第二章 迷える少女

 私は朝ベッドから出たあとあいいろのワンピースにえて白のエプロンを身に着けた。

 以前この家に荷物を運びこんだときに、ある程度のそうは済ませておいたのだけれど、留守の間にまたほこりまってしまったようだ。それほど大きくはない部屋をわたして、ちょっとだけ楽をしようと考えた。

「ハルピュイア……私のもとへ来て」

 てのひらに取り出した黒の書を行使してげんじゆうハルピュイアを呼び出した。黒の書から現れた青い光が目の前に集まる。そして光の中から、美しい女性の姿をした、翼を持つ鳥の幻獣が現れた。

 現れた幻獣は全身がうすべにいろつややかなもうおおわれている。上半身がようえんな女性の曲線をえがく一方で、どうもうするどかぎつめが備わる足は鳥そのものだ。

 幻獣といっても実体のない存在というわけではない。グリモワールのけいやくのもと、りよくを使って異次元に存在する幻界に住む彼らをこの世界へと呼び出しているのだ。

 ハルピュイアがえんぜん微笑ほほえみながら私に話しかけてくる。

「アタシに何かご用ですかぁ? 

「ええ、お願いしたいことがあるの。……そうねぇ、そのままじゃゆかに傷がついちゃうから人化できる?」

「お安いご用ですわぁ」

 ハルピュイアは人間の女性へとみるみる姿を変えた。あごよりも短く外側にはねた薄紅色のかみが印象的な、妖艶で美しい顔立ちをしたみようれいの女性だ。

 そして予想通りではあったけれど、人に変化したハルピュイアは生まれたままの姿だ。

 このままはだかでうろうろさせるわけにはいかない。私はクローゼットから黒のお仕着せとエプロン、それと編み上げブーツを取り出して、それらを身に着けるよう指示した。

 するとハルピュイアはめんどうくさそうにお仕着せとブーツを身に着ける。

「ああン、もう! 人間って本当に面倒臭いですねぇ」

「フフッ。よく似合ってるわよ。貴女あなたにはしばらくお世話になりたいから、名前を付けましょうか。そうねぇ……ハルと呼びましょう」

「メートレス、ひねりがないですねぇ……」

 ハルは人差し指を頬に当ててきょとんと首をかしげた。とはいえ、名前をもらったことについてはまんざらでもなさそうだ。

「そう? いい名前だと思うけど。それと私のことはクロエって呼んで。それじゃあハル、一緒にこの家を掃除しましょう」

「かしこまりぃ。ねえ、クロエさまぁ、ここ、風でピュウゥ~ってやっちゃですかぁ? 埃なんていっぺんにき飛ばせちゃいますけどぉ」

「そうね、それもいいわね。だけどそれをやっちゃうと、埃といつしよにおとんや家具が全部吹き飛んじゃうから、地道にお掃除しましょう」

「はぁい」

 私はハルと一緒に高い場所の掃除から始めた。しようかんした幻獣とは、言葉をわさなくても、ある程度は意思のつうができる。だから掃除に慣れないハルでもスムーズに作業を進めることができた。

 二時間ほど掃除をしたところで、家の中がおおむれいになった。私はふぅと一息ついてダイニングでお茶の準備を始める。

「ハル、一緒に紅茶を飲みましょう」

「アハハッ。幻獣と一緒にお茶しようなんて言う人間はクロエさまくらいですねぇ」

 ポットの中に入れた紅茶の葉っぱをらしながら、食べるものはどうしようかなぁなどと考える。取りあえずの食材は持ち込んでいるから当分はだいじようだけれど、ずっとこのままというわけにはいかない。

