第一章 婚約破棄……そして

 王宮の夜会に招かれたのは本当に久しぶりだ。十四歳のデビュタントで参加して以来だから、約二年ぶりになるだろうか。けれど今夜はたった一人で王宮の広間へと来ることになった。

 王太子のレオナール殿でんと私は八年前にこんやくを結んだ。けれど殿下が今夜エスコートしたのは婚約者の私ではなく、妹のミレーヌだ。

 今目の前では、殿下がミレーヌのこしをぐっとき寄せて立っている。一方ミレーヌは殿下のかたわらにぴったりと寄り添っている。

 多くの貴族が見守る中で、殿下とミレーヌ、そして王太子の側近たちが険しい表情をかべて私の前に並んでいた。そんな物々しいふんの中、殿下がひときわ大きな声をあげる。

「クロエ・ルブラン。我がブリュノワ王家の名において、私、レオナール・ブリュノワはお前との婚約をする」

 とつぜん投げかけられた殿下の言葉を聞いても、それほどおどろくことはなかった。いつかはこんな日が来るだろうと予想していたからだ。

 目の前のうるわしい婚約者……もとい、婚約者は氷のごとく冷たいアイスブルーのひとみちゆうちよなく私に向けている。

 殿下のかげかくれているために他の者には見えないようだけれど、ミレーヌは断罪されている私を見て得意げなみを浮かべていた。

 背中までばしたミレーヌのストロベリーブロンドのかみはふわりとやわらかなウェーブをえがいており、顔立ちははなやかで美しく大きな瞳が印象的だ。その上よくさそう仕草をするミレーヌは、いつも男性たちの中心にいた。

 目の前で尊大に見下ろしてくる我が元婚約者殿どのに、私は説明を求める。

おそれ入りますが、殿下。婚約を破棄するとおつしやる理由をおうかがいしてもよろしいでしょうか」

「それはお前が正統なグリモワールけいしようしやであるミレーヌを不当にぎやくたいしたからに他ならない」

「ミレーヌが正統な継承者……」

 一体いつからそんな話になっているのだろう。だれがそんなことを言ったのだろう。

「グリモワールの正統な継承者は王家の庇護下にある。それを害するは我が王家を害するも同義。本来ならばきよつけいあたいするものと思え」

「虐待、ですか……」

 殿下が言っていることは全く身に覚えがない。事実無根の言いがかりだ。けれど出所は大体想像がつく。

 どう書グリモワール──それは我がルブラン家の血筋に備わる特別な力だ。あるときは国をいやし、あるときは国を害する敵をはいじよし、そしてあるときは国を防護する。ルブランの血を受けぐ女性はすべて、赤の書、青の書、白の書といったグリモワールのいずれかを体内に宿してこの世に生を受けるのだ。

 今回、ブリュノワ王家はグリモワールの正統な継承者をきさきとしてむかえることにした。グリモワールの血筋を王家に入れたいのだろう。そこでルブランの長子である私に白羽の矢が立ったのだけれど……。

「婚約者がお前のような地味な女であることがずっとくつじよく的だったのだ」

「……申し訳ございません」

「フン。これでようやくお前とのえんが切れる。私はこの婚約破棄をもって新たにミレーヌ・ルブランとの婚約を結ぶこととする」

うれしいですわ、レオさま……」

 うっとりと殿下を見上げながら、ミレーヌがそのうでに豊満な胸を寄せてしなだれかかった。あいしよう呼びを許されるほどに殿下との仲が親密なのだろう。

(確かに私は地味だものね……)

 殿下の言う通り、私は誰が見てもちがいなく地味なれいじようだ。黒の太いフレームの眼鏡めがねのレンズからのぞくのは小さくて茶色のへいぼんな瞳。青白いほおはそばかすだらけ。そして腰まで真っぐ伸びた銀色の髪を後ろで三つ編みにまとめている。

 時間があるときは、いつも図書室で本を読んでいる。他の令嬢との交流がなく学園にいるほとんどの時間を一人で過ごしていた。殿下には無口で無表情でつまらない地味女だと会うたびにいつもののしられたものだ。

