第三章 新たな訪問者

 アンの身の上に起こった災難を聞いた私は、アンのうでの解呪を引き続き進めたいと申し出た。アンはそんな私の提案を喜んで受け入れてくれた。

 アンを保護した翌朝、三人で朝食を取っているときのことだった。とつぜんアンがまゆを寄せて険しい表情をかべた。ハルを見ると同じように顔をしかめている。まるで何かを警戒しているかのように。

「ハル……。分かるか」

「ええ、アンさま。こいつぁ、かなり大きいですねぇ」

「こんなに近付かれるまで気付かんとは不覚じゃった」

「一体何のこと……」

 そのときだった。突然、しんの森に囲まれたりくとうともいえるこの家のとびらをノックする音が聞こえた。こんな森の深い場所まで一体誰が……。

「この魔力……。どうやら来たのは一人みたいですねぇ」

 ハルがめずらしくきんちようにじませた表情を浮かべてつぶやいた。アンとハルは前もって訪問者の高い魔力を感知していたようだ。人間である私には他者の魔力を感知することができないけれど、竜と幻獣にはそれができるのだろう。

 私は二人と顔を見合わせて小さくうなずいたあと、警戒しながら入口の扉の前へと近付いた。

「どちらさまですか?」

 おそる恐る尋ねてみると、扉の外から低い声が聞こえてくる。

「私の名前はエルネストという。あいさつに来た」

 声から察するにどうやら若い男性らしい。背後にひかえるアンとハルは、何が起こってもすぐに対処できるように臨戦態勢に入っている。私は警戒を強めたまま入口の扉をゆっくりと開いた。

 扉を開けてまず目に入ったのは、逆光のせいでゆらりとれる大きな黒いかげだった。目が慣れたあとに訪問者の姿をかくにんしてみる。

 エルネストと名乗る青年のねんれいは二十代半ばくらいだろうか。黒っぽいよろいを身にまとい、こしにはちようけんり下げている。そして見上げるほどに背が高い。まるで歴戦の戦士といった風格が感じられる。

(それに……なんてれいな人なのかしら。これほどふんのある人はブリュノワでは見たことがないわ)

 耳の下ほどまでの長さのくろかみが乱雑に下ろされ、深い海のようなサファイアブルーのひとみまえがみが少しかかっている。切れ長のれいな光をたたえた瞳は、すべてをかさんばかりにするどい。美しい顔立ちと均整の取れた体つきからにおい立つような色気がかもし出されている。

 けれど一方で、ぞくりとするほどのぼうは、どこか人を寄せ付けないような冷たい雰囲気を纏っていた。一体どんな過去を背負っているのか知らないが、その表情には底の知れない深いやみかいえるようだ。エルネストさんの身なりから察するに……、

(どこかの国の剣士といった感じ……。ぼうけんしやかもしれないけれど、平民にしては立ちいに品がある気がするわ。もしかして貴族かしら)

 私を見下ろす表情からは何の感情も読み取れない。そのため、目の前の青年が敵なのか味方なのか全く判断がつかなかった。エルネストさんの纏う空気はどこまでもひんやりと冷たく、にらまれると体がすくみそうになるほどのあつかんを感じさせる。

 なるべく平静をよそおいながら目の前のげんそうな青年に尋ねる。

「こんなへんな所へ、どういったご用件でしょうか?」

「まずはうかがいたい。君はじよか」

 いきなりのしつけな質問におどろいてしまった。確かに、このような森の奥に人間の女性が住んでいるのは不自然だろう。そう考えれば、エルネストさんの問いかけもなんら不思議ではない。けれど初対面の女性に対する最初の質問にしてはあまりにも失礼ではないだろうか。