 持ち込んだクッキーをハルと一緒につまみながらお茶をたしなむ。ゆったりとした時間をまんきつしていると、とつぜん何かを思い出したようにハルがたずねてきた。

「クロエさまはお貴族さまなんでしょ? どぉしてこんなまつな小屋に住もうとしてるんですかぁ?」

 どうやら幻獣のハルでも私の行動に疑問を感じるらしい。どうして森で暮らし始めたのかなんて、理由は一つしかない。

 幻獣は契約により、決して私の意に反する言動をとることはない。だから秘密を打ち明けたところで他言することもない。

だれにもじやされずに作りたいものがあるのよ」

「作りたいもの?」

「ええ」

「それってなんですかぁ?」

「……『おいときいとぐるま』」

「えっ?」

 ハルにそう答えたときだった。突然森のほうから子どもの悲鳴が聞こえた気がした。とつにハルと目を合わせる。どうやらハルも気付いたようだ。

 魔物かもしれない。けれど人間かもしれない。この危険な森に幼い子どもがいるはずがない。人をまどわす魔物のわなかもしれないけれど、わずかでも人間の可能性があるなら確かめないわけにはいかない。

「行くわよ、ハル」

「りょぉ~かい」

 ハルはしようしながらかたすくめて答えた。私は幻獣の姿にもどったハルを従えて家から飛び出した。そして子どもの声が聞こえてきた森の中へと足をみ入れた。


 しんにゆうした森の中は樹木がうつそうしげっているため、午前中にもかかわらず太陽の光があまり届かなくてかなりうすぐらい。

 人化を解いたハルは空中を飛んで木々の間をうように前を進む。私は自身に身体強化の魔法をほどこしてハルのあとに続く。

 ハルが森の奥へ移動しながら一方向を指差して告げる。

「声の主はこっちみたいですねぇ」

「正確に分かるの?」

「ええ。さくてきはお任せですよぉ。音波でもって対象の位置を感知できるんで」

「たいしたものね。すごいわ、ハル」

「えへへぇ~」

 ハルはめられたのがうれしかったのか、目的地へと向かいながら嬉しそうにニヤニヤと笑っていた。

 それにしてもハルピュイアにそんな特技があるとは知らなかった。幻獣の能力については黒の書にすべさいしてあるけれど、それぞれの能力が具体的にどんなふうに応用されているかということまでには考えが至らなかった。これから一つ一つ覚えていかなくては。

 森を迷いなく進むハルの後ろについていく。しばらくすると遠くからおおかみの低いうなり声が聞こえてきた。

 さらに進んだあとに目に飛び込んできたのは弱り切った傷だらけの美しい少女と、ものに飛びかかるタイミングをうかがいながら間合いを測ってうろうろと歩き回る五ひきのフォレストウルフだ。

「うっひゃあ、いるいる!」

 ハルが楽しそうにみをかべた。まるでおもしろいものを目にしてはしゃいでいるかのようなハルを見て、思わずためいきが出てしまう。

 フォレストウルフはにびいろの体毛に覆われた狼に似た魔物だ。狼の体長の一・五倍はあるだろうきよだいたいに似合わず、こうかつびんしような動きをする。群れをなしてりをする習性があり、集団でおそわれた場合、つうの人間なら一溜まりもない。

「グルルルル……」

 獲物に向かって目を光らせながら獰猛に唸るフォレストウルフの五メートルほど先には、全身傷だらけの六、七歳くらいの幼い少女が弱々しく立ち竦んでいた。

 着衣には血がにじんでおり、かなりすいじやくしているように見える。ちからきて今にもひざからくずおれそうだ。このままでは膝をついたしゆんかんに魔物たちに飛びかかられてしまう。もう一刻のゆうも許されない。

「グリモワール」

 私は全身に黒の書をまとったあと、そくに魔物たちに向かって三日月形の光のやいばを放った。魔物が私たちのとうちやくを感知するよりも先に光の刃がちやくだんする。

「キャインッ」

 光の刃のいくつかが一ぴきの魔物の体を切り刻んだ。刃の一つが急所に着弾したのだろう。その魔物がトサリとその場にたおれた。

 残りの四匹の注意がこちらへ向いた。自分に危険がせまっているのに目の前の食べ物を優先する魔物はいない。魔物たちは本能的に私の魔力の大きさを感じ取っておびえ、そして竦む。けれど即座に退たいきやくするほど頭が良くはなかったようだ。

