけ、生徒たちが羽を伸ばして楽しめる行事だったらしいね。もっと昔は下級生が上級生に話しかけるのにも守らないといけない決まりがあったそうだし。でもこの後夜祭だけは無礼講……と言っていいのかな。結局、綾乃ちゃんが言ったとおり、社交界の縮図みたいなパーティだったらしいよ? それが今は形だけ残ってる。……まあ、今でもその名残はあるみたいだけど」

 そう言って、蛍先輩は顎で遠くの人だかりを差す。そこには、赤のドレスに身を包んだ二条部長と――。

「――もしかして、八重樫先輩!?」

 部長の隣でいかにも面倒くさそうに立っている女性。黒いドレスを着ているそのひとは、間違いなく八重樫先輩だった。

「え? なんで先輩があんな格好を?」

「天才フルート奏者、八重樫凛の復活。梓はそれを色んな人に見せたいんじゃない? まったく、彼女らしいよ」

 どうしよう。あのドレスの先輩は絶対にかわいい。

 近づいてみたいけれど、そんなわたしは邪魔に違いない。うーんと少し考えて、わたしは蛍先輩を見た。

「ん? どうしたの、綾乃ちゃん。もしかして略奪? 略奪愛?」

 わかっていながら微妙に外してそうな蛍先輩の発言に渋い顔をしていると、後ろでわたしを軽く押す人物があった。

「行ってきたら? 私は平気だから」

「藤花?」

「たぶん、そっちの方がふたりとも楽しそうだし。私も部活の方のグループに顔出さないとだろうから」

「……ありがとう」

 小さく手を振る藤花にわたしは微笑んで応えた。

 さて、先輩はどこにいるだろう……と思って視線を動かそうとすると、蛍先輩が「ついてきて」と言うようにウインクした。

「やあやあ、梓、凛。ふたりともおつかれさま」

 蛍先輩はわたしを何気なく誘導し、するりと人の輪の中に入った。

「あら、蛍。それに和泉さん。貴女たちこそおつかれさまでした」

 部長の声に反応したのか、副部長の山里先輩も輪の中に加わる。なんとなく吹部の人間が集まると、他の人たちはそっと離れた。

「どうしたの? みんな着飾っちゃって」

 副部長も落ち着いた色のワンピースを着ている。この五人のなかで、制服はわたしだけだった。

「蛍だけには言われたくないよ、はあ……。私は梓に頼まれて仕方なく」

 八重樫先輩はあからさまに不本意な表情をつくった。

 彼女が着ているのは黒のロングドレス。袖のついたものなのでゆったりとした印象だが、躰の線が強調されない長いスカートは下半身を優雅に演出している。パーティ用のメイクをしているのか、引いているリップが普段よりも紅くどきりとさせられた。

「……おやー? 可憐な花が揃っていると思ったら、吹奏楽部ですか。ふふふ、こんばんは」

 そう言いながら、見知らぬ女性が着物姿で近づいてくる。誰だろうと思っていると、部長が口を開いた。

西御門にしみかど部長。ええ、こんばんは」

 どこかで聞いたことがある名前のような。はて、どこでだろうと首をかしげていると、そっと蛍先輩が耳打ちしてくれる。

「西御門あおい。管弦楽部の現部長」

 なるほど、彼女が噂の管弦楽部の部長さんか。

「みなさんの演奏は舞台袖から聞かせていただきましたよー。『美しく青きドナウ』、とっても綺麗でした」

「ありがとうございます。そちらの演奏も、素晴らしかったです」

 二条部長の言葉に、西御門さんはふわりと笑う。

「そうですかー。それではひとつ、余興でもどうですか?」

 そう提案し、西御門さんが部長に楽器ケースを渡す。一瞬、部長は躰をこわばらせたものの、すぐに笑顔を浮かべて頷いた。

「ええ、そうしましょうか」

 ふたりはステージに向かって歩いて行く。残された部員たちはその様子を不思議な面持ちで見ていた。

 二条部長がケースから取り出したのはヴァイオリン。彼女はそれを慣れた手つきで顎の下で挟み、弓を構えてみせた。

 ステージの上のふたりが視線を交し合い、西御門さんのリードで演奏が始まる。

 弾いている曲はバッハの『G線上のアリア』。静かな湖畔を小さなボート一隻で進むような、綺麗な音色が聞こえてくる。

 それにしてもわたしが驚いたのは、二条部長のヴァイオリンの腕前だ。彼女の演奏は西御門さんに引けを取らないほど上手だった。

「ふたりともお上手ですね……」

「梓は元々ヴァイオリンを弾いてたからね。彼女がサックスを吹きはじめたのは旧吹部が分裂してからだったし」

 蛍先輩は小さく笑い、懐かしむように目を細めた。

 寄り添い合うように、高め合うように聞こえてくるふたりの演奏。会場の視線と耳を自然と集める彼女たちを見て、わたしは蛍先輩が西御門さんを『やり手』と表現したことに納得がいった気がした。