「いいえ、私は魔女ではありません。エルネストさん、他にご用件は?」

「この森にしき魔女がいるならばちくせねばならない。そのために私はここへ来た。君の名前を聞かせてもらおうか」

 エルネストさんは表情を変えずにたんたんじんもんしてきた。じよりのためにこんな森の奥まで来たのだろうか。私は疑問に思いつつもひるむことなく答える。

「私はクロエと申します」

「クロエじよう、私は君が魔女でないと、すぐには信じられないのだが」

「信じられないとおつしやられても違うものは違いますので。大体なぜ貴方あなたは私が魔女だと思われるのですか?」

「この森に魔女が住んでいるといううわさを聞いたからだ」

「噂……ですか」

 まるで心の奥まで見透かそうとするかのようにエルネストさんがすぅっと目を細めた。見つめる相手をつらぬかんばかりの氷のように冷たいまなしだ。

「しばらくの間、私はこの近くにきよてんを構えて君のことをかんさせてもらう。本当に悪しき魔女でないかどうかをきわめるまでだ」

 無表情で淡々とつむがれるエルネストさんの言葉には驚かされた。けれど今は様子を見るしかなさそうだ。

「どうぞご自由に。時間のだと存じますけれど」

「フッ。どうだろうな……。私には君がつうの人間には見えないのだがな」

 初めて感情を示したエルネストさんの表情を見て驚いてしまった。氷のように冷たくようえんな笑みだ。ぞうにも似た感情を感じ取ってわずかにどうようしてしまう。

(この人がにくんでいるのは魔女なのか、それとも私なのか……)

 確かに普通の人間かと聞かれれば、私は普通ではないだろう。だからと言ってだれめいわくをかけているわけでもない。なぜ見ず知らずの人間に憎まれなければならないのか。

「いい加減にしてください。見ず知らずの貴方にそこまで責められる覚えはありません!」

 ずっとおさえていた感情が不意にたかぶって、はからずもみつくように声をあららげてしまった。すると、突然エルネストさんが私のこうなど意にもかいさないといったふうに、スッと笑みを消して指で私のあごをぐいっと持ち上げた。そして顔を寄せて今にもくちびるれそうなきよで私の顔をじっと見つめた。

「この美しい顔で男をたぶらかすのか。そしてその命をおびやかすのか」

 しゆんかん私はきように身が竦んだ。間近にせまるエルネストさんのかんばせはふるえるほどに美しい。私の瞳をのぞき込んで真意をさぐらんとばかりに細められた深い海の底のような青にすくめられて、背筋がぞくりとした。

 私は同じようにエルネストさんのサファイアブルーの瞳を、その本心を探るべく見つめ返す。エルネストさんとの間にただよう空気がどこまでも冷たく感じる。けれどそれは気のせいではなかった。口を開こうとしてうすく開けた私の唇かられ出たいきが本当に白く変わっていたのだ。

 私の顎を指で支えるエルネストさんの腕を、ハルが横からグッとつかんだ。いつも笑っているハルが初めて見せた、まるで射殺さんばかりの鋭い目つきだ。

「いい加減にしてもらえませんかねぇ。クロエさまは魔女なんかじゃありませんよ。これ以上無礼を働くならアタシがあんたの命をもらいますよ」

「全く失礼な男よのう。れいがなっとらん。初対面のレディーに対する態度じゃないのう」

 アンは両手を腰に当てて、エルネストさんをいましめるかのようにぜんと言い放った。ハルもアンも私のために腹を立ててくれているようだ。

 エルネストさんはハルとアンの言葉に特に反応することもなく、私の目を見つめたまま視線をらさない。私はそんなエルネストさんに静かに抗議する。

「この手を放してください、エルネストさん。私が悪しき魔女かどうか、その目で存分に見極めればいいでしょう」

 エルネストさんは私の顔からようやく手をはなして、無表情のままハルとアンを順に見て告げる。

「現に君はこうして魔物を飼っているじゃないか。それでも魔女ではないと?」

「彼女たちは魔物ではありません。てつかいしてください」

 私はどうにかいかりをこらえてエルネストさんに魔物あつかいの撤回を求めた。相手が誰であれ、ハルとアンをじよくするのは許せない。

「どうだかな」

「なぜ貴方はそれほどまでに……」

 ──魔女を憎んでいるの?