 殿下の陰でうすわらいを浮かべていたミレーヌが、いつしゆんのうちにそのこんの瞳を悲しみのなみだうるませる。見事な変わり身に思わず感心してしまう。

「お姉さま、私はいくらねたまれても、お姉さまがのろわれた魔女でも、決してうらんだりはしませんわ。だってたった一人の大切なお姉さまですもの……」

「そう、ありがとう。……けれどミレーヌ、貴女あなたは自分こそが正統な継承者だと名乗りを上げたのよね?」

「そんな! 私は何度もお姉さまこそが正統な継承者だと申し上げたのですけれど……」

 ミレーヌはせんで口元をおおいながら悲しげにまつせた。大きな涙のしずくがポロリと頬を伝う。

 悲しげに涙ぐむミレーヌをちらりと見たあと、王太子の側近でさいしようむすでもあるリオネル・ブルジェが、クイッとぎんぶち眼鏡のフレームを指で上げて口を開いた。

「クロエ。お前の持つ黒の書は、聞けば何の役にも立たぬゴミだというではないですか。よくも今までたばかってくれたものですね。このミレーヌ嬢の持つ白の書こそが国を癒し守るしようしんしようめいのグリモワール。これを守ることが王家の使命です。それなのにお前は心やさしいミレーヌ嬢を害して、その命をもおびやかしたのですね」

 私はリオネルの言葉を聞いて大きなためいきいた。ミレーヌの証言だけで何の裏付けもないというのにここまで断言するとは。

 幼いころからミレーヌは二人だけのときに限って感情的にちようはつしてくる。挑発に乗るのも鹿馬鹿しいので、全くかかわらなかったけれど。

 そしてお父さまはそんな私を、無表情で可愛かわいげがないと言って愛してくれることはなかった。だから私とお父さまとの家族としてのきずなもほとんどないようなものだ。

 ゆいいつ私を愛してくれたお母さまは、幼いころに何者かによって毒殺されてしまった。ルブランの正統な継承者であるお母さまをうとましく思っていた者の犯行だろう。けれどいまだにしゆぼうしやが判明していない。

 かんおけの中に横たわって冷たくなってしまったお母さまのなきがらを前にして私はふるえた。体を震えさせたのは悲しみではなく底知れないほどのいかりだった。事件からしばらくして国によるそうが打ち切られてからは、たった一人で首謀者の割り出しにしんした。

「お言葉ですが殿下、私がミレーヌを虐待したというしようが一体どこにあるのでしょうか」

「証拠か。証拠ならお前の父、ルブランこうしやくと公爵家の使用人たち、そしてミレーヌの証言で十分だろう」

「……そうですか」

 私は殿下の言葉を聞いて少なからずらくたんした。お父さままでもが私をおとしいれようとしていることが分かったからだ。愛されていないとは思っていたけれど、まさかにくまれているとまでは思わなかった。家族としての関係はもうとっくの昔にたんしていたのだろう。改めて自分のどくめる。

「婚約破棄の件、承知いたしました。どうぞ陛下にもりようしようむねをお伝えください。私はこれにて失礼いたします」


 八歳で婚約してから、私なりにレオナール殿下といい関係を築こうとしてきた。けれど殿下はいつも私に対して冷たかった。夜会にエスコートしてもらったこともなければ、花の一本すらももらったことがない。

 けれどそれでも構わなかった。愛のある結婚を夢見たこともあったけれど、政略結婚というものはおたがいを尊重し合っていけばそれでいいと割り切っていたからだ。

 けれどミレーヌが学園に入学した三年前から、殿下とミレーヌがなかむつまじく寄り添う姿をたびたび目にするようになった。隠れてあいびきするのならばまだいいけれど、婚約者のいる身で白昼堂々と学園の中庭で睦み合っているのだ。

(最初に目にしたときは、それなりにショックを受けたわね……)

 最初のうちは胸が痛んだ。地味でぼんような私の容姿にも原因があったのだろうけれど、そんな外聞の悪い様子を平気でおおやけさら殿でんを見続けて、これが一国の王太子の姿なのかとあきれてしまう気持ちのほうがそのうち強くなった。それからというもの、殿下からきよを置いて二人のじようきようを静観するようになったのだ。


