最終話 甘夢の香りがする 4

*******

 ベッドの両縁りょうふち、背を向けて二人座る。かつてないほど気まずい。

 自分たちの境遇は、サービスを受けに来る人たちと一緒だと、想像していたはずなのに。想像はしていたけれど、予想はしていなかった。まさか、こんなことが起きるなんて。


「きょ、今日は、泊まってこっかここにさ」

 冗談めかして妹は言う。私は、何も返せない。

「……」

「……怒って、るよね。お姉」

「え……?」

「ごめんなさい。でも、信じてもらえないかもしれないけど、その、いやらしい気持ちがあったわけじゃないの」

「じゃあ、どんな気持ちがあったの……」

「温めて、ほしかったんだ」


 私は振り返る。妹も同じく、こちらを振り向いていた。その頬には、赤みがさしている。

「温めて、って?」

「そのままの、意味だよ。ぎゅって抱きしめてほしかったの。まさかミナトさんっていうのがお姉だとは思わなかったけど」

「……」

「お姉は、あんまりぎゅってしてくれないから。……当たり前と言えば当たり前だけどね。だって、家族だもん」

 私は、妹に極力触らないようにしてきた。さわってしまってはいけない、不可侵の存在だった。


 けれど、それが故に妹は悲しい思いをしてきたのかもしれない。妹にとっての家族は、私一人だけだったのに、私は手作りの倫理観りんりかんしばられて、かえって彼女を傷つけていたのだ。

「お姉」

「私も、理梨に話さないといけないことがあるの」

 きっともう彼女はすべてわかっているだろう。けれど自分の口から言わなければならない気がした。いや、言いたかった。これまで嘘を吐き続けてきた、私なりのつぐないとして。


 全て話した。

 私たちの生活は、すべて、私と依頼人の肉体関係でできていたことを。それをずっと隠し続けてきたことを。


「ごめんなさい。あなたのことを思えば……、ううん、違う。私のことしか考えてなかったのかも結局。酷い話だよね」

「……ううん。いいの。お互い、様ってことで」

「うん。……理梨、そろそろ、上着、着れば?」

 理梨はずっとキャミソール姿だった。いくら部屋が暖かいとはいえ、また風邪かぜをひかれたら大変だ。

「あ、うん。そうだね」

 そうこたえつつ、理梨は上着を着ようとしなかった。

 何をしているのだろうと首をかしげて見つめていると、理梨は予想もしなかった展開の中でも、さらに想定できない言葉を言った。


「あの、あたし、いいよ」


「何?」

「あたし、その、しても、いいよ」

「……何言ってるの」

「だからさ。あたしこうやって寝っ転がってるから、お姉の、いやミナトさんの好きにしていいよ」


 理梨は冗談で言っている様子ではなかった。言った通り、ベッドに横たわる。思いのほかの胸のふくらみから、瞳を逸らす。

「馬鹿言わないで。さすがに、出来ないに決まってるでしょ」

「……うん。でも、とりあえずあたし、ここ寝てるね。あと、お金はあるよ。五万円」

「馬鹿っ!」


 駄目だ。私は頭を抑える。そもそもここで迷っていること自体がおかしいんだ。

 私は一度脱いでいたコートを羽織った。

 ここまでなら、まだぎりぎり戻れるだと思う。しかしもし一線を越えてしまったら、二度と元には戻れない。


「理梨、私は理梨と幸せになりたいの。だから、駄目だよ。駄目、だよ……」

 言葉尻がつい弱くなったのは、理梨が唇をすぼめて笑っていたから。それが、理梨とは思えないくらいあでやかで、可愛らしくて。

「……」

「お姉」

「私は、お姉ちゃん、なんだよ」

「うん」

「だから、だめ、でしょ。こんなこと、しちゃ」

「そうかな」

「そうだよ。理梨。撫でてほしいなら撫でてあげる。抱きしめてほしいならめいっぱい抱きしめてあげる。だから」

「じゃあさ」


 途端、ベッド上、両手を挙げて、理梨は言った。


「今、抱きしめて。あたしのこと」

「……」

「ぎゅって。安心させてよ」


 それくらい、いいだろう。だって、私が言ったんだ。抱きしめてほしいなら抱きしめてあげるって。

「うん。いいよ」

 コートを脱ぎ、理梨の側に膝を立てて座った。理梨は私の方を見て妖艶ようえんに笑んだ。

「っ……!」

「お姉」

 私は、その上におおいかぶさった。あやまちだけはおかさぬよう、けれど互いの鼓動こどうがわかるくらい強く固く抱きしめた。


 異変はすぐに起こってしまった。


 きっと、香りのせいだった。甘い、酸っぱい、その匂いのせい。香りの力は、想像以上だった。理性など簡単にけてしまうくらい。


 よく、覚えていない。けれど、耳に「ミナちゃん……ミナちゃん……」という辛そうな、けれど懐かしい甘い声だけが残っていた。



********

 朝6時。裸身らしんを起こすと、理梨はいなかった。ただ机の上に、5万円だけが置いてあった。


「理梨……?」

 お風呂場にも、クローゼットにもいなかった。クローゼットにいる意味もわからないが。


 スマートフォンの画面を見ると、理梨から2時間前に電話が入っていた。

「え……」

 いぶかしく思いながら、通話ボタンを押すと、全く間を置かずに理梨が出た。

「もしもし」

『あ、もしもしお姉?』

「理梨、先帰ったの?」

『え、何が?』

「は?」

『あたし、昨日リコちゃんち遊び行ってたよ?』

「いやいや。それは」

 とそこで言葉を止める。もしかして、理梨は決めたのではないか。昨夜のことは忘れようと。なかったことにしようと。

『お姉が全然帰ってこないから心配なって、何回も電話しちゃった」

「……そう。ごめんね」

『ううん。もう帰ってくる?』

「うん。すぐ帰るよ」

『じゃー、朝ごはん作って待ってるねー』

 明るい理梨の声が切れる。

 本当になかったことにしようとしているのだろうか。まるで本当に覚えていなかったかのような……。

「……ううん」

 いや、どちらでもいい。あれは、夢だったんだ。それでいい。理梨がそうしたいのなら、それでいい。

 机に置かれた五万円を全て破り、トイレに流す。

 季節外れのコートを羽織る。一度寝ていたベッドシーツ、甘い夢の残り香がした。  (完)

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甘い夢     蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina

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