ハートがぽこぽこ浮かんでる

凪野海里

ハートがぽこぽこ浮かんでる

 ある日、人の感情が見えるようになってしまった。もっと細かく言うのなら、その人が「尊い」と思ったものが。


 初めて見たとき「あれはなんだ?」と思った。頭の上にハートのかたちをした、言いようもない「何か」がぽこぽこぽこっとでてくるのだ。思わず目の前にいた友だちに「ねえ、頭の上に何かついてるよ」と言って、ハートをつかもうとした。

 けれど、その手は空を切るばかり。友だちが「どうしたの?」と笑ってきた。


「頭の上にハートがついてるんだよ」

「ハート?」


 友だちはますますおかしそうに笑って、化粧ポーチからコンパクトミラーを取り出して自分の頭を映してみた。「ね?」と問いかけた私に友だちは「何もないけど」とはっきり答えた。

 私が混乱したのは言うまでもない。友だちは「大丈夫? きっと疲れてるんだよ」と同情の目を向けてきた。もしかしたら友だちの言うとおり、疲れているのかもしれないと思って。その日以来日付が変わる前に寝るようにしていたのだけれど、1週間も過ぎるとこれは疲れによるものではないと気付かされた。

 明らかに、私はみんなの頭の上を飛び交うハートが見えている。しかもそれはどうやら、私にしか見えないらしい。


 さらに1ヶ月以上経過して色々考えてみた結果、どうやらそのハートは人が「尊い」と思った感情の激しさを表しているらしい。

「尊い」というのは一種の感情表現だ。「好き」と表すには端的すぎて、「大好き」というには表現がデカすぎる。「尊い」は違う。どちらかというと、感情を向けた対象に対して、「この世界に存在してくれてありがとう」という感謝の気持ちを込めるときに使うものだ。――一般的にどう思われているかはわからないけれど、少なくとも私はそう解釈している。

 まあそれが見える化したところでどうってことないわけだ。むしろどうせ見えるなら、そいつの年収とか見えるようになれば良いのにな……。そしたらその場合はハートではなく、お札だろうか。……諭吉とかかな。まさに夢のような話だ。


 そんなこんなで、半年を過ごした。そして半年経っても、いまだに人が「尊い」と思ったものが見えている。あちこちに湧き上がるハート、ハート、ハート……。ぽこぽこぽこぽこ。よくもまあ、そんなに「尊い」と思えるものがあるよねぇと、ちょっとあきれる。もちろん私にだってそういうものがないというわけではないけど、こうも他人の「尊い」が見えてしまうと、疲れてくると言うか、なんというか……。

 大学の広いキャンパス内にあるベンチに腰掛けて、私はお昼のお弁当を食べていた。人の「尊い」をいよいよ鬱陶しく感じるようになってから、なるべく手元や足元を見るようになっていた。


 そのとき、「あの」と声をかけるものがあった。

 最初は自分に声をかけているのかわからずに、私は手元のお弁当を食べることに集中した。だけど、またも「あの」と声をかけられた。さっきよりも大きな声で。


 もしかして私のこと呼んでる?

 これは顔をあげなきゃ失礼だよなと思って「はい」と顔をあげると、そこにいたのはやたらとかわいい顔をした男性だった。胸のあたりが平らでなければ、女性と見間違えてしまうほどに綺麗な顔をしている。

 彼の頭の上にはぽこぽことハートがでている。うわ、と心のなかであきれた。けれど顔にはださない。彼は私が何を見えているのか知る由もないから、初対面の人間にその態度はさすがに失礼だ。

 いったい何に対して「尊い」を感じているのかは置いとくとして、私は内心を悟られまいと満面の笑みで「何か?」と問いかけた。

 すると男性はパァッと顔を明るくした。ぽこぽこっとまたハートがでてくる。反応してもらえたことがそんなに嬉しいのだろうか。さては友だちいないのか? などと勘ぐっていると、彼は「隣に座っても良いですか?」と聞いてきた。


「はあ。まあ、どうぞ」


 私は隣のスペースを少し空けて、彼が座りやすいようにしてあげた。

 彼は私の隣に座ると、「あのっ」と上ずった声をあげた。


「石山ゼミの太田さんですよね」

「ああ、はい。そうですけど」

「やっぱり! このあいだの文化祭で展示されていたモノクロ写真見ました! とっても感動しました!」


 ぽこぽこっとハートがでてくる。まさか私の撮った写真に「尊い」を感じたのだろうか、この男性は。

 そういう感情を向けられると悪い気分はしなかった。ちょっと恥ずかしいけど。


「えっと、どうもありがとう。ところで、あなたの名前は?」

「は、はい。すみません。名乗らなくて。僕は2年の村上千春です」


 外見だけでなく、名前まで女の子みたいだった。


「実は僕ら2年生は、もうすぐゼミを決めなくてはいけない時期になってまして。僕、めちゃくちゃ悩んでいたんです。美術系専門の分倍河原ぶばいがわら先生のところにするか。あるいは石山先生のところにするかで」