 広間から出ようときびすを返した私に、背後からとつぜん声がかけられる。

「まさかこのまま帰れるなんて思ってないよね?」

 私はり返って声の主を確かめた。声をかけてきたのは王太子の側近で天才魔道士と評判の高い、子爵令息のアラン・マルシェだ。

 アランもまた殿下同様、貴族令嬢の間で人気が高い。紅顔の美少年だとかなんとか言われているらしい。実は童顔なだけで殿下と同じ十八歳だったりするのだけれど。

 アランはニヤリと笑うと、私に向かい両手をかざして、突然風のやいばを放ってきた。

 私はとつに両腕を交差させて顔をかばうように覆う。けれど私の全身に巻きつくような風の刃によって、ドレスがざんに切り刻まれていく。

「くっ!」

 ようしやない魔法のこうげきになすすべもなくかたひざをついてしまった。するとようやく攻撃を止めたアランが私をへいげいして鼻で笑った。かろうじて下着にまでは達しなかったけれど、私のドレスはビリビリに破れてしまった。そして体のあちこちが風の刃によるれつしようで出血している。

(……まったく。しゆくじよのドレスを切り刻むなんてれつしゆでも持っているのかしら)

 アランはさげすむようなまなしを私に向けて、き捨てるように言葉を放つ。

「あんたは僕たちのミレーヌ嬢を傷つけたんだ。このくらいで済んでありがたいと思うんだね!」

「……」

 これ以上は何を言ってもだろう。は完全にミレーヌを信じ切っているらしい。

 私はずり落ちそうになっていた眼鏡を直しながら、膝のほこりはらって立ち上がろうとした。すると今度は突然腕を背後からつかまれて後ろ手にこうそくされる。

「痛っ……!」

 すごい力で両腕を掴まれて激痛が走った。両膝をゆかについたまま、いつくばるような姿勢をなくされてしまう。なんとか後ろを振り向いてみると、団団長の息子であり騎士でもある、トリスタン・ロカールがおにのような形相で私をにらみつけていた。

 トリスタンはぼうの若手騎士として貴族令嬢に人気だ。けれど私には騎士とは名ばかりのドS男としか思えない。自分よりも力の弱い女性に対してこのような無体を平然と働くのだから。

「この毒婦めが! 我が国の至宝を脅かさんとするとはな!」

 私の両腕を後ろ手に拘束したまま、トリスタンが低くうなるように吐き捨てた。そんなトリスタンに殿下がせせら笑いながら声をかける。

「まあ、待て。こんなしようくさった女でも、一度は私のこんやくしやだった女だ。それに王宮の広間を血でよごすわけにもいくまい。ルブラン公爵もこの女をほうちくすると言っていた。いまいましいことに、血筋のせいでルブランの名を取り上げることはできないらしいがな」

「なるほど。公爵家を追い出されれば、貴族れいじようなどまるはだかほうり出されたも同然。この悪女が底辺を這いずるさまを見るのもまた一興か」

 そう言って私の腕を放し、ニヤリと笑う騎士トリスタンのあくらつな言葉が聞くにえない。本当に何という悪趣味な男たちだろう。重ねて先ほど私を風の刃で攻撃してきたどうアランが口を開く。

