ソロ舞台

緋糸 椎

「もう、第8話は神回よ。キュンキュン止まらなかったわ」

 妻がお気に入りの恋愛ドラマについて熱く語る。僕は聞くふりをしながら、いつ終わるかと待ち侘びていた。

 僕は恋とか、そういうのに興味がない。少年時代から見合い結婚するまで、恋などと言うものとは無縁だった。

 それはともかく、僕は激しい頭痛に襲われていた。それで薬箱の中を漁ったが、頭痛薬は見つからない。

「ねえ、バファリン知らない?」

「知らない」

 妻は面倒くさそうに答える。仕方なく僕は家中バファリンを探した。そして普段開けることのない、ガラクタばかり入った抽斗ひきだしを開けると、中からヴァイオリンの形をしたかぎ針編みのしおりが出てきた。

 僕はそれを手に取ってじっと見つめた。すると遠き日の思い出がよみがえってきた。


 訂正しよう。

 僕は恋人がいなかっただけで、心の中では常に恋していた。時にはそれが身を焦がすほどに燃え上がった。彼女はその最たるものだった。



 上野麻衣子と出会ったのは、今から十数年前。僕は会社の駐在員としてデュッセルドルフに赴任した。最初の二ヶ月は仕事が終わると語学学校でドイツ語の授業があった。そのクラスの初日のことである。

 教室に入ると、机がコの字型に並べられており、丁寧にネームプレートまで置かれていた。自分の名前……Naoto Saitoと書かれたプレートを見つけると、そこに座った。一応両隣に座った生徒たちとは、英語で挨拶した。ちなみにコースでは英語の使用は禁止で、後にも先にも英語で話したのはこれきりだった。そして教室を見渡すと、Maiko Uenoと書かれたプレートが目に止まった。明らかに日本人女性の名前だ。どんな人だろう。やはり女性となると多かれ少なかれ期待してしまう。

 ところが、授業が始まっても、その女性はやって来なかった。初日から遅刻とは……あまりきちんとした人ではないのかもしれない。そのうち

生徒たちが順番に自己紹介を始めた。いよいよ僕の順番となった時、ガラガラと教室の扉が開いた。

「遅れてすみませーん!」

 え? 日本語? みなポカーンと彼女を見つめる。やがて日本語が通じないことに気がついて「ソーリー、ソーリー」と繰り返す。いわゆる天然だ。しかし僕は、みんなと違う意味でポカーンとした。


 かわいい。


 それが、僕の上野麻衣子の第一印象だった。つまり、一目惚れしたのである。背負ったケースから彼女がヴァイオリンを弾くことはわかった。そのケースには緑と黒のギンガムチェックのカバーがかけられており、それが彼女のふわふわした感じとマッチしていた。僕は授業に集中しようとしたが、意識しまいとすればするほど、僕の心は彼女のかわいさでいっぱいになった。

 やがてクラスの中で彼女は人気者になった。屈託のない笑顔、キュートなしぐさ。男も女もみな彼女に好意を持った。時々授業中に寝てしまうこともご愛嬌だ。僕は日毎に彼女に惹かれていく。しかし、なかなか話しかけられない。それなのに、イタリア人のマリオとクロアチア人のイヴァンは気楽に話しかけ、彼女もそれをケラケラ笑いながら聞く。僕の中に嫉妬が芽生える。イタリアにもクロアチアにも恨みはないが、当時サッカーのワールドカップ予選では、それらの相手国を真剣に応援した。


 だが、そんな僕にも彼女と親しく話せる機会がやってきた。

「斎藤さん、英語得意ですよね」

「まあ、ドイツ語よりはずっとましですけど」

「弓の毛を交換しなければいけないんですけども、まだ言葉ができなくて……斉藤さんに訳してもらえたら嬉しいんですけど」

「ええ、喜んで」

 学校が終わると僕と麻衣子は一緒に楽器屋へと向かった。トラムの中で僕は有頂天だった。生まれて初めてのデートらしい行動だった。移動しながら話してわかったのは、彼女が音大を出てすぐに留学が決まり、現在22歳だということ。僕が30だというと、彼女のお兄さんも同じ歳だという。

 楽器屋の主人はあまり英語の話せない人物で、そもそもヴァイオリンの専門用語を知らない僕は通訳者としては大して役に立たなかったと思う。それでも麻衣子は満面の笑みで「ありがとうございました」と言うので、僕はすっかり舞い上がった。さらに……

「今度、コンサートに出るんですけど、来ていただけますか?」

 やったー! 心の中で叫んだ。


 コンサート当日。僕は一番上等なスーツを着て会場に出かける。日本でクラシック演奏会は正装が原則だが、ヨーロッパ、それも学生のコンサートでそこまで気合いを入れて聴きに来る者はいない。かなり浮いている。だが、僕の心はもっと浮いている。

 何人かの奏者が演じ終え、いよいよ彼女の出番がきた。ステージ上でベージュのドレスがよく映える。ところが、弾き始めて僕はおや? と思った。素人耳にも彼女が不調であるのがわかった。何というか、ヴァイオリンの音に聞こえない……。弾き終わって礼をする彼女の顔はしんみりとしている。