 私がそう言いかけたところで、エルネストさんの冷たい声によってさえぎられる。

「まあいい。君が悪しき魔女なら私が殺す。それだけだ」

 エルネストさんは全く感情を表さない低い声でそう言い放った。そしてそのままきびすを返して立ち去っていった。


 私はとびらを閉めたあと、そのままぎゅっとまぶたを閉じてうつむいた。そんな私に向かってハルがいらちもあらわに言い放つ。

「クロエさまぁ、あのエルネストとかいう男、殺しちゃっていいですかぁ? あいつが近くにいると思うと胃のとこがムカムカするんですけどぉ」

 本来人間らしい感情を表に出さないげんじゆうであるハルが、私の気持ちに共鳴していきどおってくれている。そのことがうれしい。そしてハルのぶつそうな言葉のおかげで少し頭が冷えた。

「ハル、落ち着いて。私のためにおこってくれているのは嬉しいけれど、こちらから手を出せば彼は私を魔女だと決めつけてくるでしょう。くやしいけれどしばらくは様子を見ましょう」

「それがいいかもしれんのう。わしはらわたえくり返る思いじゃが、戦うにしてもあの強大な魔力から察するにあの男はかなりの強さじゃろう。恐らくハルと今の儂じゃ歯が立たん。クロエは別じゃろうがな」

 アンの言葉を聞いたハルがチッと舌打ちをしてふてくされたような表情をかべた。おそらく実力の差をにんしきしてはいるのだろう。

「クロエさまならあんなやつひとひねりでしょう? っちゃいましょうよぉ」

よ、ハル。それに私だって彼に勝てるかは分からないわ。そして、もしも人をあやめたら私は本当に悪しき魔女になってしまう。私が魔女じゃないと分かれば、あの人はきっと引きげるでしょう」

「本当にそうなりますかねぇ……」

 ハルが不満げに顔をしかめた。私だって腹が立つ。初対面でいきなりいわれのない憎悪をぶつけられたのだから。けれど一番腹が立ったのはハルとアンが魔物扱いされたことだ。私はいつの間にかハルとアンを友人のように思い始めていたようだ。

 それにしてもエルネストさんの魔女に対する並々ならぬ憎悪は何に起因しているのだろう。もちろん私には心当たりなど全くないけれど。

(彼は一体何者なのかしら……。どうしてあんなにも魔女を憎んでいるんだろう)

 エルネストさんに関しては分からないことだらけだ。しばらくこの近辺に拠点を置くと言っていた。周辺にはこの家以外の建物などないというのに、どこに住まうつもりだろうか。

 行動の予測のつかない存在が近くにいるという不安が、ことほか大きくのしかかる。みをおそわれたり、問答無用でこうげきされたりということはないと思うけれど。

「それにしても貴女あなたたちは魔力を感知できるの?」

「まあな」

 そういえばアンは私の魔力を辿たどってこの森へ来たと言っていた。

「アンに気付かれたということは、私は魔力を上手うまく抑えられていないのかしら」

「そんなことはないぞ。お主は魔力そのものをちゃんと抑えられておる。いざ戦いにのぞむとなれば、その限りではないじゃろうが」

「えっ、でも……」

かんちがいさせてしもうてすまん。昨日はお主の魔力を辿ったと言うてしもうたが、厳密には違うのじゃ」

「魔力とは違う……?」

 アンの言っている内容の意味が掴めず、思わず首をかしげてしまった。アンは大きくうなずいて話を続ける。

「儂が感知したのは魔力そのものじゃなくて、グリモワール独特の力と言ったらいいじゃろうか。けいやくしておるお主の幻獣もグリモワールの力を感じておるはずじゃ」

 ハルがアンの言葉を受けてニコリと微笑ほほえみながら頷いた。

「……そうだったの」

「ああ。しかも儂が感じ取れるグリモワールの力には色がついておるからの。お主の力は何色にも染まらぬ美しい黒。それはどんなに遠くにいても感じ取れる強い力じゃ」

「そうだったの……」

 りゆうにグリモワールを探知できる能力があったなんて……。まだグリモワールにさいされていない、私の知らないことがたくさんあるようだ。


 ●●●


 いつものようにうでの解呪を進めたあと、アンを客間のベッドで休ませて庭へ出てみることにした。そして入口の扉を開けて広がる外の風景を見ておどろいてしまう。あんなにほうだいだった庭がれいくさりされていたのだ。ハルが風ほうでサクッとったのだろうか。