「僕はまだ気が済まないんですけどねぇ」

「フン。いい考えだとは思いますが、これ以上手を出すと美しい広間が血で汚れてしまうのでやめてくださいね」

 アランの言葉に宰相の息子リオネルがしそうに吐き捨てた。もはや何も言うことはない。この吐き気のするよどみきった空間から、そろそろおいとまさせてもらうことにしよう。

 うつむいていた私は眼鏡を直してゆっくりと立ち上がり、ビリビリに破れたドレスのすそに付いた埃を両手で払った。

 そして殿下のほうを向いて、非の打ち所のないかんぺきカーテシーお辞儀をしてみせながら暇を告げる。

みなさま、大変お世話になりました。どうか末永く幸せにお暮らしくださいませ。それではこれにてお暇させていただきます。ごげんよう」

 たんたんと言葉をつむぐ私を見て、殿下をはじめ、ミレーヌや側近、そして高みの見物をしていた貴族たちは、皆一様にあんぐりと口を開けている。

 貴族令息たちの悪辣な言動に、べつの気持ちを覚えこそすれ怒りがくことなどない。踵を返して背筋をばし、広間の出口へ向かってゆうぜんと歩みを進める。

 出口に近付いてだれの目にもれないことが分かると、込みあげてくる感情をおさえきれず、不覚にもわずかに口角を上げてしまった。


 ●●●


 私はボロボロのドレスを身にまとったまま公爵家の馬車に乗り込んだ。出発した馬車にられながら窓から街灯に照らされた夜の街をながめる。この街の風景も見納めだ。あまり街中を歩く機会はなかったけれど、唯一幼いころお母さまと歩いた祭りの思い出だけはなつかしい。

「もうこの街を目にすることはないかもしれない……」

 街を眺めながら小さなためいきいてしまった。無意識にうでさすると、風の刃で切られた傷がまだぴりぴりと痛む。私は痛みをこらえながら大人しくしきとうちやくするのを待った。

 屋敷に帰宅したあと、馬車を降りて入口のとびらから中へ入った。誰のむかえもない。屋敷の使用人たちはお父さまと妹だけに従い、私のことは同列にすら見ていない。それどころかまるでとうめい人間であるかのようなあつかいだ。食事すら出してもらえないから、勝手に調理場へ入って自分で作って食べていた。使用人たちにはうとましく思われているようだけれど、流石さすがにそのこうたしなめようとする者はいない。積極的ないやがらせをされるわけではないので、生活する分には何の問題もなかった。身の回りの世話をしてもらえることはないけれど、自分のことを自分でやればいいだけだから。

 けれどそのような生活ももうおしまいだ。今日、私はこの屋敷を出ていく。その前にお父さまにごあいさつをしなければ。

 ぐうぜんろうを歩いていたじよを見かけたのでたずねてみる。

「お父さまはどちらにいらっしゃるのかしら?」

「……しよさいに」

「そう、ありがとう」

 侍女は足を止めることもなく、前を向いたままめんどうくさそうに私の質問に答えた。幼いころから大体いつもこんな感じだった。無視されないだけましだ。今さら無礼だとも思わない。八歳のときにお母さまがくなってからは、ずっとこうだ。用事をたのんだら一応は「承知しました」という言葉が返ってくる。けれどそれっきり何もなされることはない。

 それからというもの使用人にたよるのをあきらめて、私は屋敷の中で自由に過ごすようになった。

 これまでの生活を思い出しながら、お父さまに会うために書斎へと足を向けた。扉の前でノックをすると、内側から入室を許可する返事があったので中へと入った。

 お父さまはしつ机のに座って書類仕事をしていた。私が向かい側に立っても、こちらを見ることもなく手元の書類に目を向けたまま作業を続けている。

「お父さま、ただいま帰りました」

 私がそう言うと、お父さまはペンを置いてようやく私を見た。まるでぼうの石ころでも見るような眼差しだ。そして面倒臭そうに溜息を吐いて口を開く。

「まだいたのか。この家はもうお前の家ではないのだ。さっさと出ていくがいい。そして二度と足をみ入れるな」

 このようにボロボロにされたむすめの姿を目にしても、事情を聞くどころかいたわりの言葉すらない。お父さまの心の中には私などもとから存在していないのだろう。

 このルブランこうしやく家の屋敷は元々お母さまのものだった。けれど男子しか爵位を持てないこの国では、入り婿むこのお父さまが公爵位をぐことになった。

 一方屋敷そのものはグリモワールの正統なけいしようしやが受け継ぐものと昔から決まっている。おそらくこのままいけば、自らを正統な継承者だと主張しているミレーヌがこの屋敷を受け継ぐことになる。

 けれどミレーヌがレオナール殿下と婚約したあかつきには、実質的な屋敷の持ち主はお父さまということになるだろう。

「準備ができだいすぐにお暇いたします。その前にご挨拶をしたいと思い、おうかがいしました。……その前にお父さま、いくつかお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」

