最終話 甘夢の香りがする 3
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数日後の夕方。
いつもの通り化粧をしながら鏡越し、帰って来た理梨に私は言った。
「理梨、今日もお仕事だから」
「うん。でも、あたしも夜、遊び行くんだ」
「え? 友達のとこ?」
「まあ、そんなとこ。ちょっと遅くなるかもだけど、たぶん今日中には帰ってこれるから」
「……」
「もう心配しないで。ちゃんと帰ってくるからさ」
内心私は心配だった。あの日以来、
「そう。まあたまには行っておいで」
理梨が外に遊びに行くのは本当に珍しい。いつもバイトがない時は家にいて、遊びに行けばと言うと、「あたしが邪魔なの?」と怒るほど。
そんな妹が自分から外出しようとしているのを
「ほら、お
「え、いいよー。自分のお金あるし」
「いいからいいから。持ってきなさい」
無理やりお金を持たせると、理梨は「ありがと、お姉」と笑った。
この笑顔さえ守れれば、どんな後悔も受け入れてやる。
あの日の忠告に反論するように私は心中呟いた。
*****
午後9時に待ち合わせだったが、少し早く来すぎてしまったらしい。
先にホテルに行ってもいいが、それだと疎通が難しくなって面倒かもしれない。
「しかたないな……」
溜息交じりに
「
春の
「……なんて」
「あら、やっとこっち向いた」
「なっ!!」
危うく椅子から転げ落ちそうになる。そこにはサングラスをかけたスーツ姿の女性がいた。
「え、誰」
「わからないの?」
そう言って彼女は眼鏡をはずした。瞬間、驚きが警戒に変わる。
「あなた……」
「今日はこれから?」
不敵に笑う彼女は、少し前に私に
「そうですけど。なんですかまた止める気ですか」
「別にー。というか言ったじゃない止める気はないよって」
「後悔するよって言ったじゃないですか」
「私にとってはどっちでもいいのよ。あなたが後悔しようがしまいが、やめようがやめまいが。けど、あの子、リリちゃんのことは、少し心配で」
「あなたが理梨の何を知ってるって言うんですか」
「そうね。私は何も知らないわ。リリちゃんのことも、あなたのことも」
「だったら口挟まないでください。もういいですか。そろそろ時間なので」
「あら、時間なんて気にしなくていいのよ」
「何言ってんですか」
「依頼者のとこに行かなきゃならないのわかるでしょ」
「だってそれ私だもん」
「は?」
荷物を持ちかけた手を止める。彼女はスマホを取り出して、にやけ顔のままこちらに画面を見せた。
「ほら。ミナトに依頼してるでしょ」
「……名前、違ったじゃないですか」
「あら。偽名でもいいんじゃなかったの?」
「……」
「さ、いつもの部屋行きましょ。いいでしょお金払えば」
本当に気に食わない。私に連絡してくる人は、自分に自信がない人が多い。だからこちらも話しやすいのだけれど、こんな得体のしれない自信を持っている人は、本当にやりにくい。
しかし、彼女の言う通りでもある。私は金さえもらえればそれでいい。
「わかりました」
溜息交じりに返答する。そうだ。相手がだれであっても、断る権利は私にはない。憎たらしいけど、しかたない。
******
部屋の前まで来た。特段緊張はしない。気に
直前の覚悟の質問もなく、カードを
「えっ」
「ねえミナトちゃん。ほんとうにいいのね?」
無理やり身体を離して女を吹き飛ばす。もう、我慢の限界だった。
「何なんですかこの前から! 私は快楽や遊びのためにやってるんじゃないんです!
バッグを振り上げる。フロアに
「はあっ……」
寸前で思いとどまった私はバッグを下ろして、溜息を吐いた。
「……そうだね。あなたの言うことは最もだわ」
「……」
「あなたは、覚悟が出来てるのね。それに、自分のしていることの意味も、きちんと理解してる。それなら、私が口をはさむのは、間違いよね」
彼女はつぶやくように言った。納得したように、しかし一方、心配するように、失望するように。
けれど、知ったことではない。彼女が考えていることは。ただ何の代案もないままに私のしていることを悪だ、間違いだと
女は立ち上がると、サングラスをかけ、
「何してるんですか」
その背に声をかけると、彼女は振り返らずに言った。
「依頼人は私じゃないわ」
「はっ?」
後ろ姿が小さくなっていく、と同時に、左側、扉が開く。
「えっ」
そんな声が聞こえた。瞳の端でそちらを見て、慌てて見返す。
「な、なん、で」
「お姉……何で……?」
初めて見た
(あの人は、このことを? いや……いや、え、いったい、どういう事……)
「理梨、何、してるの?」
頭が混乱する中、かろうじてそう尋ねる。しかし、理梨は目を
「お姉こそ、何で」
かく思う私も、いざ問われると同じだった。頭が真っ白になって、何も、誤魔化しの言葉さえ出てこなかった。
沈黙が降りる。互いに目を逸らしたまま、互いに後ろめたさを覚えたまま、しばらく時間が経過した。
「あの、さ、とりあえず、中入る?」
妹は無理やりな笑みを見せて言った。
「帰る」と、きっとそう言わなければならなかっただろう。
しかし、私はただ一度頷いて、扉の向こうに足を踏み入れていた。その判断に、
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