「おバカさんだねェ。本能に逆らわなければ長生きできたのにさァ!」

 ハルが魔物たちをあざけりながら大きく飛びあがった。そしてこちらをかくしつつもじりじりと後ろへ下がっていく魔物たちにちようおんによるこうげきを放つ。

 どうやらハルの攻撃は魔物たちが固まっているせまはんを対象としているようで、少女にえいきようはないみたいだ。少女はきょとんとして戦いの様子を見ている。

「キャンキャンッ!」

 ハルの超音波攻撃により魔物たちが耳から血を流している。どうやら魔物の体内に多大なダメージをあたえたようだ。

「ハル、やるじゃない」

「こんな雑魚ざこなんて朝飯前ですよぉ」

 そういえばフォレストウルフの毛皮は高値で取引されると聞いたことがある。素材の利用価値が高いのかもしれない。となると、あまり体を傷つけないほうがいいだろう。

 そしてこんなきんきゆう事態に冷静に魔物の利用価値について考える私は、たいがいはくじようなのかもしれない。

 私はもうろうとしながらよろめく魔物たちに引き続き光の刃を放った。今度は魔物たちの急所のみをピンポイントでねらう。首の動脈の辺りだ。

「キャンッ!」

「ギャインッ!」

 ハルの攻撃で魔物の動きがにぶくなっていたために、容易に急所を狙って攻撃することができた。魔物たちは断末魔のさけびを上げ、次々に絶命してその場に倒れていく。

「クロエさま、すっごぉい! さっすが我があるじ!」

 ハルがほこらしそうにかんたんの声をあげるのを耳にしながら、私はすぐさま傷ついた少女のもとへとけ寄った。今は少女の状態が心配だ。少女は魔物が倒されたのを見て安心したのか膝からくずおれ、そのまま草の上に倒れ込んだ。

「ちょっと! 貴女あなただいじよう!?」

「あー、やばいですねぇ、これ。出血が酷いですもんねぇ」

 ハルは無表情のまま少女の体を見下ろして、まるでお天気の話でもするかのように感想をらした。あわれみの情は持ち合わせていないのだろう。こういった一面を見ると、げんじゆうが人ならざるものであることを改めてにんしきする。

 少女は意識を失っている。体中傷だらけで出血が酷く、呼吸が弱々しい。少女の腰よりも長いであろういろつややかな髪は頭上で二つに結ばれており、ゆるやかなウェーブをえがいている。身長は百二十センチくらいだろうか。

(なんだかれいな子ね。幼いのにあやしい美しさがあるわ。それにしてもこんな幼い子がなぜこんな森の奥まで……)

 白かったと思われるボロボロの衣服はげている間に土と血でよごれてしまったのだろう。おそろしく整った顔立ちは幼くあどけない。長い瑠璃色のまつふちどられたまぶたが力なくせられている。

 私は足元に横たわる少女のそばかがみ込んで魔法を施した。傷はふさがったけれど少女は目を覚まさない。出血が多くて重度の貧血状態になっているのかもしれない。

 こんなに幼い子どもを私の目の前で死なせはしない。絶対に助けてみせる。

「私がこの子を連れていくわ」

「りょぉかい。じゃぁ、アタシはこの五匹……いや、四匹を運びまぁっす」

 ハルが引き算したのは私が最初に切り刻んだ一匹だろう。あれでは確かに利用価値はない。ハルは状態のいい四匹の足を器用にその辺に落ちていたつるくくりつけてかかえ上げた。自分の体よりも大きなものを四匹も抱え上げるなんて凄い力だ。

