ミミのはなし
葉月りり
第1話
ミミがやたら何度もトイレに行く。最初は膀胱炎かと思った。ここのところ寒かったから、冷えたんじゃないかなと。でも、膀胱炎にしては尿の量がやたらと多かった。
腎不全だと医師は言った。猫が命を落とす原因はこれが1番多いと聞く。ミミは12歳、高齢猫のうちに入る。特効薬はまだない。
腎臓に負担をかけない食事と飲み薬でなんとか寿命を延ばすしかない。それでも急に悪化することもあるという。
胸が痛い。
ひょんなことから一人暮らしの私の所に来た子猫はあまりに小さくて、ちゃんと育つのか心配したが、すぐに私にとってかけがえのないパートナーになった。一生懸命育てているつもりだったが、いつか逆にこの5キロ足らずの小さな子に私は頼っていた。
朝起きると食事をねだる。トイレが汚いと抗議する。寒いとくっついてきて、暑いとそばに寄らせない。走りたければ走るし、どこにでも上がっていく。この1LDKだけがミミの世界だけど、自由に生きることを全うしていた。その自由を病が奪おうとしている。
怖くてたまらない。
食事を腎不全処方食に変えて薬を飲ませる。大好きなササミもチュールもやめて医師の指示を守ると少し好転した。
お腹を上に寝転んだり、長ーく伸びてスヤスヤ眠ったりするのを見ると、とても安心する。取り敢えず気分悪そうな感じはない。今までより随分大人しいミミになってしまったが、このままずっと穏やかに過ごしていければと、祈るような毎日だった。
暑くなり始めたら、ミミの容態は急に悪くなってきた。ほとんど食べなくなってしまったので、点滴治療に病院に通うことになった。会社から定時で飛んで帰ってきてミミを病院に連れて行く。何日通っただろうか、医師から安楽死を勧められた。すぐには返事ができなかった。
その後数日、決められないまま点滴に通っていたら、とうとう医師に
「いつまで苦しめるのですか」
と言われた。
涙が止まらない。
点滴をした直後は少し気分が良くなるのか、ミミはベッドを出てご飯のお茶碗の前に寝そべっている時がある。なぜわざわざそこで寝ているのか分からないが、もしかしたらお茶碗でご飯を食べていたことを思い出しているのかもと、思ったりする。
ミミが水を飲む。舌を動かすのもしんどいように少し舐めては休む。どこか沁みるのか舐めては身を震わせるときもある。
ミミがトイレに立つ。なるべく歩かなくて済むようトイレをミミのベッドのそばに持ってきた。ほんの少しの距離を時間をかけて往復する。
「ちゃんと拭いてあげるからベッドでしてもいいんだよ」
と言ってもミミにはわからない。辛いだろうに、ゆっくりゆっくりミミは立ち上がる。そっと手を貸す。
その日、とうとう間に合わず、トイレの前で尿が出てしまった。ミミはすまなそうに私の顔を見る。
「大丈夫、大丈夫、いいんだよそれで。おしっこ出て良かったね。」
ミミの腎臓はもう水分しか通さない。尿はなんの匂いもせずあらかたミミの脂気の抜けた毛に吸われてしまった。わずかに床にこぼれた雫が丸くなって輝いている。なぜかそれがとても尊く見えて、拭き取ろうとした手が止まる。
死ぬまで生きる。
お笑いのネタに出てきそうな当たり前の言葉だけど、ミミはそうしたいのだと私は思った。
安楽死への後ろめたさからそう思うのか、自分の目の届かない所でミミが逝ってしまうのが嫌なのか、自分で自分の気持ちがわからない。
今までだって、ミミは生きるために食べて、生きるために寝て、生きるためにトイレに立ち、生きるために遊んで、そして私を生かすために甘えてくれた。
ミミのするあらゆる事が「生きる」ためだ。
私は決心した。点滴治療に通うのをやめてこのままこの家で見送ろうと。苦しめることになっても。苦しむ姿を見ることになっても。
早めの夏休みをもらってそばに居ることにした。もし、夏休みが終わってまだミミが苦しんでいるようなら、その時は病院のお世話になろう。
点滴をやめたら、すぐにミミは立ち上がる事ができなくなった。横になってただ息をしている。ただ生きるために息をしている。
ミミと呼ぶとわずかに耳を動かす。まだ意識はあるみたいだ。コットンを濡らしてミミの口を湿らせる。何度かは口をわずかに動かしてくれたが、そのうち無反応になった。
その時はあまり日をおかずやってきた。夜、リビングのソファでウトウトしていたら「にゃっ」とミミに呼ばれたような気がして飛び起きた。ミミがもうそんな大きな声が出せるわけないのに。異変だと思った。すぐにミミのそばに行く。
初めて見たけれどすぐにわかった。これは痙攣だ。ミミは足を突っ張らせてガクガクしている。歯を剥き出し、目をつり上がらせ瞬膜を見せている。
私はミミの頭を両手で包んで目と口を閉じさせて自分の頬を押し付けた。そしてミミが怖がらないように、なるべく静かな声で
「ミミ、ミミ、大丈夫だよ」
聞こえるわけないのにこれだけを言い続けた。
何分そうしていたのか、もしかしたら数秒だったかもしれない。ミミはやがて動かなくなって口からスーと空気を漏らした。
そのままミミは息をしなかった。
私はミミの顔をそっと揉んでかわいいミミにした。耳を立てベッドからはみ出た手足をいつもミミが気持ちよく寝ていたときの形に直した。そしていつものようにミミの毛に顔を埋めて深呼吸した。
それから私はミミにちょうどいい箱を探し、新しいバスタオルを敷き、その中にミミを入れた。思いついて冷凍庫から保冷剤をあるだけ出してタオルの下にミミの体に沿って置いた。
私はその間、ずっと涙が流れ、鼻水が流れ、口で荒い息をしていた。でも、すごく静かな気持ちでいた。そしてミミの体に触れながら朝を迎えた。
ミミのためにピンクの花を買って、ミミを囲む。ミミの好きだったおもちゃとチュールを入れる。ネットでペットの火葬をしてくれる所を探す。自分でも不思議なくらいスムーズに体が動いている。
ミミと最後のお別れをして火葬が終わるまで、待合室で待つ。泣くこともなく、係員のするミミの埋葬の説明をただ黙って聞いていた。1時間半ぐらいかかったか、ミミは白い陶器に入って私のところへ帰ってきた。
受け取った骨壷の温かさにびっくりする。そしてそれまで感じなかった待合室の冷え過ぎくらいの気温を感じて身震いする。
合祀する選択もあったけど、後で申し込むこともできるらしいので、もう少しミミと一緒にいることにした。
「さ、ミミ、帰ろうね」
外は盛夏の陽射し、蝉の声が、茹だるような暑さが、急に私に押し寄せてきた。
たぶん、もうしばらくは泣くことも多いだろう。でも、大丈夫。ちゃんと会社に行って働いて、食べて、寝て、悩んで、楽しんで、悲しんで、生きて行こう、いつか死ぬまで。
「ミミ、立派だったね。私はあなたを尊敬します」
おわり
ミミのはなし 葉月りり @tennenkobo
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