葡萄色のなみだ 💦

上月くるを

葡萄色のなみだ 💦





 動物園のキリンは、いつも辛い思いをしていました。

 やたら首が長いため、世の中のことがあからさまに見え過ぎてしまうのです。

 

 親から虐待されている少年。

 教室で無視されている少女。

 家に引きこもっている大人。

 

 人間が暮らす社会という場所は、なんと悲しみに満ちていることでしょう。

 なのに、自分は遠くから見ているだけで、なにひとつできはしないのです。

 

 ――いっそのこと、なにも見えないほうがましだ。

 

 キリンは無駄に長いだけの首がいやでたまりませんが、ひっきりなしに見物客がやって来るので、うなだれたり奥の部屋に引っ込んだりすることも許されません。


 なるべく不幸を目撃しないでいられるように、キリンは深い悲しみのかげを宿した葡萄色のひとみで、終日、遠い空のかなたを、ぼんやりと眺めているばかり……。


 

                 ⛅


 

 桜並木が満開の春が過ぎ、入道雲の季節がやって来ました。

 いつしかキリンは空想のなかで変身することを覚えました。


 たとえ胸のなかでどんなことを考えていようとも、長い首をしっかりと伸ばしていさえすれば、キリンはキリンに見え、クマやゴリラとは間違われないでしょう。

 

 ある日、キリンはサルになって、木から木へと飛び移ろうとしましたが、長い首が邪魔になってうまく飛べません。つぎの日、キリンはナマケモノになって木の枝にぶら下がってみましたが、首がつっかえ、上手にぶら下がることができません。


 つぎの日、キリンはライオンになって「ウォーッ!」と吠えてみましたが、長い首から出た声は「ミュー……」になってしまいました。つぎの日、キリンはペンギンになって氷山に登ろうとしましたが、首が寒くて風邪をひいてしまいそうです。


 つぎの日、キリンは魚になってプールにもぐろうとしましたが、どう工夫してみても、長い首が水面に突き出してしまいます。つぎの日、キリンはモグラになってトンネルを掘ろうとしましたが、やっぱり耳の先が地面からはみ出てしまいます。


 最後にキリンはオオワシになって空高く舞い上がろうとしました。

 けれども、頭が雲を突きぬけてしまい、見渡す限りに真っ白です。

 

 ――ああ、ぼくには空想することすら許されないんだ。

 

 あまり一所懸命に考え詰めたので、しまいに自分が何者なのかわからなくなってしまったキリンは、心の底から深く絶望してしまいました。長い首は張りを失い、関節の1本1本がゆるんで、いまにもぐにゃりと折れ曲がってしまいそうです。


 飼育係のおじさんが心配して新鮮な草を運んでくれましたが、キリンは口をつける気にもなれません。葡萄色のひとみは、海よりも地よりも深く沈みこみました。

 


                 🍃


 

 そうしているうちに季節が進み、秋が来て、それも深まったある日のこと。

 赤いベレー帽のおじいさんが幼い男の子を連れて動物園へやって来ました。


 ふたりはクマやチータ、ヒョウなどを見てまわったあと、キリンのコーナーへやって来ました。そして、キリンをひと目見るなり、男の子が叫んだのです。


「やあ、なんて格好いいんだろう!!!!」


 キリンはびっくりして、長い首の先についている両の耳をピクピクさせました。


 サンドバッグを相手にスパーリングしてみせるボクサー・カンガルーや、お腹の上で器用に胡桃をまわしてみせるアライグマ、愛くるしい顔立ちのレッサーパンダなどに人気が集中し、キリンはいままで一度も褒めてもらったことがないのです。

 でも、坊やのかたわらで、ベレー帽のおじいさんもしきりにうなずいています。


 ふたりはそれから園内に「蛍の光」が流れるまでキリンの前に座っていました。

 あまり熱心に観察されるので、キリンは少しばかりきまりがわるくなりました。


 

                  🌸


 

 キリンの悲しみを置き去りにして季節が通り過ぎ、粉雪まじりの北風がいだかと思うと、園内の桜並木がぼんぼりを点したようにほの紅く染まり始めました。


 いつもどおり、投げやりな目を遠い空に向けていたキリンは、はっとしました。

 にぎやかな街のはずれ、丘のふもとの保育園に、大勢の園児が集まっています。


 園庭の真ん中に立っている、まだら模様。

 それはまさしくキリンではありませんか!


 保育園のキリンは長い首をまっすぐ青空に伸ばし、4本の脚でしっかりと大地を踏みしめて、堂々と誇らしげに立っています。動物園の自分と生き写しの葡萄色のひとみに、真っ白な雲が煌めきながら映っています。子どもたちは、大きな身体にしがみついたり、脚のあいだを潜り抜けたり、背中によじ登ろうとしたり大騒ぎ。

  

 ふんわりしたスカートの、おばあちゃん園長先生がみんなの前に立ちました。


「今日からこのキリンさんはみなさんのお友だちですよ。仲よくしましょうね」


 やさしい笑顔の横で、赤いベレー帽のおじいさんが照れくさそうにしています。


 お世話になった孫息子の卒園記念に、後輩の子たちに喜ばれるものをプレゼントしたいと考えた彫刻家の神の手が創り出したものは等身大のキリンの塑像でした。モデルはもちろん、あの日じっくりと観察させてもらった動物園のキリンです。


 動物園では数合わせの1頭に過ぎなかったキリンが、情愛深い老芸術家の手によって、まさに、社会に貢献する存在としてのソロデビューを果たしたのです。

 キリンの目からこぼれた葡萄色のしずくが、まだら模様の頬を濡らしました。


 その晩、キリンは保育園の子どもたちと声をあげて遊んでいる夢を見ました。

 夢のなかで「ミュー」とやさしく鳴いたキリンは、もうさびしくありません。

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葡萄色のなみだ 💦 上月くるを @kurutan

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