 私は自分に身体強化をかけて少女をゆっくりとよこきにして抱えた。そしてなるべくらさないように細心の注意をはらいながら足早に家路を辿たどる。

 少女の体は冷え切っている。傷だらけでなんと痛々しいことだろう。

わいそうに……。もう少しだけまんしてね」


 ●●●


 家に到着してすぐに少女を抱えたまましんしつへと向かった。ハルは屋外に獲物を置いたあとに、私に続いて家の中へ入った。

 少女をベッドに横たえたあと、ボロボロの衣服をがせて私のクリーム色のパジャマのシャツを着せた。少女の顔の汚れを湿しめらせたやわらかい布でぬぐいながら考える。

 外傷の治癒は済ませた。あとは失った血液を補うために、意識が戻ってから何かを食べさせればいい。そしてこの子の手首の……、

「このうで……。かなり複雑な術式が組んであるわ」

「なんですかぁ、それ?」

 いつの間にか人化してお仕着せを着用したハルが後ろに立っていた。

「『じゆじゆつ』よ。何かをしばるかなり強力なのろい。こんなのめられた本人には決してかいできないわ。そしてほかの人間が無理にこわそうとすれば……」

「壊そうとすれば……?」

「この子はちがいなく死ぬわ」

 私は少女の腕輪を見つめながら、くちびるの下に指をえて深く考え込む。ハルはそんな私を見て目をぱちくりさせた。

「嵌められたらはずせないってことですか? クロエさまでも?」

「ええ、私が嵌められても自力で破壊するのは無理ね。そういう仕組みになっているのよ。でも外側からならなんとかなるかも……」

 数多あまたの呪いの術式がの輪のように複雑にからみ合っている。解除する順番を間違えたり壊そうとしたりすると、呪いが一瞬にして少女の生命をうばう仕組みになっているようだ。

 本当にれつきわまりない呪具だ。この腕輪を作った者の性格の悪さが窺い知れる。

「クロエさまなら壊せるんですかぁ?」

「やってみなければ分からない。放置しても今すぐに生命をけずるものではないから、時間をかけて一つずつ解除していくしかないわね」

「なるほどぉ。さすがクロエさまですねぇ」

「この子が目を覚ましたら温かいスープでも飲ませてあげましょう」

「それならアタシが作りますよぉ」

 今度は私が思わず目をぱちくりさせてしまった。幻獣って……、

「……料理、できるの?」

「お任せですよぉ。クロエさまとの意思伝達のおかげで、クロエさま程度にはできます。それじゃあさつそくさっきのフォレストウルフをさばいてぇ……」

「任せるわっ」

 私はハルの言葉をさえぎってしようした。フォレストウルフが食べられるのは知っている。知っているけれどくわしく聞きたくはない。

 早速ハルは鼻歌交じりに表のフォレストウルフを解体しに寝室から出ていった。私は少女を横たえたベッドのわきに置いたに座って呪いの腕輪のぶんせきを始めた。

「はぁ……。百以上の術式が複雑に絡み合ってる。半数以上がおとりね。順番通り解除しないとこの子の死の引き金になってしまう。なかなかいん湿しつなやり口ね……。間違えたらアウトだわ」

「う、うーん……」

 少女が苦しそうにうめきながらもがいた。額からはあせにじんでいる。けれど弱々しかった呼吸がじよじよに整ってきた。

 それを見てほっと胸をで下ろす。じきに少女の意識は回復するだろう。少女の額の汗をハンカチで押さえるように拭ったあと、腕輪の分析を続ける。

 この呪いそのものは生命を奪う呪いではない。何かをよくせいする呪いだ。けれど腕輪を外さなければこの子は一生本来の力を取りもどすことはできない。術式を解除しようとするのは生命の危険をともなうけれど、私なら時間さえかければできる。最初の糸口になる術式はどれなのか……。

「全く。私をためそうなんて、やってくれるわね。こうなったらかんぺきに解除してやろうじゃない」

 ちようせん的なまでに高度な呪術式のかたまりを目の前にして、思わず口角を上げた。

 そうしてしばらく腕輪をにらんで解読を続けていたら、複雑に絡み合う術式の中から、他の術式にえいきようしない一つを見つけ出した。

「これね。……グリモワール」

 ようやく見つけ出した最初に解除すべき術式を、黒の書を行使してしんちように破壊した。破壊された術式に絡んでいた別の術式はどうしない……。どうやら正解だったようだ。

 この作業を術式の数だけり返さなければならない。一気に破壊してしまいたいしようどうおさえながら、神経を集中させて作業を続ける。


「う……」

 私が十個の術式を解除したところで、少女がゆっくりと瞼を開いた。もう午後三時を回っている。解除にぼつとうするあまり気付かなかったけれど、私は少女以上に汗ばんでいたようだ。