「……なんだ」

 お父さまは口を開くのも面倒臭いといった様子でおうへいに答えた。

「お父さまは、なぜありもしない事実を王太子殿でんに証言なさったのですか?」

「ありもしないか……。だがミレーヌはお前にしいたげられてつらいと泣いていたぞ」

「そんな事実はありません。お父さまは私がいじめていたところをご覧になったわけではないですよね」

「ミレーヌが言うのだからちがいないだろう。違うと言うのならしようを持ってこい」

 ミレーヌの言葉には証拠がらないのに、私の言葉には必要なのか。

「虐めていた証拠だって存在しないではないですか」

「ミレーヌの証言だけで証拠としては十分だ。ミレーヌとお前のどちらを信じるかと問われれば、この屋敷の者は全員ミレーヌと答えるだろう。無論私もだ」

 言っていることがちやちやだ。あまりにじんくつに思わず溜息がこぼれてしまった。

「承知しました。もう結構です。最後にもう一つだけお聞きしてもいいですか?」

「……さっさと言え」

「お父さまは私のことがおきらいですか?」

「……」

 お父さまはしばらくだまり込んだあと、無言で書類仕事を再開した。答えてくれる気はないようだ。

 私は最後にお父さまの言葉でお父さまの本心を聞きたかったのだ。けれどお父さまの本心を知ることは、もう一生ないのかもしれない。きっと歩み寄らなかった私にも責任があるのだろう。いずれにせよ親子関係はもうたんしている。

 いいころいだったのかもしれない。これほどまでに断絶しているならば、何の未練もなく屋敷を去ることができる。

「お父さま、この世に私という命をさずけてくださってありがとうございました。そして今までお世話になりました。どうぞいつまでも元気でお過ごしください。……ご機嫌よう」

「……」

 お父さまは無言のまま最後まで顔を上げて見ることはなかった。私は少し悲しくなったけれど、カーテシーをしたあとお父さまの前を辞した。


 ●●●


 お父さまの書斎を出たあと私室へと向かった。そしてビリビリに破れたドレスをいで、クローゼットの中にあったシンプルな青色のワンピースを身に着けた。

 部屋にある私物をトランクにめていく。大事なものはすでに新居へと運んでいる。私は荷物を詰めたトランクを一つだけ持ってバルコニーへ出た。

「静かな夜……」

 辺りはしんと静まり返っている。まるでこの世に自分一人しか存在していないかのようだ。りに手を置いて月のない星空をあおいだ。そしてそっと目を閉じて夜の空気のにおいをぐ。ひんやりとした夜風が傷にみる。

 傷が痛んだことで、女性相手にようしやのない仕打ちをしたどうアランとトリスタンのことを思い出して気分が悪くなってしまった。目を開けて痛みの残る手首を見ると、トリスタンにつかまれたあとが内出血を起こして残っている。

「痕になってるじゃない……。やりたい放題やってくれちゃって」

 夜会では、あえて軽いを負うようにグリモワールの力で張ったぼうぎよ結界を最小限にとどめておいた。レオナール殿下と側近たち、そしてミレーヌに勝利を確信させるために。

 殿下と側近たちはミレーヌをもうしんしてだまされていたのか。それとも最初からきようぼうして私をおとしいれようとしたのか。女性に対するあのれつな扱いを思い出すと、いずれにせよどうしようもないほどしようくさっているとしか思えない。

 私は左手を胸の辺りの高さにかかげててのひらを上に向けた。

「グリモワール」

 えいしようとともに掌の上にまばゆい黄金の光に包まれたしつこくのグリモワール……黒の書が現れた。黒の書は全体がやみのような漆黒で、表紙と背の部分に金色の文字が刻まれている。この国の文字ではない古代の魔法国家で使われていた文字だ。そして表紙には『真理の書』と書かれてある。

 黒の書のページがペラペラとめくれて白い光を放った。私の全身におよれつしようが、あわく白い光に包まれてみるみるうちにふさがっていく。そしてかんりようすると同時に、黒の書は掌の中に吸い込まれるように消えた。

