海神

深川夏眠

海神(わたがみ)


 両親が小声ながら刺々しい調子で言い合っているので、夜食のラーメンを啜る手を止めて耳を傾けた。オヤジが遠縁の娘さんを下宿させると言い出し、オフクロは難色を示しているのだった。

「今は大変なときだし、幸いこっちで職が見つかったっていうんだから、少しくらい置いてやってもいいじゃないか」

「でも、お預かりして、もしものことがあったら……」

 母は愚かにも、俺がその女性にたいな真似をしやしまいか心配しているのだ。いい加減に気づけ。俺の恋愛対象はおなではない。

「誠心誠意、紳士的に立ち回ります」

「あら、聞いてたの」

「昔の祖母ババアの物置部屋を片付けりゃいいんだろ」

 数日後、なぎささんがレトロなトランクを引きずってやって来た。

「よろしくお願いします」

「お楽になさって」

 清楚でおとなしそうな美人が登場したので、母は好印象をいだきつつ杞憂を膨らませた模様。勝手に妄想しておれ。

とおるさん、お久しぶり」

「初対面かと思ってた」

「子供の頃にお会いしましたわ」

 覚えがない。が、彼女の故郷の海辺の僻村で無邪気に遊んだかもしれない景色がフッと脳裏をよぎった。

 彼女はにこやかだが、気丈に振る舞いながら憂愁に沈んでいた。大型船が座礁して重油が流出し、地元が甚大な被害を受けたからだった。

 ニュースを見て溜め息をつき、

「自慢の海が……」

「復旧には時間がかかりそうだね。大変だ」

「ええ」

 しかも、婚約者がその仕事に携わっているので、彼の心労を慮ると満足に寝もやらず……。

 大切な人が辛い想いをしているときに手助けができない苦しみは、よくわかる。俺は渚さんに一方的にシンパシーを感じ始めた。

 ある晩、彼女の後に風呂に入って、奇妙な落とし物を発見した。雲母の切片を思わせる涙滴型の薄いかけらで、玉虫色と言えばいいか、オーロラに似ていると表現すべきか――。

 気になったので、彼女の部屋へ向かった。まだ起きているらしい。ラジオでも聴いているのか、低い音声が流れている。だが、ノックしようと伸ばした手が宙で止まった。彼女が念仏を唱えているのだ。あなとうとし……云々。

 当人の勝手には違いないが、夜中なので些か不気味だった。ところが、聞かなかったつもりで立ち去ろうとした瞬間、扉が開いて、彼女が顔を覗かせた。背後にはドレッサー代わりの小机に額が立て掛けてあった。サイズはA4か。

「ごめんなさい、うるさかった?」

「いや……その、小腹減らない?」

 彼女は俺の前に踏み出して後ろ手にドアを閉めた。ベビーピンクの珠のブレスレットを握っている。数珠の代用なのか。

「こんな時間に食べちゃダメでしょ」

 彼女は苦笑して焙じ茶ラテを作ってくれた。

「美味い。和む」

「フフフ」

 俺たちはダイニングテーブルを挟んで向き合った。

「びっくりした?」

「え、ううん」

 彼女はブレスレットをつまりつつ、

「田舎の海の神様にお祈りしていたの。お詫びかたがた」

「タンカーの座礁は島民のせいじゃないでしょ」

「そうだけど……」

「きれいだね」

「モモイロサンゴ。お守り」

「フィアンセからのプレゼント?」

 彼女はほんのり頬を赤らめ、小さく頷いた。

「結婚するなら、なるべく早くって、彼をせっついた矢先の事故で、観光業も大打撃を受けて……みんなが苦しんでいるのが、私の我儘のせいだったように思えて……居たたまれなくて逃げてきちゃった。今は、ああして遠くから謝罪するしかないって――」