 家の周辺を少し歩くと、ハルが敷地の南側の一角に座り込んでいるのを見つけた。私の存在に気付きもせずに、地面に向かって何やら集中しているようだ。

 一体何をしているのだろう。うずうずと悪戯いたずらごころいてくる。急に声をかけたら驚くだろうか。こっそり近付いてみよう。

「……何してるの?」

「わわっ、クロエさまっ! ああ、びっくりしたぁ。ここを畑にしようと思って草を根っこからむしってるんですよぉ」

「まあ、そうだったの……」

 草毟りを手伝おうとしたけれどよごれるから駄目だと制されたので、仕方なく辺りをわたした。

「一応、魔物が入れない程度の結界は張ってるけど、エルネストさんは入ってきちゃったのよね……」

 それにしてもエルネストさんはどこにきよてんを構えたのだろう。寝込みを襲われることはないだろうけれど私に敵意をいだいているのは確かだ。できることなら現状をあくしておきたい。ハルにエルネストさんの居場所をさがしてもらおうか。私は草毟りにぼつとうしているハルにたずねてみた。

「ここから南に三百メートルほど行った辺りに魔物の気配が感じられない場所があるんで、多分そこに……」

 そこまで話したハルが急に険しい表情を浮かべて言葉をまらせた。そして何やら考え込んだあと、再び話し始める。

「……クロエさま。こいつぁ、やばいかもしれません。数百の魔物が南のその場所に一直線に向かっています」

「え……」

 ハルから聞いたじようきようの深刻さに思わず息をむ。

「魔物の気配がない空白の場所は恐らくあの男の拠点でしょうね。場所を確保するために魔物をそうしたんでしょう。それにしてもそこに向かっている魔物のいかりの波動がすごい……」

 ハルがしんけんな表情のまま説明を続けた。数百の魔物なんてどう考えてもつうじゃない。それらが一か所に向かおうとしているなんて。

「怒り? 魔物が?」

「ええ。魔物の中には、まれに獣人のように群れをなす個体がいるんですよ。そいつらはみように仲間意識が強くて、仲間がやられると報復に走ることがある。そしてなわり意識も強い。あの男は群れの怒りを買ったんじゃないでしょうか」

 単体では弱い魔物でも集団になると強くなる。それが群れをなす魔物のとくちようだ。

「群れの怒り……。この周辺には獣人はいないはずよね。群れをつくる魔物といえばアシッドエイプ、ビッグホーンディア……」

「この数からいってアシッドエイプ猿野郎でしょうね」

 ハルがあごに指をえて俯きながら答えた。何かを考え込んでいるようだ。もしハルの言ったことがこれから起こるのならば、このままにしてはおけない。

「私、エルネストさんの所へ行ってみるわ。魔物がここを襲わないとも限らない。ここの結界を最大強度にしていくから、ハルはアンを守ってあげて。結界の外に出ないようにね」

 私の指示を聞いたハルが、なつとくできないと言わんばかりにこうする。私を心配しているのだろう。

「クロエさま、あんな奴ほうっとけばいいじゃないですか! 自分でいた種でしょう? 自力で刈り取らせればいいんですよ!」

「そういうわけにはいかないわ。魔物の数がじんじようじゃないもの。放っとけばこちらにもがいおよぶかもしれない。何百という魔物が近くまで来てるんでしょう?」

「ええ、奴の拠点の南東のほうから……。だけどクロエさま……」

だいじようよ。ここで待ってて」

 ハルは私の言葉にしぶしぶ頷いた。ハルの言っていることのほうが正しいのは分かる。そしてこの家に被害が及ぶかもしれないという私の言葉にもうそはない。実際に怒りくるった魔物がエルネストさんをたおしたあとちんせい化せずにここを襲ってくる可能性は高い。

 けれど本当は、だれかが近くで死ぬかもしれないと分かっているのに何もしないで高みの見物なんて、私にはどうしてもできないのだ。

 ハルにアンの保護をたくして家の結界を最大限まで強化したあと、森に入って南のほうへと走る。魔力を感知できない私でも分かるくらいに森がざわめいている。普段この辺りをはいかいしているはずの魔物や動物がいつさいいなくなっている。鳥の一すら見かけない。

「やっぱり森がおかしい……」

 アシッドエイプはやつかいな魔物だ。単体だとたいして強くはないけれど、自分たちの縄張りを作って組織で行動する。

 体はさるに似ていて身長が二メートル前後あり、百~二百の群れをなすと黒の書に記載されている。とうそつするボスがいて仲間同士で連係こうげきもしてくるらしい。

 けれど一番厄介なのはやつらがきかけてくるえきだ。非常に強い酸性で、はだにかかってしまったらひど火傷やけどのような状態になってしまう。そのまま放置すれば酸がからしんとうして最後には骨をもおかす。

