ソロ暮らし

来冬 邦子

一人ともうひとり

 俺は事故物件に住んでいる。

 都心にしては素晴らしく安いし、北向きで昼間から薄暗いが、どうせほとんど寝に帰るだけだからと契約してしまった。くわえて俺には霊感というやつが全くない。案の定、この部屋に住み始めてから、おかしなことは何一つ起きていなかった。

 つい先月までは。


 彼女の存在に気づいたのはリモートワークがきっかけだった。

 仕事をしている俺の後ろの壁の中をすり抜けてみたり、俺の肩越しにカメラを睨んだり、果ては俺をしてみたり。それも、モニターを見ている同僚たちに指摘されたのだ。自分の目で見るより怖い。


 すぐにでも引っ越そうと、この事故物件を紹介した不動産屋に探させているが、家賃が手頃な物件がなかなか見つからない。不動産屋の角刈りオヤジが言うには「事故物件なら今日からでも入居できる部屋があるんですがね」――ふざけるな。

 そんなわけで俺は引越しの準備をしながら、まだこのワンルームに暮らしているんだ。 ――あいつと。




 その日も出社日だった。


「家永君、ちょっと」


 オフィスに入った途端、またイケメン課長に呼ばれて会議室に入った。


「どう? 引越先は決まった?}


「それが、なかなか見つからなくてですね」


「困ったねえ。みんな恐くて仕事が手につかないって言ってるよ」


「すみません」


 ――なんで俺が謝るんだ。理不尽だと思ったのが伝わったらしい。


「いや、君が一番大変なんだよね。良かったら、僕のマンションに泊まりに来たら?」


 イケメン課長の親切な申し出に、俺はちょっと感動した。


「お心遣い、ありがとうございます。でも俺には相手がまったく見えないんで、空気みたいなもんなんです。気にしなければ、いないのと同じですから、もう少し頑張ります」


「そうかい。無理しないでくれよ」


 課長があからさまに嬉しそうに笑った。愛想だったんかーい。


「でもね、最近は彼女も遠慮がちだよ。姿勢を低くして足早に通り過ぎるよ。例のネグリジェはそのままだけど。案外いい子なのかも知れないよね」


「いい子ですか」


 そういうふうに思えば、もうしばらく堪えられるだろうか。




 家に帰ると、ふわりと洗剤の匂いがした。


「ええっ?」


 掃除をサボってカビだらけだった台所のシンクがピカピカに磨き上げられている。トイレに入ってまた驚いた。便器も床も清潔に掃除されていた。 誰だ。母が突然に来たんだろうか。しかしそれなら連絡くらいするだろう。他に思い当たるのは……。

 そんな、まさか?


  ――案外いい子なのかも。


 俺は自分が恥ずかしくなった。相手をよく知らないのに、むやみに嫌うなんて文明人のすることじゃ無い。このワンルームの同居人はそれなりに気を遣ってくれているんだ。


「掃除してくれてありがとう。嬉しいよ」


 俺は天井を見上げてお礼を言った。そこにいるとは限らないが。


「君が見えないから正直恐かったけど、これからは仲良くやろうな」


 何も反応がない。いないのかな。残念なようなホッとしたような気分だった。


 ところがその時。


 カタカタと卓上カレンダーが揺れて、パラパラとページがめくれ上がった。 部屋の中につむじ風が吹いて、部屋干しの洗濯物が巻き上げられて宙を飛び回った。


「うわっ!」


 頭と顔をかばった両腕の下から、白いネグリジェの裾とはだしの足が見える。


「たすけてくれえ」


 恐怖で掠れた声しかでない。俺はかたく目を閉じてしゃがみ込んだ。




 ふいに風が止んだ。バタバタと洗濯物が床に落ちてくる。


 ――うそつき。


 誰かが耳元でつぶやいた。泣いているような鼻声だった。


 俺はそっと目を開けた。


 髪の長い女の幽霊が、へたり込んだ俺の隣にしゃがんで、俺の顔をのぞき込んでいた。肌がロウのように白いが、幼さの残る愛らしい目元をした二十四、五歳の幽霊だった。 やっぱり引越すのは止そう。


 ――お掃除、頑張ったのに。


 幽霊は頬をふくらませて、潤んだ目で俺を睨んだ。


「悪かったよ。ごめんなさい。この通りだから」


 俺が手を合わせて頭を下げると、幽霊は目尻に涙を残したままクスッと笑って、消えた。


 それ以来、俺の部屋に怪異は起こらない。

                        < 了 >

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