「黒の書が役に立たない? フフッ」

 ミレーヌが宿す白の書は治癒と防御のグリモワール。赤の書は魔術のグリモワール。青の書はしようかんのグリモワール。……そしてすべてのグリモワールをべるのが黒の書、全能のグリモワールだ。

 黒の書の力は黒以外のグリモワールをはるかにりようする。黒の書の持ち主こそが正統な継承者だ。このことを知っているのは黒持ちだったお母さまと私だけ。

 そしてグリモワールの力を行使する際にはおのれの体内にある魔力を消費する。ミレーヌは恐らく一度に数人を治癒できる程度の魔力しか持たないだろう。そのことを自覚しているのかは分からないけれど。

「ミレーヌが継承者として名乗り出てくれたのはぎようこうだったわ。すぐにばれないといいけれど……」

 一方、私の魔力はけたはずれに大きい。この国全てに結界を張っても魔力切れを起こすことはないだろう。召喚し得る全てのげんじゆうを召喚したとしてもだ。

 代々黒持ちはぼうだいな魔力を持って生まれるという。そしてお母さまがくなる前には、私の魔力は黒持ちだったお母さまの魔力をも凌駕していた。

 もしグリモワールの真実と私の魔力のことをだれかに知られてしまえば、間違いなく国にとらわれてしまうだろう。だからこそずっと目立たないよう細心の注意をはらって、この力をかくしてきたのだ。

「国に囚われるなんてまっぴらだわ」

 お母さまが亡くなった八歳のときから地味によそおって、黒の書の力を他人の目にれさせないようにしてきた。そしてお母さまが亡くなったあとすぐに殿下とのこんやくが決まった。

 殿下とのこんいんがなされれば国のちゆうすうでお母さまを暗殺したしゆぼうしやさがすことができる。だから殿下との婚約は願ってもないことだった。けれど……、

「あのときから誰も信用できなくなっていたのかも……」

 殿下とミレーヌのなかむつまじい様子を初めて見たのは十二歳のときだった。そのときから冷静に他人を観察するようになった。殿下との婚姻がなされない可能性を考え始めた。

 それならばいっそ自由に行動できるようにする必要があると、殿下からはきよを取った。友人も作らず貴族たちとの交流もひかえた。そうしてあえて私はりつえんじようきようを作り上げたのだ。

 王太子、その側近、そしてミレーヌ……。彼らのこうを目にしながら、いさめるどころかおもしろ可笑おかしくうわさを立てる貴族の令息やれいじようたち。かいらいの王を利用して甘いしるを吸う国のじゆうちんたち。

 ブリュノワ王国のおうこう貴族ははいしている。殿下によって婚約されたことで、ようやく何のしがらみもなくなった。私は今日を限りにこの国からはなれるのだ。

「これからは自由に動けるわね」

 お母さまを暗殺した首謀者をどうしても見つけたい。全てが計画通りに進んだ今、あとは新しい住まいへと向かうのみだ。

 部屋の中に目を向ける。先ほどまで着用していたボロボロのドレスを見て思わずためいきが出てしまう。

「最後の夜会だと思って奮発したのに……。ちくすぎるでしょ」

 私は再び掌の上にグリモワールを出した。

「グリモワールよ、我が身にまとえ」

 詠唱とともに黒の書が掌から離れて体の周りをぐるぐると回り出す。黒の書のどうがなす漆黒の帯は、私の全身に巻きついて深い闇のような漆黒のドレスへと変化した。

 体の線をあらわにする闇色のドレスを身に纏った私はあやしげで、はたから見ればまさに『のろわれた魔女』といったところだろう。ミレーヌも上手うまい表現をするものだ。

「ペガサス……。私のもとへ来て」

 私の願いに応じて漆黒のドレスが青い光を纏う。その青い光が目の前に集まり、光の中から白いつばさの生えた大きな白馬……幻獣ペガサスが現れた。

 絹糸のような金色のたてがみがうっとりとれてしまうほどに美しい。そのなめらかな筋肉に包まれたたいは眩いほどにこうごうしく、淡い金の光を纏っているかのように見える。そんなペガサスの首をでながらやさしく話しかける。