「ここは……」

 少女はぼんやりとてんじようながめながらそうつぶやいた。初めて間近で目にした少女のひとみは人間のものではなかった。金色のこうさいの中央にある黒のどうこうが、光を受けて円から徐々に縦長に変化していく。

「気が付いてよかったわ。ここは黄泉よみの森にある私の家よ」

「そうじゃったのか……。そういえば……お主たちが助けてくれたんじゃな」

「……ええ」

 人外の種族のおひめさまだろうか。少女の口調にいつしゆんおどろいてしまった。少女はまだ体に力が入らないのだろう。声が弱々しく少しかすれている。

 そしてこの腕輪を嵌めたのはおそらく本人ではないだろう。事情をたずねたら答えてくれるだろうか。それとも、もう少し落ち着いてからのほうがいいだろうか。

「礼を言うぞ。わしの名前はアンジェリクじゃ。お主たちは命の恩人じゃからの。特別にアンと呼ぶがいい」

「ではお言葉に甘えまして。アン、私はクロエよ。よろしくね」

「うむ、よろしくたのむぞ。クロエ」

 ちょうどそのときハルが寝室に入ってきた。あっけらかんとした明るいがおだ。皿をせたトレーを両手に持っている。

「話し声が聞こえたんでスープを持ってきましたよぉ。目が覚めてよかったですねぇ」

「お主も助けてくれたのう。礼を言うぞ、ハルピュイア。儂はアンジェリクじゃ。アンと呼んでくれ」

「アタシはハル。クロエさまのじよをやってまぁっす」

 ハルはどこの国で覚えたのか分からないが、胸にこぶしを当てて敬礼のごとをしてみせた。

 それにしても人化しているハルを幻獣のハルピュイアだと見破るなんて、アンはやはりただものではないようだ。

「ハルか。よろしくな」

「よろしくでっす。ところでアンさまは何者なんですかぁ」

 ハルに先をされてしまった。アンが何者なのか私も知りたい。

「儂は……。その前に、それはなんじゃ?」

 アンがベッドからゆっくりと上半身を起こしてハルに尋ねた。アンの視線はハルの持っているトレーに固定されている。

「あ、これですかぁ? これはフォレストウルフのスープですよぉ。肉をていねいに削りとって焼いたやつらの骨からスープを……取ろうと思ったんですけどぉ、時間がなかったので奴らの肉と野菜のスープですぅ」