 不和とされていた吹部と弦部、両部長による二重奏。それは、後夜祭にぴったりの演目だった。

 演奏が終わり、大ホールは拍手に包まれた。

 二条部長の目の合図でわたしたちはステージに近づこうとする。そのわたしの手を、誰かが掴んで引っ張った。

「――八重樫先輩?」

 彼女は指を一本立て、静かに、というジェスチャーをする。

「ねえ、ちょっと夜風にあたりに行かない?」

 内緒事のように笑う先輩の表情を見て、わたしは一も二もなく頷いた。


 黒いドレスを着た先輩とふたり、わたしたちは誰もいない夜道を歩いている。

 ホールから出たすぐ外で休憩するのかと思いきや、先輩は夜の学校の道をずんずんと進んでいく。先輩にパーティに戻る気はなさそうだった。

 間隔を開けて光っているレトロな街灯は心もとなく、星と月の明かりがぼんやりとわたしたちを照らしている。

「あの……先輩。後夜祭に戻らなくていいんですか?」

 そうわたしが訊ねると、先輩は進む足をそのままに頷く。

「退屈だったし、あのままあそこに居たら、わたしまで吹かされそうだったから」

 きっと梓がうまくやってるよ、と加えて、先輩はちらりとわたしを見た。

「……ごめん、和泉さんはまだ楽しんでいたかった?」

「わたしは先輩がいるなら、どこでも」

「そう」

 先輩はそれきり口を閉じ、星明かりを頼りに歩く。

 わたしも黙ってそれに従う。温室を通り過ぎたところで、なんとなく彼女の目的地がわかった。

 レンガでできた小さな建物。学校の外れにある古いチャペル。

 わたしと先輩が、再会した場所。

 鍵は開いていた。

 明かりのない室内に夜の明かりが朧気に差しこんでいる。真っ暗闇ではなく、近くの人の顔が微かに見えるくらいの暗さだった。

 先輩が木製の長椅子に座る。彼女は疲れたのか、ふう、とため息をつき、曖昧な表情でわたしを見上げた。

「……先輩?」

「今日の演奏、評判良かった」

「え? あ……はい。そうですね。最高の演奏だったと思います」

 先輩がこちらに向かって手招きをした。それに従い、わたしは彼女の隣に座る。

「八重樫麻衣が和泉さんのこと言ってた。『楽しそうに吹いてる』って」

「え!? 先輩のお母さんも文化祭にいらしてたんですか? えへへ、嬉しいです」

 現役のプロに褒められてしまった。テンションが上がる一方で、隣の先輩がいつもよりも無口なことにわたしは気づいた。

「……えっと、先輩?」

 先輩の横顔に憂いの表情がまじっている。彼女は流し目でわたしを見て、唇を上げてみせた。

「和泉さんはわたしが吹くフルート、すき?」

「はい!」

 その問いには即答できる。わたしは大きく頷いて、先輩を見た。

「……そう」

 先輩は寂しそうな笑みを浮かべている。

 どこか人を寄せつけない、いつもの先輩の立ち振る舞い。

 けれど今夜は、手を伸ばせば彼女に届きそうで。

 隙だらけの先輩に、わたしは触れる。

 指先から伝わる彼女の体温。

 寒いのか。寂しいのか。先輩の躰は震えていた。

 その瞬間、わたしは理解する。先輩が欲しいのはわたしの言葉や想いじゃなくて、誰かのあたたかさなのだと。

 だったら、わたしが。その誰かに――。

 わたしは先輩を抱きしめた。

 拒絶はされなかった。かすかに感じるバニラの香り。

 わたしはそっと先輩の顔を見上げた。物悲しさをたたえた彼女の瞳。そこにわたしが映っている。

 こんなに近くにいるのに先輩の表情が読めない。驚いているのか、嫌なのか。

 彼女の目にわたしがいるはずなのに、先輩はわたしを見てくれない。

「りん……さん」

 こっちを向いてほしくて、わたしは先輩の下の名前を口にする。

 先輩は少しだけ目を見開き、それからわたしの顔に焦点を合わせた。

 複雑な表情に戸惑いの色が覗く。それを消したくて、わたしはもう一度腕に力をこめる。

 わたしだけはすべてを受けいれると。そんなどうしようもない笑みを浮かべながら、崩れるようなハグをした。

 視線が交差する。先輩は悲しそうな笑顔をつくって、両手でわたしを受けとめた。

 互いの服の黒が重なり合い、夜の海みたいに静かに広がる。

 衣擦れの様子は凪のみなものように。ふたりの呼吸は寄せては返す波のように。

 もう一度、わたしと先輩の目が合った。

 それだけですべてがわかった。

 わたしは黙って先輩を見上げ、目を閉じる。

 少しだけ、彼女の鼓動が速くなっていることにわたしは気づく。

 それがとても嬉しくて、わたしはスカートの裾をそっと握った。

 先輩の息づかいを感じた瞬間、せかいはわたしたちを取り残して、少しだけ静止する。

 ふたりぼっちのまま、このせかいが終わってしまえばいいのに。

 ぎゅっと彼女を抱きしめると、唇にやわらかいものが触れた。


 

 はじめてのキスは、少しだけ煙草の味がした。

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