「さあ、いつしよに新居へ行きましょう。でも目立つから姿を消しましょうね」

「ブルルル……」

 ペガサスが気持ちよさそうに鼻を鳴らしてほおり寄ってきた。

「フフ、可愛かわいい……」

 魔法で体をかせてペガサスにまたがったあと、不可視状態にする魔法を自分とペガサスにかけた。そしてとうめいになった私たちは、ともに夜空の闇へとけ上った。


 ●●●


 ペガサスとともに上空から地上をながめる。眼下に広がる暗く広大な森は、ブリュノワ王国とりんごくのダルトワていこくの境界に位置する。

 危険な魔物がはいかいしているため、兵を向かわせるには厳しい深い森だ。せんとう力の高い少数せいえいでなら進めるだろうけれど、それでも死亡率はかなり高いと言われている。

 そのために人々からおそれられ、『黄泉よみの森』と呼ばれている。どちらの国にも属さないしんの森として、人間が立ち入ることはめつにない。

「見えてきたわ。あの光の場所へ向かって」

 その真っ暗な森の中に、ほんのりともる魔法の光を見つけた。その光を目指してペガサスとともに降下していく。あらかじめ見つけておいた森の小屋に、目印のために魔法のあかりを灯しておいたのだ。私にしかにんできないのでほかの者に見つかる心配はない。

 私は小屋の周囲の草地にペガサスとともに降り立った。窓かられる光に照らされた草地は、長年放置されていたのでほうだいだ。

 小屋とはいっても数人で暮らせるほどには大きい、ダークオークの木で造られた古い平屋だ。今日からここで暮らすことになる。

「草がぼうぼうだわ。畑を作るならくさりからやらないといけないわね。……乗せてきてくれてありがとう、ペガサス」

 ペガサスは返事をするように高くいなないて、夜の闇の中へと消えていった。召喚した幻獣とはいえ、いなくなると一気にさびしくなる。どくには慣れているけれど。

 家のとびらを開けて中へ入り、居間の奥にある扉を開けてしんしつへと足を運んだ。寝室に置いてあるドレッサーのにポスンと座ってふぅと溜息をく。

流石さすがつかれたわ……。っと、グリモワールを解除しなくちゃ」

 私を包む漆黒のドレスがシュルシュルと消えて、元々着ていた青のワンピースが現れた。黒の書が私の中へともどっていく。

 後ろで編んでいた三つ編みをほどいて頭を左右に振ると、少しだけくせが付いてしまったぎんぱつがサラリと背中をおおう。

 私はけていた眼鏡を外してドレッサーの上に置いた。そして頬に乗せていたしようを綿布で落としていく。

 目の前の大きな鏡を見ると、そこにはそばかす一つない雪のようなはだをした自分が映っている。長い銀色のまつが、大きくあざやかないろひとみかげを落としていた。ぱっちりと大きく、少しだけり上がった目がじっとこちらを見つめている。

「もう目立たないようによそおう必要はないわね。この眼鏡にもお世話になったわ」

 眼鏡を掛けると、わずかに色の付いたガラスの補正で緋色の瞳が茶色く、実際の大きさよりも小さく見える仕組みになっている。自作の特製伊達だて眼鏡めがねだ。度は入っていない。

 確かに地味かもしれないけど、それほど見た目は悪くはないと思う。ともあれこの装いのおかげで誰にも興味を持たれずに済んだことは幸いだった。

「黒の書を纏っているときは『呪われた魔女』に見えなくもないわね。あの表現、きらいじゃないわ」

 浴室に向かったあと、お湯を張ったバスタブにラベンダーを散らし、着衣をいでゆっくりとかる。そして長めの入浴を済ませて寝室に置いてあるベッドに横になった。レオナール殿でんのこと、ミレーヌのこと、お父さまのこと……。

くやしさ、いかり……そんなんじゃない。ただ……少し悲しかっただけ)

 まぶたを閉じていろいろと思い浮かべていたらいつの間にか深いねむりに落ちてしまった。

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