「分倍河原先生なら、人気のゼミだね。倍率高くて。毎年、受講希望生に試験受けさせてる。合格しないとゼミ受けられないって」

「はい。ですが、今回の文化祭の展示で決心がついたんです。やはり石山先生のゼミで写真について学んでみたいと思ったのです」

「そう」

「太田先輩のおかげなんです。本当にありがとうございます!」


 村上くんはバッと空気を切るような、勢いのあるお辞儀をした。

 私は「顔あげてよ」と言いながら、紙コップに刺さったストローをくわえて野菜ジュースを飲んだ。村上くんは「はいっ!」と言いながら、顔をあげる。そしてまたハートをぽこぽこっとだした。


 そんな大したことはしていないんだけどな。というか、「尊い」の量がえぐすぎ。村上くんの頭の上をたくさんのハートが踊っている。それこそ空に届きそうなくらい。思わずちょっと笑った。

 するとまた彼は、ぽこぽこっとハートをだした。


 ん、なんでだ?


「よ、よければなんですけど。もし、僕が石山ゼミに入れた暁には先輩直々にご指導などいただけませんでしょうか?」

「え。いや、私写真うまくないし。もっとうまい子他にいるから、その子紹介してあげるよ」

「いえ、先輩が良いんです! どうかお願いします!」


 そしてまたバッと空気を切るような、勢いのあるお辞儀をした。


 困ったな。


 今年の文化祭用に撮影した、石山ゼミ用のあの写真。あれはただ、近所にある路地裏を撮影しただけだ。ゴミとそれをつつくカラスがたむろした路地裏を。

 はっきり言うと、路地裏なんてどこにでもある。ましてモノクロだから雰囲気は暗いし、挙句タイトルには「闇」なんてつけてしまったし。我ながら厨二くさいなとあとになってから後悔したほどだ。

 あんな厨二くさい写真の、いったい何が彼の心をそれほどまでに打ったのだろう。


「本当に私、たいしたもの撮れないし。指導だってできないよ。むしろ石山先生の授業をきちんと聞いてた方いいくらいだし」

「それでもですっ!」


 村上くんは大きな声を張り上げる。近くを通り過ぎた学生たちが何事かといった顔で、私たちをじろじろ見てきた。これはかなり恥ずかしい状況……。

 私は観念してため息をついた。このまま村上くんに頭をさげ続けられたら、キャンパスじゅうに変な噂がたってしまう。それだけはごめんだ。


「わかった。わかったわよ。いい加減、顔上げて」


 瞬間、村上くんは勢いよく顔をあげた。その顔にはこれまで以上の満面の笑みを浮かべている。


「ありがとうございます!」


 ハートが活火山のようにボコボコ湧き出していた。



 それから私と村上くんは、事あるごとに連絡を取り合っては一緒に写真の撮影会にでかけたり、あるいは著名な写真家の展覧会に行くことで仲を深めていった。

 長く過ごしてみて気付いたのだけど、村上くんはかなり面白い。とにかく表情がころころ変わって、笑ったり喜んだり悲しんだり泣いたりとせわしない。

 ただ気になったのが彼はあまり簡単に「尊い」を表さないことだった。どんなに感情が豊かでもそのあたりの基準はわりと厳しめらしい。もちろん、ちゃんと「尊い」をだすこともあるけれど、出会った頃の活火山みたいな「尊い」をだすのは本当に稀だった。

 そんな彼が唯一、活火山並みの「尊い」を表現するとき、それは一緒に撮影会に出かけるときだった。たいていは2人でいるとき。たまに私が同行者に友だちを呼んだりすると、その「尊い」はなりを潜めた。なんでかはよくわからないけれど。

 ともあれ、彼との時間は有意義でとにかく楽しかった。気がつくと「尊い」を見ないように伏せていた顔を、あげることも増えた気がする。


 そんなこんなで1年が過ぎ、また文化祭の日になった。

 村上くんから「是非見に来てください」と言われた私は、石山ゼミ生の展示室を訪れた。事前に彼から「先輩を被写体に撮りたいのですが」と連絡はもらっている。最初は断ったのだけど(なんてったって恥ずかしいし)、結局彼に押し負けるかたちで「よし」としてしまった。


 展示室の4年生の場所を通りすぎ、3年生の場所へと訪れる。

 村上くんの写真は、多くあるなかで唯一被写体が人間ということもあって、すぐに見つかった。


 写真に写っているのは、カメラを構えた私の姿のカラー写真。白のTシャツにターコイズのロングスカートを履いている。夏休みの終わりに一緒に撮影会に行ったときの写真だった。


 写真の下にあるタイトルを見る。

 ――そこには女の子っぽい字で、ただ一言「尊敬」と書かれていた。

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