父になった日【KAC20218】

いとうみこと

赤ん坊ってちっちゃいのな

 ガラス窓の向こうの新生児室には、ひと抱えほどの小さなベッドが横一列に並んでいる。もぞもぞと体をくねらす子、大きなあくびをする子、顔をくしゃくしゃにして泣く子、そんな中で、桃色の掛け布団から小さな手を覗かせてその子は静かに眠っていた。


「これが俺たちの子ども?」

「そうだよ」


 車椅子から半ば立ち上がってベッドの中を覗いていたサキは、化粧っ気のない顔を俺に向けて囁くように言った。寝ている我が子を起こさないようにとの配慮だろうが、このガラス越しでは何の意味もなさないはずだ。それでも母になったサキはそうせずにはいられないのだろう。目の前のサキが昨日までのサキとは違って見える。


 破水して入院したという知らせは昨日の夜に出張先で聞いた。本当なら出産に立ち合う予定だったが、予定日までまだ三週間もあったから泊まりの仕事を請け負っていたのだ。歯がゆい思いで仕事をこなし新幹線に飛び乗ったのは今日の昼過ぎだった。病院までの道のりをこんなに遠く感じたのは今日が初めてだった。


「間に合わなくてゴメン」

「ホントだよー」

「お産は大変だった?」

「想像の百万倍大変だった。マジで死ぬかと思ったよ」


 サキが俺の脇腹をげんこつで殴ってきた。さして痛くはないがいつもよりは強めな気がする。会社の先輩から出産の様子を聞いて少々ビビっていたので間に合わなくて良かったとどこかで思っていたが、実際にこうして我が子を見ていると、この世に生まれる瞬間を見逃したことはとても残念に思える。


「名前はどうする?まだ候補を絞り切れてないけど」

「思ったより早かったからねえ。どうしよっか」

「色白だからユキなんてどう?」

「悪くはないけど安直じゃない?」

「春だし、モモとかサクラなんてのもいいかもな」

「ありきたりだねえ」

「普通がいちばんだろ」


 普通か。


 名前もまだ無いこの子は、いったいどんな人生を歩むんだろう。普通が意外と難しいことは身をもって体験している。苦しいことも悲しいこともあるに違いないけれど、せめて俺のそばにいる間は安心させてやらなければ。


「サキ、俺頑張るよ」

「どしたの、突然。父親の自覚が芽生えちゃった?」

「うん、芽生えた。そんでもって絶賛成長中。多分もうジャックと豆の木くらいになってるよ」

「凄い勢いだね。この子が嫁に行くまで頑張ってよ」

「嫁?嫁か。それは嫌だな」


 まだ触れてもいない我が子の嫁入り姿を想像して憂鬱になった俺に、サキは小さな笑い声を立てた。


「うちのお父さんの気持ちわかった?」

「うん、申し訳ないことをした」

「じゃ、その分私のことも大事にしてね」

「了解」


 いつの間にか傾いた陽の光が廊下の壁をオレンジ色に染めていた。

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父になった日【KAC20218】 いとうみこと @Ito-Mikoto

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