「何をしでかしたか知らないけれど」

 エルネストさんは拠点の魔物を掃除するときに、奴らの群れの個体を何体か倒してしまったのかもしれない。あるいは拠点の場所が奴らの縄張りの中なのかもしれない。

 に角エルネストさんがアシッドエイプの怒りを買って報復されようとしているのは間違いない。

「まったく、めんどうをかけてくれるわ」

 私を殺すと言ったひとだけれど、このまま放っておくことはできない。いくら強くてもアシッドエイプ数百を一度に相手にするのは無理がある。

 南へ走り続けてしばらくすると、うすぐらい森の中に明るい開けた草地が見えてきた。


 ●●●


 あの少女に会って拠点へもどったあとしばらくってから、俺は森の異常に気付いた。この周辺に感じていた魔物や動物の気配がなくなっている。鳴き声やにおいや木々のざわめきなどの一切が綺麗さっぱり消えた。

「ん、なんだ……」

 南東の方角からひびきやれの音がかすかに伝わってくる。じよじよに大きくなってくる異様な気配にいやな予感が芽生える。伝わってくる気配は一ぴきや二ひきじゃない。けたはずれの大群だ。

 すぐにこしるした剣をいて準備に取りかかる。体調も魔力もばんぜんだ。おそってくるものは何であろうと返りちにする。それだけだ。

 結界の南東のはるか先のほうから数体のアシッドエイプが木の枝を伝ってくるのがちらりと見えた。俺のほうへ一直線に向かっている。奴らのねらいはどうやら俺らしい。

 奴らの習性については聞いたことがある。

「仕返しか?」


 今朝早くに、話に聞いていた女に会うためにこの森へと降り立った。丁度いい草地があったのでここを拠点にしようと決めた。

 そこで拠点の場所を確保すべく魔物の掃除に取りかかった。げていく魔物を追うことはしない。ただこの草地に元々いた何匹かがきばをむいて襲いかってきた。

 その中にアシッドエイプが三びきいた。奴らの習性は知っていたが、報復に来るなら返り討ちにすればいいと考えてちゆうちよせずにほふった。どうやらそれがまずかったらしい。

「こんな大群で来るとはしゆうねんぶかい。……いや、執念なら俺のほうが上か」

 俺はクロエという少女の正体をまだ知らない。再会する前に猿ごときに倒されるなど無様すぎる。俺を殺そうとしたあの黒いじよふくしゆうするまでは、絶対に倒れるわけにはいかないのだから。


 右手の長剣に氷属性をする魔法をかけて、氷のやいばへと変化させた。刃の周りには白い冷気がただよっている。そして自身に身体強化とぼうぎよ強化の魔法をかけた。

 この拠点をおおう結界は、残念ながら雑魚ざこ魔物のしんにゆうを防ぐ程度の弱いものだ。あの猿が集団で襲ってきたらえきれないだろう。俺は結界を張るのが少々苦手なのだ。

 そして奴らの唾液攻撃は厄介だ。こくりゆううろこであつらえたこのよろいならば強酸にも耐えうるが、全身にまとっているわけではないので万全ではない。

「さて、防御強化がどこまでもつか」

 三匹のアシッドエイプが近付いてきた。魔法の射程に入ったのを見計らって、奴らに向かって放射状に氷のやりを放った。そして二匹の魔物が体をつらぬかれる。

「ギャアッ!」

「ギィアッ!」

 残った一匹が氷の槍をかいくぐって飛びかかってきた。空中で俺に向かって強酸の唾液を発射しつつ、するどつめりかぶる。

 俺の顔を狙った魔物の唾液を、姿勢を低くしてかわしつつ爪の攻撃を右にけながら、一気に間合いをめて魔物のどうよこぎにはらう。

「ハッ!」

「ギィヤアァッッ!」

 魔物が断末魔の悲鳴を上げた。そして分断されてこおりついたなきがらがボトリと地面に落ちた。

 これで三匹は倒したが、最初にやった二匹の向こうから数十匹の魔物が枝伝いに近付いてくるのが見える。

「数は多いがしよせん雑魚にすぎん」

 近づかれると唾液の攻撃が厄介だ。接近される前に魔法でむかつことにする。

 左手をかざして無数の氷の槍を大群のせまる前方へ放ちつつ、氷の剣の先を地面にして前方へと斬り上げた。

 斬り上げた地面から鋭い氷のとげが次々に大量に生えて前方へと走っていく。高さ五メートルほどにぐんぐんとびた氷の棘が次々と魔物の体を貫いていく。一気に数十匹の魔物が片付いた。