 ハルなりのこだわりのいつぴんらしい。そうか、フォレストウルフの……。聞かずに食べたほうが美味おいしくいただけたかもしれない。

「ふむ、美味うまそうじゃな。もらうぞ」

「ど~ぞど~ぞ。ものだったアンさまが逆に奴らを食っちゃうなんておもしろ~い」

「あんな奴ら、いつもの儂なら……くそっ」

 アンはくやしそうに顔をしかめたあと、すぐに目の前のスープに釘付けになった。今にもよだれを垂らさんばかりにぎようしている。よほどおなかいていたのだろう。


 満足げに食事を終えたアンに尋ねてみる。

「それで、貴女あなたは一体何者なの? アン」

「うむ。儂はりゆうじゃ」

「竜……」

「ほぇ~……」

 予想外な答えに、私もハルも驚きをかくせなかった。ベッドから上半身を起こしたまま腕を組んで胸を張るアンジェリク……アンの横で、私とハルがぼうぜんとしながら呟く。

「竜なのね」

「竜かぁ」

「竜じゃ」

 得意げに答えるアンを見て思う。こうして見るとただの可愛かわいらしい幼い少女にしか見えないのだけれど。もしかして、このうでをしているから幼い姿なのだろうか。

「しかもただの竜じゃないぞ? 儂は竜の国カーンの女王……竜王なのじゃ」

「竜王!?」

「はぁ!?」

 ──竜王……。昔話で聞いたことがある。ためいきけば一つの国がき飛び、くしゃみをすれば十の国がほろぶという。伝説の竜王が本当に存在したとは……。

「それはうそじゃな。流石さすがにくしゃみで国は滅びぬ。まあ、儂一人で一国をしようと化すのは容易たやすいがな」

 私の知っている昔話を聞いたアンがあっさりと白状した。

「嘘なんだ……」

「アハハッ。クロエさま、かぁ~わい~。くしゃみで国が滅ぶわけないじゃないですかぁ」

「笑わないで……」

 なんだかずかしくてほおが熱くなる。だって本当のほうが夢があるじゃない?

「それにしても、女子なのに竜王とはこれいかにぃ~?」

「カーンでは王じゃろうが女王じゃろうが代々竜王と呼んでおるのじゃ」

「本当に竜王さまなのね」

 やはりこの幼女の姿は腕輪のせいなのだ。いくら人化しているとはいえ、竜王がこんなに幼いわけがない。

「それで、その腕輪はどうしたの?」

「うむ、これはじゃな、話せば長くなるのじゃが……」

ねむくならない程度にお願いしますねぇ」

 ハルの要求に「うむ」と小さくうなずいてアンは話を続ける。

「儂は昔から酒が好きでな……」

「その話、長くなりますぅ?」

「酒って……」

 一体この子はいくつなのだろう。腕輪のせいだ。きっとそう。幼女がお酒を飲むづらなど想像したくない。

「まあ、聞け。一週間くらい前じゃったか、竜の姿で空を飛んでおったら地上からいいかおりがただよってきてのう。そのにおいにられてふらふら~っと地上に降りてみたらさかだるがたくさん置いてあってな。儂はちょちょいっとつめせんを開けて、たるあおったのじゃ。中身は麦酒ウイスキーじゃった。あれの熟成はおそらく二十年は下らんじゃろう。そのほうじゆんな香りとばくほのかな甘さ、そして舌にまとわりつくような厚みのあるコクとまろやかさといったらもう……ジュルル」

「ジュルル……」

「よっぽどお酒が好きなのね……」

 お酒の味を思い出しているのか、うっとりしながら涎を垂らすアンを見て、ハルが貰い涎を垂らしている。そんなアンを見て複雑な気持ちになった。竜の姿で飲んだのは分かっているけれど、どうしても目の前のあどけない少女の姿を見るとしやくぜんとしない。

「アンは一体いくつなの?」

「儂は七百六十歳じゃ」

「七百六十……」

「アタシよりも年上じゃないですかぁ」

「お主は何歳じゃ?」

「アタシは二百八十歳なんですよぉ」

「フン、まだむすめじゃの」

「若いって言ってくださいよぉ、マダム」

 竜もげんじゆうゆうきゆうのときを生きる者だと分かってはいるのだけれど、実際に聞くと気が遠くなりそうでまいがする。

「おっと、話がれてしまったの。それで、酒樽を十個ばかり飲み干したら少々眠くなってしまってのう。かつにもその場で居眠りをしてしまったのじゃ」

「何もない所に酒樽が転がってるのが不自然だと思うんですけどねぇ」

「そうね。けいかいしんがなさすぎるわね」

 私とハルにっ込まれて、アンがしゅんとかたを落とす。

「う、うむ、めんぼくない。お主ら、ようしやないのう。……それで気付いたらどこぞのしきの部屋でおりに入れられておっての。人化してしもうておったから、竜にもどろうとしたのじゃが……」

「腕輪がめられてて戻れなくなっちゃったのね」

「いかにも。わしはすぐに腕輪ののろいに気付いた。竜に戻ることができなくなっただけではなく、呪いによって本来のわんりよくりよく、能力……あらゆる力がよくせいされておった」

