最終話 甘夢の香りがする 3

****

 数日後の夕方。

 いつもの通り化粧をしながら鏡越し、帰って来た理梨に私は言った。


「理梨、今日もお仕事だから」

「うん。でも、あたしも夜、遊び行くんだ」

「え? 友達のとこ?」

「まあ、そんなとこ。ちょっと遅くなるかもだけど、たぶん今日中には帰ってこれるから」

「……」

「もう心配しないで。ちゃんと帰ってくるからさ」


 内心私は心配だった。あの日以来、時折ときおり物憂ものうげにため息を吐くようになった妹が。本人は気付かれていないと思っているのかもしれない。あるいは、完全に無意識なのかもしれない。だとしたら尚更なおさら心配だ。しかし。


「そう。まあたまには行っておいで」

 理梨が外に遊びに行くのは本当に珍しい。いつもバイトがない時は家にいて、遊びに行けばと言うと、「あたしが邪魔なの?」と怒るほど。 

 そんな妹が自分から外出しようとしているのをさまたげるのは矛盾むじゅんしてるし、あまりに無情な気がした。


「ほら、お小遣こづかい」

「え、いいよー。自分のお金あるし」

「いいからいいから。持ってきなさい」

 無理やりお金を持たせると、理梨は「ありがと、お姉」と笑った。

 この笑顔さえ守れれば、どんな後悔も受け入れてやる。

 あの日の忠告に反論するように私は心中呟いた。


*****

 午後9時に待ち合わせだったが、少し早く来すぎてしまったらしい。

 先にホテルに行ってもいいが、それだと疎通が難しくなって面倒かもしれない。

「しかたないな……」

 溜息交じりに喫茶きっさ店に入り、適当にコーヒーでも飲みながら時間を過ごす。窓の外の人波は、皆一様に下を向いている。

ひまなのね。みんな」

 飽和ほうわした、彼らの暇がうらやましい。

 頬杖ほおづえをついて見た空はくもり。けれど、きっと彼らが下を見ているのは、天気のせいではない。

 春のおだやかな夜。近くの河原かわらでは桜が花びらを流していたが、そこでも彼らは下を向くのか。

「……なんて」

 がらにもないことを考えてしまった、と窓の外の景色から目を離すと。


「あら、やっとこっち向いた」

「なっ!!」

 危うく椅子から転げ落ちそうになる。そこにはサングラスをかけたスーツ姿の女性がいた。

「え、誰」

「わからないの?」


 そう言って彼女は眼鏡をはずした。瞬間、驚きが警戒に変わる。

「あなた……」

「今日はこれから?」

 不敵に笑う彼女は、少し前に私に脅迫きょうはくじみた言葉をぶつけてきた、あの女だった。

「そうですけど。なんですかまた止める気ですか」

「別にー。というか言ったじゃない止める気はないよって」

「後悔するよって言ったじゃないですか」

「私にとってはどっちでもいいのよ。あなたが後悔しようがしまいが、やめようがやめまいが。けど、あの子、リリちゃんのことは、少し心配で」

「あなたが理梨の何を知ってるって言うんですか」

「そうね。私は何も知らないわ。リリちゃんのことも、あなたのことも」

「だったら口挟まないでください。もういいですか。そろそろ時間なので」

「あら、時間なんて気にしなくていいのよ」

「何言ってんですか」 

 余裕気よゆうげな、人を小馬鹿にするような言葉遣いに無性に腹が立つ。怒声どせいおさえて私は言った。 

「依頼者のとこに行かなきゃならないのわかるでしょ」

「だってそれ私だもん」


「は?」

 荷物を持ちかけた手を止める。彼女はスマホを取り出して、にやけ顔のままこちらに画面を見せた。

「ほら。ミナトに依頼してるでしょ」

「……名前、違ったじゃないですか」

「あら。偽名でもいいんじゃなかったの?」

「……」

「さ、いつもの部屋行きましょ。いいでしょお金払えば」


 本当に気に食わない。私に連絡してくる人は、自分に自信がない人が多い。だからこちらも話しやすいのだけれど、こんな得体のしれない自信を持っている人は、本当にやりにくい。


 しかし、彼女の言う通りでもある。私は金さえもらえればそれでいい。

「わかりました」

 溜息交じりに返答する。そうだ。相手がだれであっても、断る権利は私にはない。憎たらしいけど、しかたない。


******

 部屋の前まで来た。特段緊張はしない。気にさわる相手ではあるけれど知らない人ではないから。

 直前の覚悟の質問もなく、カードをかざしかけた時、彼女は唐突に、背後から私の身体を引き寄せてきた。

「えっ」

「ねえミナトちゃん。ほんとうにいいのね?」

 無理やり身体を離して女を吹き飛ばす。もう、我慢の限界だった。


「何なんですかこの前から! 私は快楽や遊びのためにやってるんじゃないんです! とがめられる筋合いもない。咎めるくらいなら私たちを助けてよ! わかってるよ正しくないのは! でも、でも、こうでもしないくちゃ生きてけないのよ……! 後悔の予想より、今の生活の方が大切なのよっ!!」


 バッグを振り上げる。フロアに尻餅しりもちをついた女は、無表情でわたしを見上げていた。

「はあっ……」

 寸前で思いとどまった私はバッグを下ろして、溜息を吐いた。

「……そうだね。あなたの言うことは最もだわ」

「……」

「あなたは、覚悟が出来てるのね。それに、自分のしていることの意味も、きちんと理解してる。それなら、私が口をはさむのは、間違いよね」


 彼女はつぶやくように言った。納得したように、しかし一方、心配するように、失望するように。


 けれど、知ったことではない。彼女が考えていることは。ただ何の代案もないままに私のしていることを悪だ、間違いだと嘲笑ちょうしょうされているようで、腹が立ったのだ。


 女は立ち上がると、サングラスをかけ、きびすを返してエレベーターホールの方へ向かっていった。

「何してるんですか」

 その背に声をかけると、彼女は振り返らずに言った。

「依頼人は私じゃないわ」

「はっ?」

 後ろ姿が小さくなっていく、と同時に、左側、扉が開く。


「えっ」


 そんな声が聞こえた。瞳の端でそちらを見て、慌てて見返す。

「な、なん、で」

「お姉……何で……?」

 初めて見た厚化粧あつげしょう口紅くちべに、薄着に浮かぶ胸の輪郭りんかく

(あの人は、このことを? いや……いや、え、いったい、どういう事……)


「理梨、何、してるの?」


 頭が混乱する中、かろうじてそう尋ねる。しかし、理梨は目をらすだけ。けれど、それこそが答えだった。何もやましいことがないのなら、堂々としていればいい。


「お姉こそ、何で」


 かく思う私も、いざ問われると同じだった。頭が真っ白になって、何も、誤魔化しの言葉さえ出てこなかった。


 沈黙が降りる。互いに目を逸らしたまま、互いに後ろめたさを覚えたまま、しばらく時間が経過した。


「あの、さ、とりあえず、中入る?」

 妹は無理やりな笑みを見せて言った。

「帰る」と、きっとそう言わなければならなかっただろう。

 しかし、私はただ一度頷いて、扉の向こうに足を踏み入れていた。その判断に、躊躇ちゅうちょはほぼなかったと思う。


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