春を待ちながら

葛瀬 秋奈

第1話

 ぱきり。


 軽い音を立てて足元の枯れ枝が折れた。ここ数日は雨も降っていないせいか、森の中の落ち葉も枝もよく乾いている。歩くにはちょうどいいが、そろそろ日も暮れてきた。


 今日はもう休むべきだ。


 テントを立てて火を焚き、野営地を作る。故郷を出てから随分経つ。一人のキャンプも慣れたものだ。ただ、身を切るような風の冷たさには、いつまでも慣れることはなさそうだった。


 遠い異国の地には、冬でも花の咲き乱れるような暖かい場所があると、昔なにかの本で読んだことがある。あるいは幼い時分に母親が読み聞かせてくれた物語かもしれないが、よく覚えていない。いずれにしろ、この国にはそんなものないのだ。


 カップに注いだホットミルクに口をつける。飲み込むにはまだ少し熱い。


 かつて、自分の暮らす街が、ちっぽけな箱庭のように思えたことがあった。きっかけはもう覚えていないが、何故かそれがどうしても許せなくて、海を見に行こうと思い立ち、実行した。それまで街から出たことなどなかったが、どんな川でも必ず海に流れ着くことは知っていたから大丈夫だと思った。


 そうやって旅に出て、あれから一度も故郷には帰っていない。思った以上に大変な道程ではあったが、結果として海を見ることには成功した。目的を果たしたのだから帰っても問題はないはずだった。


 けれど僕はそうしなかった。故郷ではまだ僕の家族や友人だった人が帰りを待っているかもしれないのに。


 そうして僕は家にも帰らず、ずっとあてもなくこの国を旅している。


 幸い楽器が多少弾けたので路銀には困らなかった。繰り返し訪れる街はあるが、我が家と呼べるものはもはやない。歓迎はされるが信用はされない。どこへ行っても僕は余所者だ。別に人嫌いなわけでもないが、それぐらいの距離感が心地よかった。結局のところ、僕は怖かったのだと思う。期待させて失望されることが。


 ホウ、と少し離れたところから声が聞こえた。鳥だろうか。フクロウの仲間かもしれない。目を凝らして木々の間を探して見たが、暗くてよくわからなかった。フクロウは本の挿絵でしか見たことがないから見てみたかったのだが。


 落胆のため息を吐き出しながら自分に嫌気がさした。失望されるのが怖いと思いながら、自らもまた勝手な期待を抱いていることに気づいてしまったからだ。


 この事実に気づかなければ僕は平和でいられたのだ。あるいは、余計な欲を抱かずに声を聞いただけで満足していれば幸せですらあったのかもしれない。しかし現実はそうならなかった。これこそが僕の業なのだ。


 僕を落胆させ、今もなお脅かしている不都合な真実。それはこの国の外に出られないということだった。川下には確かに海があったが、国の許可なく勝手に船を出すことはできない。出たとしても一般市民は乗ることができない。それ以外の陸地は全て高い塀に囲われている。つまるところ、箱庭の外には更に大きな箱があっただけということだ。


 この話を教えてくれたのは、年老いた灯台守の男だった。彼の仕事は灯台の灯りで船を迎えることではなく、出ていく船を管理することだった。彼は港から出ていく一隻の船を指差して、「あの船はもう戻らない」と言った。船に乗り込んだ人々はそのまま海の上で生を終えるのだと。そう語ったのである。


 はじめ僕はその話を信じなかった。街でそんな話を聞いたことがなかったからだ。でも3日ばかり港に居座って海を眺めていても外から船が入ることはなかった。川の水と同じように、ただ出ていくばかりだったのだ。


 パチパチと軽い音を立てて焚き火が燃えているのをぼんやり眺める。カップを握る指が震えている。あの話を思い出すといつもこうだ。だから僕は他の人に真偽を確かめることもできず、さりとて諦めもつかずにこんなところを彷徨う羽目になったのだ。故郷を飛び出す勇気はあるクセに、不都合な真実を確かめる勇気はないのだ。


 結局、僕は自分を勇者だと思いこんでいただけの凡人で、その事実を認めて傷つきたくないだけなのだ。もはや凡人ですらない、ただの臆病者だ。旅をしているふりをして逃げ回ってるだけだ。


 それがなんだ。だからどうした。


 僕は暗い気持ちを振り払うように、カップの底に残ったホットミルクを飲み干した。すっかり冷めきっていたが、指の震えは治まった。冷たい風が頬を掠めた。


 いつか僕にも全て諦めて受け入れる日が来るのだろうか。何もかも受け入れてみんなと同じような暮らしに甘んじる日がくるのだろうか。そんな僕は果たして僕と言えるのだろうか。


 そうして僕は今日も、全てのことに目を瞑りテントの中で眠りにつく。


 春はまだ、遠い。

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