 なるほど、婚約者は任務終了の暁に救済の天使よろしく降臨するのだな。

「島の人たちって、みんな自罰的なの」

「狭い場所で協力し合って、ささやかな利益を分け合って生きているから、落ち度を大袈裟に捉えすぎちゃうのかしらね。ちょっとした過ちが大きな損害に繋がりがちだから」

「濃密な人間関係のなせるわざ、か」

「鬱陶しいでしょ」

「多少、羨ましい気がしないでもない」

 今度は俺が湯を沸かし、改めてプレーンな焙じ茶を淹れた。

「さっき風呂場で見つけたんだけど」

 ティアドロップの薄片を、そっと彼女の茶托に添えた。

「あら、失礼」

「これは?」

 彼女は我が家に来て初めてと言っていいくらいの、やや邪気の籠もった目色でニヤッと笑って、

「人魚の鱗。神様の

「えっ」

「知らなかった? あの島のたっとい守り神様よ」

 彼女は小さな鱗片を器用に摘んで、こちらへ寄越した。

「透さんにも御利益がありますように。くしゃみなんかで吹っ飛ばさないで」

 冗談ではぐらかされた感もあったが、半分本気にしてもいて、どうやってに渡そうか思案した。ロケットキーホルダーに納めようか。だが、頭に浮かんだ品物が別のアイテムを想起させ、不吉な連想に胸が締めつけられた。遺灰を詰めたカロートペンダントを形見として遺族から渡される情景に――。

「透さんも、心配事があるみたい」

「うん……」

 愛する者に想いを馳せ、喜びと苦しみを同時に噛み締めているのは、彼女も自分も同じだった。

が、難しい病気になってね。一緒に馬鹿騒ぎして駆け回っていたのが嘘みたいな有りさまで。治る見込みはないでもないって話だけど……」

 彼女は冷めかけたお茶をゴクゴク飲んで、

「島の長老の教えなんだけど。欲張ってはいけないって。どうしても欲しいものがあるなら、逆に手持ちの何かを一つ失うくらいの覚悟が必要だって」

「一理あるな。じゃあ、渚さんが婚約に漕ぎ着けるまでに手放したのって?」

 彼女はまた、少々邪悪な微笑を浮かべて、

「秘密」

「チェッ」

「透さんなら、どうする?」

「金運をなげうつ。今後一切の懸賞・宝くじに当選しない。出世も拒否」

「アハハ」

 そろそろ寝なくてはと席を立ち、手早く茶器を洗って、それぞれの部屋へ戻った。浅い眠りの中で見たのは、健康を取り戻したあいつが銀鱗によろわれたたいぎょの尾を翻して紺碧の海を遊泳する夢だった。


 渚さんにとって喜ばしい日が訪れた。フィアンセが準備万端整えて迎えに現れたのだ。二人は俺の両親に丁寧に挨拶した後、僅かばかりの荷物を運び出した。

「透さん、お世話になりました。お元気で」

「お二人も。お幸せに」

「あのね、彼もを持ってるの。同じ家に二つは必要ないから、私の分を透さんにあげる。宗教だの信仰だのって仰々しく考えないで、願掛けのときに精神統一するための図案だと思って使って」

 そんなわけで、俺の傍らに彼女が残していった額縁がある。飾られているのは屏風絵を思わせる、頭を下にして尾鰭を逆立て、赤い口から気泡を吐く、可憐な乳房も露わな長い黒髪の人魚像。裏側の紐に結びぶみ。ほどいてみると、彼女がじゅしていたせいの文句が綴られていた。解読に時間がかかりそうだ。

 取りあえず、ありがたい神像に向け、声を出さずに念を送ってみよう。誰よりも大切なあいつが病に打ち勝てますように。俺は生活態度を改めるべく、ひとまず深夜の喫食を自らに禁じることにした。



                 【了】



*2021年3月書き下ろし。

**縦書き版はRomancer『掌編 -Short Short Stories-』にて

  無料でお読みいただけます。

  https://romancer.voyager.co.jp/?p=116877&post_type=rmcposts

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海神 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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