春に触れるすべ

 気味が悪い、朝の薄暗い桜の下で、湿った君の唇だけが紅い。柔らかなはなびらが散り、頬に帯びたかすかな色は燃えて、薄桃色の空になった。甘い芳香に酔い、詩の見せる言葉の妙味に溺れる僕はおそらく、君を書くには能わず、ただ言葉をいたずらに吐きながらも意味もなく生きるほかないのだ。

 夢だと悟り、嫌悪感と嘔吐感を伴いながら、朝の太陽を憎悪した。君不在の世界で日の光はぎらぎらと照り、瞳を貫くように鋭い。裏切りだけが、胸の奥で密かに燻っている。

 疑いが岩を打つ水のように穴をうがち、応じることのない君に問うたび、ぽちゃん、ぽちゃん、と澄んだ音が聞こえた。はやく殺してくれ、と願い喘ぐ僕を揶揄するように、朝の君はゆめうつつを行き来しながら風に混ざって笑いかけた。主体は客体に飲まれ、僕は君に予め含まれ、中心を逸れた肉体はやがて朝靄になって、地につかない愛だけが、大地の表面をゆったりと慰撫する。現の生温かい、血の味が口に広がる瞬間の気持ち悪さに似た物憂さが、じわりと地平から湧き出してくる。僕は朝が憎い。具体と抽象の混淆する薄明を散らし、君を僕から遠ざける朝が憎い。追い抜いたつもりが永遠に置き去りにされ、言葉を尽くしたところで一度口にした「さよなら」が覆されることはないのだと、逍遥を許さぬ直線的な刃が何度も僕を突き刺す。血に濡れた幻想は、たやすく火に焼かれ、失われる。屑籠捨てたはずの過去が木精になって、いつまでも耳の奥で響いている。昨夜の僕の、肉体の一部の憤怒にも似た迸りを、朝が嘲笑う。夢の中で君に触れた感触が、リアルのもたらす確実性に追い立てられる。僕は朝が憎い。

 駅までの道の途中の八重桜が、重たい花びらを幾重にも重ね、濃厚なピンクとぼやけた空の青灰との地と図の対照の明瞭さに圧倒され、釘付けになった。君がいつだかそこで立ち止まって言った「きれいだね」という平凡な言葉だけが詩なのだと、古い僕は知り得なかった。今となっては触れられない君の言葉は、かつて誰かが口にした、陳腐なクリシェに満ちた、つまらない言葉ばかり。

 闇の中にはなにもないから、中心を埋める言葉はどこにもなくて、遥かなる空にただよう不遜で傲慢な雲の見下ろすおぼろな眼差しのように、茫洋と続く惰性の地平を見やる君のひとみは濁っていた。意味のないありふれた言葉で沈黙を埋め、自分以外のなにかを満たすことを期待した。足りない。君は足りなかった。不完全であることにあらがうためだけに選んだ終着点は、やがて僕の自然が赴く場所でもあることもまた、君は覚えていたはずなのに。


 なぜ?


 数多の鮮やかな花びらが散り、現実感のある輪郭を持った感触が僕の頬を撫でた。君がつぶやいた、語った、語りかけた言葉の無根拠で空虚でどこかだらしないくらいの言葉を刻んで、朝の湿った、少し冷たい風に混ぜて、遠くへ流してしまいたい。まだ花を落としてはいない。春はどうやら続く。真新しい制服姿の学生が真横を過ぎゆく。光と影は速度を増して、なにもかもを置き去りにする。なにもかも。記憶も。大切な人も。時間も。「きれいだね」も。そしていつか「さよなら」も。置き去りにする、春に、僕は君に触れた。


 耳障りな踏切の音に気づき、ようやく僕は、君を追いかけた。

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