 氷の棘は魔物を貫きながら同時に敵の進行をもさまたげる。魔物は地面から生えた大量の氷柱つららに躊躇して速度を落としながらも、氷柱のすきをかいくぐって接近してくる。

「キリがないな。全部で何匹いるんだ」

 前方に氷の槍を射出しつつ、けんで氷の棘を走らせる。たまにかいくぐって接近してくる魔物を氷の剣でたたき斬る。

 これを何度り返しただろうか。もう百五十匹くらいは倒した気がする。

「くそっ、残りは何匹だ……」

 いくら倒してもキリがない。倒したそばから次々と魔物が押し寄せる。

 油断をしていたわけではないが、いつしゆんの隙をつかれて三匹の接近を許してしまった。三方向から同時に唾液攻撃を受けそうになる。

 とつに氷のたてを作って防いだが、うち一匹の唾液攻撃をみぎひざに受けてしまった。激痛にえながらそのまま残りの一匹をななめ上に斬り上げた。

「ギャアァッ!」

 断末魔のさけびとともに魔物の体が分断されてボトリと地面に落ちた。酸を受けた右膝に目をやり、傷の状態をかくにんする。

「チッ。よりによって足か」

 あらかじめかけておいた防御強化のおかげで強酸の効果が薄れはしたが、だんした部分は酷い火傷状態になってしまっている。

 徐々に激しくなってくる痛みにえかねて、不覚にも右膝を地面についてしまった。このまま魔法の攻撃をやめてしまえば一度に多勢の接近を許してしまうことになる。

 案の定、仲間のしかばねを乗りえて、いかりで真っ赤に染まった目をぎらつかせながら、数十匹の魔物が押し寄せてきた。このままではあっという間になぶり殺されてしまうだろう。

 一瞬絶望に支配されそうになった。だがそのとき、なぜかあの少女の顔が頭にかんだ。そうだ……俺はまだクロエのことを何も知らないじゃないか。

「まだたおれるわけにはいかないっ……!」

 これ以上敵を近付かせるわけにはいかない。俺は歯を食いしばって立ち上がった。

「あれを使うしかないか……」

 魔力の消費が激しいので長期戦になりそうなときには使わない。所謂いわゆるとっておきというやつだ。

 すうっと大きく息を吸って呼吸を整え、魔物が押し寄せてくるほうへ両手をかざす。そして残る魔力をすべて使い切るつもりで風とひようしようの混ざり合うふんりゆうを放射状に放った。

 俺を起点としてき出されるもう吹雪ふぶきに、魔物をはじめ地面や草木もみるみる凍りついていく。前方から向かってきていた何十匹という魔物たちが、そのまま凍りついて次々に地面へと落下していく。こうげきはんにあったものは全て氷結してしまっている。

 持てる力の全てを出しきったとき、目の前にはまるでツンドラのような、白銀に染まった氷点下の世界が広がっていた。

「……やったか」

 もはや魔力は底をつきかけている。そのまましばらく様子を見てみたが、もうツンドラの向こうから新手の魔物が来ることはなさそうだ。

 凍りついた地面の上には氷像と化した魔物のざんがいが無数に散らばっている。そしてきよてんの中には、何体あるのか判別できないほど大量の屍の山ができていた。

 足を引きりつつなんとか近くの樹木まで移動して、背中をもたせかけてずるずると座り込んだ。

「なぜあのの顔が……」

 ──あのとき浮かんだのだろう。

 右膝の傷をれいきやくしたあと、俺はこれ以上敵が来ないことをいのりながらゆっくりと目を閉じた。


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婚約破棄された公爵令嬢は森に引き籠ります 黒のグリモワールと呪われた魔女 春野こもも/角川ビーンズ文庫 @beans

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