 コンサートが終わり楽屋から出てかた彼女に、僕は何と声を掛けて良いか迷ったが、彼女の方からペラペラと話だした。

「なんかお粗末ですみませんでした。私、なんです……」

「緊張しい?」

「ええ、緊張すると、ヴィブラートがかからなくなって……」

 音がヴァイオリンらしくない理由がわかった。ヴィブラートがかかっていなかったのだ。

「でも……私、がんばります! 来年、コンチェルトでソロを弾くので……」

 彼女が所属するオーケストラで、チャイコフスキー・ヴァイオリン協奏曲のソロを彼女が務めることが決まったらしい。会場はトーンハレという、大きなコンサートホールだ。それまでに彼女はを克服しなければならない。何か僕にできることはないだろうか、そう僕は思い巡らした。


 やがて語学コースも終わり、僕と麻衣子が直接会う機会は少なくなった。かろうじてその頃盛んだったミクシーでマイミクになっていたので、互いの日記にコメントしあったりして、何とか関係をつないだ。会えなくても、僕の彼女への気持ちはますます高まっていった。だけど、やっぱりもう少し積極的に話せる機会が欲しい。何かないだろうか。そう思いながらミクシーを見ていると、一件のブックレビューが目に止まった。

〝あがりを克服する〜ヴァイオリンを楽に弾きこなすために〟

 レビューを書いたヴァイオリニストは、長い間あがり症に苛まれていたが、この本で克服出来たと言い、さらに一般のビジネスマンも、人前で話すのが苦手だったのにその本で克服出来た、という。

 これだ! 彼女のためにわざわざ買ったと言えば引かれるだろうけど、自分のためにと言えば彼女も気兼ねなく借りれるだろう。僕は早速アマゾンでその本を日本から取り寄せた。


 その本が届くと、僕は一晩かけてそれを読み切った。そして翌日、僕は麻衣子に携帯SNSで連絡した。

「家を整理していたらいい本が出てきたんですけど、麻衣子さんにどうかと思って」

「どんな本ですか?」

 僕は詳細をSNSで書いた。ちなみに当時スマホは普及しておらず、ローマ字でのやり取りだった。それでも麻衣子喜びの喜びは充分伝わり、是非貸してください、とのことだった。


 そしてアルトシュタットのカフェで久々に僕らは会った。彼女は本を受け取ると、パラパラと中をめくった。

「すごーい、これ、本当にあがりが克服出来そう!」

 久々に見た彼女の喜ぶ顔。しばらく忘れていた感情が頭をもたげた。

「あの……麻衣子さん……」

「……え?」

「僕は……あなたのことがずっと好きでした。もしよかったらお付き合いください……」

 彼女はしばらく時間が止まったように固まった。そして申し訳なさそうに口を開いた。

「ごめんなさい……私、婚約者がいるんです」

 今度は僕が固まる番だった。

「そ、そ、そうだったんだ。ごめんね、変なこと言って……」

 首を振る彼女。それからしばらくの記憶はない。僕はその晩大泣きした。


 それからも僕は麻衣子と連絡を取り合った。不思議に気まずさはなかった。ただ、僕の彼女への恋心については互いに触れないようにしていた。


 そして月日は流れ、彼女のコンチェルト本番の日が来た。僕はこの日のためにスーツを新調した。会場には、語学学校で一緒だったクラスメイトも来ていた。

 コンサートの前半はシューマンの交響曲「春」。休憩が終わり、いよいよ彼女のソロ舞台だ。拍手に迎えられて聴衆の前に現れた彼女は、なんとも凛々しかった。あの天然さは微塵も感じられない。

 序奏に続いて彼女のソロ。堂々とゆったりと、それでいてキレがある。良い意味での緊張感はあっても、あがってはいない。

「克服したんだ……よかったね!」

 僕は心の中で祝福した。そして彼女は少しもブレることなく、最後の一音まで弾き切った。感激した聴衆たちは惜しみない拍手を送り、彼女は涙を流した。


 彼女と何か一言話したかったが、色々と忙しそうで会うことは出来なかった。今度会った時に感想を述べよう、そう思った。そしてまた思いを告げようと……


 だが、それは叶わなかった。

 彼女のお母さんが病に倒れ、留学を中断して急遽帰国することになった。あまりにも急にことが進んだので、見送ることもできなかった。

 彼女が帰国したのと同時に、貸していた本が郵送されて来た。封筒にはただ本だけが入っていて、手紙はなかった。本をめくると、ヴァイオリンの形をしたかぎ針編みの栞が挟まっていた。それがただ一つ、彼女が僕に残したものだった。


 それから数ヶ月後、彼女が結婚したことを知った。僕もその後帰国し、知人の勧めで見合い結婚した。



 僕がヴァイオリンの栞をじっと見ていると、妻が声をかけてきた。

「なにそれ?」

「栞だよ。青春の1ページに挟んでいたのを忘れていたんだ」

「なにそれ」

 妻は同じ言葉をつまらなそうに繰り返し、立ち去った。そして僕は栞を再び抽斗にしまった。

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