 そこまで説明したアンが肩をすくめてふぅっと溜息を吐いた。どうやら呪いの腕輪は竜の力を大きくぎ落としてしまったらしい。

 けれど、これだけの術式を刻んだじゆだ。術師の実力も労力もなみたいていのものじゃないだろう。そこまでのことをする理由は何なのだろうか。

「一体だれが何のためにそんなことを?」

「それが分からんのじゃ。食事を運ぶ者にはたびたびうたが、ただの小者でしゆぼうしやではなかったようじゃ。じゃが、見張りの者が食事を運んできたときに言うておった。『しっかり食べないと血が足らなくなるぞ』とな。あとは『こんな幼子じゃはんしよくは無理だ』とかなんとか……」

「血と繁殖……」

「竜の血はばんのう薬やろうちよう寿じゆみようやくの材料と言われていますからねぇ。まゆつばですが」

「そうね。だけど繁殖って……竜と人を交わらせようとしたのかしら。だとしたらなんてあくしゆな……」

「全く人間って奴はごうが深いですねぇ」

 ハルがあきれたように肩を竦めた。ハルの言葉には全く同感だ。人間の中には、おのれの目的を果たすためなら手段を選ばないやからが確かに存在する。

 竜の血については黒の書にもさいがある。万能薬エリクシールの素材であるというのは本当のことだ。不老長寿の妙薬については記載がないので、存在自体があやしい。

 それにしても竜の繁殖とは……。ほかにも竜がらえられていて竜と竜でということなのか、竜と人でということなのか。アンの話だけではどうにも判断ができない。いずれにせよろくな目的じゃないことは確かだ。

「それで、どうやってげ出したの?」

「見張りが檻に食事を入れるしゆんかんねらって、あごに一発らわせたのじゃ。こんな体じゃが人間の大人の男くらいの力は残っておるからの。やつも幼女だと思うて油断しておったのじゃろう。不意打ちで簡単に気を失いおったわ」

「なかなかやりますねぇ」

「運がよかったわね」

 私とハルが感心すると、アンは得意げに大きく頷く。

「うむ。じゃがこの腕輪の呪いがある限り、儂はりゆうには戻れん。そこで『真理の書』を持つ者ならば、この強力な呪いを解除できるのではないかと考えたのじゃ」

「『真理の書』……黒の書ね」

「そういうことじゃ。儂は特別な能力を持つ黒持ち……つまりお主を探した。するとそれほど遠くない場所にお主の魔力を感じ取った。この森じゃ」

 力を抑制されていても他者の魔力を感じ取れるのか。流石は竜だ。

「よくこんな所まで来られましたねぇ。力をおさえられてるアンさまじゃ、黄泉よみの森の奥まで来るのは無理でしょぉ?」

「うむ。じゃから儂はこの森に入る前に街の薬屋で姿を消す薬、エタンドールをぬす……ちょっと拝借して使ったのじゃ。ところがクロエの魔力まであとわずかという所で薬が切れてしもうてな。そこをフォレストウルフの奴らに見つかったというわけじゃ」

「悪銭身に付かずってやつですねぇ」

「ハル、それはちょっとちがうと思うわ……」

 ハルは人間に興味があるのだろう。みように人間の言葉にくわしいかと思えば、ときどき思い切り間違っている。私は気を取り直してアンにたずねる。

「そこに私たちが助けに来たというわけね」

「そうじゃ。……ふぅ、すまん、クロエ。話しすぎて少しつかれてしもうたみたいじゃ。今しばらく休ませてもろうてもよいか?」

 そう言われてみればアンの顔色が少し悪くなっている。み上がりに長話をさせてしまってわいそうなことをした。とは言っても、話が長くなったのは半分以上が本人のせいだけれど。

「あら。無理をさせてしまったわね。ごめんなさい。ゆっくり休んで」

「それじゃあ、アタシは夕食の準備にかかりますねぇ。フォン・ド・ルーラグーシチユーにでもしましょうかねぇ」

「楽しみにしておるぞ、ハル」

 ハルがしんしつを出ていくときに、アンはそう言ってゆっくりとまぶたを閉じた。

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